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2018-05-23
放火の概念だけあって実体のない夢
引き続き『新釈 遠野物語』(以下、『新釈遠野』と略)を読んでいる。
陰惨な話になると予告された第2話「川上の家」が終わり、いまは第3話「雉子娘きじむすめ」。

第2話との関連で夢を見た。
『新釈遠野』の登場人物が夢を見たのではなく、いまこのブログ記事を書いているわたしが見た。
河原の水際から孝太郎がこちらを見ている。
姿かたちは水木しげる描くところの河童に似ている。というか、ほぼそのまま。
姿勢は直立で、正面をこちらに向けているが、こわばった感じではない。力が入りすぎるでもなく、抜けすぎるでもない自然体。わたしを注視するでもなく、まして睨みつけるでもない。なんとなくわたしを見ているだけ。

そのあと、イメージもストーリーもないまま放火の夢になる。
イメージもストーリーもないのだから、放火の概念だけあって実体のない夢なのだが、とにかくその放火に孝太郎が関係しているらしい。それ以上の展開はなく、ただ漠然と放火と孝太郎が結びついている。

『新釈遠野』を少しずつ読んでみようと思いついたとき、「夢のなかで物語が先行したりすると楽しい」と書いたが、意外に早く夢に出てきた。じつをいえば、夢のなかで物語が先行云々はただ言ってみただけなので、夢に出てきたこと自体が意外。
2018-05-21
ニーチェの自由意志否定論
自由意志というものが有ると考える者と無いと考える者がいる。

自由意志が有るとする論者は、強くそのことを主張する。そのために何冊も本を書く哲学者もいる。サルトルなどは哲学書やエッセイだけでは済まず、『自由への道』と題する長編小説まで書いた。

自由意志が無いとする者は、強くは主張しない。ほとんど主張しなかったりもする。
無いものは、無いし。
無いものを無いと言い張っても、甲斐はないし。
そんなふうに思って主張しないのだろう。

その中でニーチェは、強い語調で自由意志が無いことを主張する。
そんなものが有ると考えるのは、泥沼にはまった自分を、自ら髪の毛をつかんで引き上げようとするようなものだ、と。

自己原因カウサ・スイ》は、これまでに考え出されたもののうちで最も甚だしい自己矛盾であり、一種の論理的な強姦であり、不自然である。しかし人間の常軌を逸した誇負は、事もあろうにこのノンセンスに深く恐るべく巻き込まれてしまった。遺憾ながらなお依然としてなお半可通はんかつうの人々の頭を支配しているあの形而上学的な最上級の意味における「意志の自由」への要望、自己の行為そのものに対する全体的かつ究極的な責任を負い、また神・世界・祖先・偶然・社会をその責任から放免しようとする要望、けだしこのような要望は、まさにあの《自己原因》であろうとする以外の何ものでもなく、ミュンヒハウゼンそこのけの無鉄砲さをもって、虚無の泥沼からわれとわが身の髪の毛を掴んで助け出そうとするのと同じである。

引用は木場深定訳『善悪の彼岸』から。
自己原因(causa sui)とは、それ以上さかのぼることのできない究極の原因。
ミュンヒハウゼンは、「ホラ吹き男爵」とあだ名されたドイツの貴族。
まとめれば、自己原因とはホラである。意志の自由を肯定することは、そのホラに同調することである。

ニーチェのこの主張にはつづきがある。
誰かが「自由意思」という概念を頭から一掃できたら、その人には「不自由意志」の概念も頭から払拭するよう願いたい、と。
2018-05-20
これは『風の又三郎』とはずいぶん違うのだよ。
話は進んで、今は第2話「川上の家」。犬伏老人の子どもの頃のことが語られる。

老人は小学校の3年生。
ある朝、入学したばかりの弟と桜並木を学校のほうへ歩いていると、不意に自分たちの前をひとりの子どもが学校に向かって歩いているのに気づく。

不意に、といったのは、その寸前まで、わたしたちの前には誰もいなかったからでね、桜の木のかげにかくれていたのか、橋野川の河原からかけあがってきたのか、それはとっさにはわからなかったが、とにかく気がつくと男の子がひとり、わたしたちの前を歩いていたのだ。

それが転校生の川辺孝太郎だった。

孝太郎は分教場からきた、と教師が教室で紹介する。
「橋野の奥の赤柴分教場」と具体的だが、そのとおりかはまだ不明だからおくとして、転校生がどこから来たか、なぜ来たか、まとめていえば転校生の出自が語られることは、小説などではふつうのことだが、現実世界ではふつうではない。どちらかといえば、現実世界ではあまり語られない。そのような基準からいえば、孝太郎は小説の登場人物だから、彼の事情もいずれ語られる可能性が大きいが、今はまだわからない。
ともかく孝太郎のプロフィールが次第に明らかになる。勉強は苦手だが、運動は得意で、性格も良い、など。
やがて話が動き出す。
老人兄弟が手品をやってみせる。
「さあ孝ちゃんもやれ」と言われて、孝太郎はハンカチから仔犬を出してみせる。
それから兄弟は自分たちのやった手品の種明かしをする。

手品にはトリックがあると知ってうろたえる孝太郎。
彼はトリック無しで手品をやってしまったのだ。
そして、不幸な──まだわからないが、たぶん孝太郎にとって不幸な──展開が予告される。

「その子とみんなが仲よくなったころ、突然、その子はまた別の学校へ転向していってしまう。結末はそうなるんでしょう」
「はなしに茶々を入れてもらいたくないものだね」
 老人は強い語調で言い、ごしごしと胡麻塩ごましおひげをこすった。
「いまから保証しておくが、これは『風の又三郎』とはずいぶん違うのだよ」
「どう違うのです」
「もっとこう……、なんというか、もっと陰惨な、辛いはなしなのだよ」
2018-05-19
これでも昔は玄人、プロのトランペット吹きだったんだがね。
井上ひさしの『新釈 遠野物語』を少しずつ読んでいる。

語り手の「ぼく」は、小説がはじまってまもなく犬伏いぬぶせという老人と知り合う。
老人は物語の語り手という設定。彼の話を「ぼく」が聞いて記録したものが『新釈 遠野物語』。

「ぼく」と犬伏老人の会話。

「トランペットがお上手なんですね」
 縁が残らず欠けてのこぎりの目のようになった茶碗からお茶をすすりながらぼくは言った。
「詳しくはわかりませんが、素人離れしていると思います」
 老人はけらけらと笑った。
「素人離れしているはよかった。これでも昔は玄人、プロのトランペット吹きだったんだがね。東京の或る交響楽団の主席トランペット奏者だったのさ」

犬伏老人は、「ぼく」が勤める釜石国立療養所と谷川をはさんで向かいあう山腹の洞穴に住んでいて、毎日きまって正午になると穴から出てきてトランペットを吹く。それで「ぼく」がはじめて老人を訪ねたときに、このような会話が行われた。
老人の話が事実なら、彼はなぜこんな山中で暮らしているのか。
「知りたいかね」と犬伏太吉の語りだす話が、第1話「鍋の中」の主要部となる。
2018-05-19
時間と空間の混同など
ベルクソン『時間と自由』(中村文郎訳)の序言に、

或る種の哲学的問題が引き起こす乗り越えがたい困難の原因は、本来は空間のうちに場所を占めない現象を空間のうちに執拗に併置しようとする点にあるのではないだろうか。

とあって、ほんとにこれだなあと思う。
哲学者も思想家もこれをやる。
人なら誰もやる。
頭を使わないのが日常な人もこれをやる。

論争の舞台装置となっている粗雑なイメージを取り除けば、論争に決着をつけられるということも往々にしてあるのではないだろうか。拡がっていないものを拡がっているものへ、質を量へ翻訳したために、立てられた問題そのもののうちに矛盾を引き入れたわけだから、提出される問題解決のなかに矛盾が再び現れることになったとしても何ら不思議なことではあるまい。

人間はこの種の認識上の誤操作をいつもやっている。
例で言えば、時間と空間の混同など。
広く言うなら、関数の誤適用。計算は合ってるとしても。
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