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2018-04-23
文学の拾い物
平凡な日常の設定を平凡なまま文章で描いて、とくに具体性を盛り込むこともなく、想像力を働かせることもなく、技巧をこらさず綴っても文学になる例。

朝お父さんが出勤します。その姿は、玄関から出て道のかなたに消えてしまいます。彼は消滅したのでしょうか? もちろんそんなことはありません。家族の視野の外に出ただけです。家族のお父さんについての認識はここで中断されます。しかし家族はお父さんが夕方にまた姿を見せるという予想をもって夕食の仕度をしますし、雨がふりだせば傘をもって駅へむかえにいきます。夕方、お父さんの姿が玄関にあらわれても、無から有が生じたわけではありません。

掌編というにも短かすぎる。散文詩というようなものでもない。たんに「文」というしかなさそうだが、ジャンルはともかく、会社に出かけたお父さんが家族の視界から消えたことをもって、
「彼は消滅したのでしょうか?」
と問う運びがいい。意表をつかれて、つい笑ってしまう。最後の
「無から有が生じたわけではありません」
でまた気持がほころぶ。今朝、道のかなたへ消えたお父さんが、夕方、玄関に姿をあらわす。でもそれは、無から有が生じたわけではありませんというので、思いがけず文学を拾ったような気になれる。

引用は三浦つとむ『弁証法はどんな科学か』(講談社現代新書)から。引用箇所の続きを少し先まで出しておくと、

お父さんの姿が玄関にあらわれても、無から有が生じたわけではありません。視野の外から視野の中へはいってきたにすぎません。彼は朝出ていったのと実体的に同一の人間です。

客観に終始しながら、それでも漏れだす詩情とでも言うか。
価値観や感情を盛り込まなくても文学は成り立つ。感情が歌われてないからといって、非人間的なのではないし、虚無でもない。むしろ楽しい、気持がほぐれる。喜怒哀楽を排しても成り立つのだよ、内面なんかなくてもいいのさ──と作品が密かなメッセージを送ってきているかのようで、文学のひとつの理想ではないだろうか。
本を読んだのは弁証法について考えたかったからだが、その件はあらためて。
2018-04-20
永劫回帰のシミュレーション


「放棄したものではなく、実らせた果実で人は評価される」
とウィリアム・バロウズが言っている。
たしかにそのとおり、とうなずける人は幸い。
というのも、「実らせた果実で評価される」と言えるのは、バロウズが成功者だから。
人生をやりそこなった人──たとえば、あなた──だったらどうするか。「何をやり遂げたかで評価される」などと、喜んで言えるだろうか。否だろう。自嘲的にしか言えないだろう。
人生で何もやり遂げられなかった人。
失敗ばかりしてた人。
そこそこ誇らしく(それが勘違いだとしても)生きていたのに、土壇場で何もかもダメにしてしまった者。
人生といえるようなものが始まる前に、この世を去っていった者たち。
釈明の能力も機会もなく吊るされようとしている者。
死の床でただ天井を眺めるしかない残り時間。挽回は決定的に不可。

そういうやりそこなった者たちに永劫回帰が効く。
オーギュスト・ブランキの描いた永劫回帰のイメージでは、この宇宙には何億、何十億の地球があり、それぞれの地球に以前の出来事が回帰してくる。今現在の出来事もやがてどこかに回帰してくる。
無限の広さの宇宙を有限種類の元素で埋めるのだから、必然的に出来事は繰り返され、そのバリエーションもまた無数。それゆえ、私がこの地上でやりそこなったことも、別の地上ではほかならないこの私によってやり遂げられる。
私がしたかったこと、私がすべきだったことも同様。
私がやり残したことなど、どこにもない。
いや、やり損なったこと、やり残したことは今もある。現に何億もの地球上で私はあいかわらずやり損ない、やり残しつづけてるのだが、そんなことは問題ではない。ほかの地球では、私がそれらを次々にやり遂げているのだから。

何十億という地球の上で、我々が今はもう思い出にしかすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか? 瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の影を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってきたし、味わい続けるだろうと想像することもまた、別の楽しみではないだろうか? 彼らもまた明らかに我々自身なのだから。 ──ブランキ『天体による永遠』(浜本正文訳)

私が愛すべきであった人や物を、私はどこかですでに──そして、これからも──愛しているのだし、企てたことどももすべてどこかで実現している。なんの不足もない、すべては必ず補われるのだから。そんなふうに永劫回帰を思い描くことで、ブランキは自らを慰めたのではないか。

ところで、はじめのバロウズだが。
没後に出た短編集『トルネイド・アレイ』(清水アリカ訳)の一篇に、ローマの将軍スラの墓碑銘が引かれている。

死ぬ前に、訪ねておくべき者が幾人かいる。晴らすべき恨みが幾つかある……それが好意であれ、悪意であれ、受けた施しには充分に報いてやらねばならない。

バロウズでさえ、「晴らすべき恨み」をかかえたまま死んでいったのか。
こんな碑銘を引いたからには、そう考えないわけにはいかない。
だが、そんなことがあっていいのか。バロウズほど自由に生きた者に、恨みを残して死ぬ権利などあるのか。
彼ほど勝手気ままに生きた者でさえ恨みを残して死んだのだとしたら、バロウズにあらざる凡百はどれほどの恨みを残したらいいものか。
けれども、バロウズも永劫回帰を必要とする一人だったとしたら、思い当たることがある。
カットアップやフォールドインの手法による彼の作品は、永劫回帰のミニチュア版ではないか。
『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』三部作において無用なほどに繰り返される人物の分裂や多重化も、文学による永劫回帰のシミューレーションではなかったか。
2018-04-11
データはある──という夢
03:00目覚め。03:20起床。
物語論の本からテキスト主体の説明図を手作業でコピーした。モニター上での表示がうまくいかないが、あとは目が覚めてから調整すれば良し──という夢。

とりあえずデータは確保した──と、なぜ思い込んでしまうのか。

データは手元のディスクにある。
データはネットで公開されていて、いつでもアクセスできる。
資料は本に載っている。
その本は自室の本棚にある。または図書館にある。
いつも夢の中でやってる勘違い。
目が覚めてみるとデータはどこにもない。
データは消えても大丈夫、概要は頭に入っているのでじっくり考えれば復元できる──というパターンもあるが、これも夢想。頭の中には何も残ってない。どんな分野の情報だったかもすでに不明。

昨日、夏目漱石『彼岸過迄』を読了。
よくわからず。読みはじめたとき、頭の中の文章生成機能──または、おしゃべり回路──を刺激された感じがあって、終わりまで読み通すよう自分に義務付けたのだが。
『彼岸過迄』がおもしろくなかった理由のひとつは、この小説が青年の悩みを描いていること。
青年の悩みはつまらない。
本人には深刻でも、はたから見たら「なんだかな〜」と。
明治末期から大正期、人間はどう生きるべきかとか、真実の愛とかをテーマにした小説や戯曲が多く書かれたが、たいがいは底が浅く、『彼岸過迄』にもそういう面がある。
おしゃべり回路が刺激された件は、追体験らしきもの起こらず。別の原因だったのかもしれず、宿題。
2018-04-09
人はいつ日記を書くか
02:20目覚め。某投手、妻が実妹と判明して離婚──という夢を見ていた。
うとうとした後、漱石『彼岸過迄』の続きを読む。
昨日は前田愛『都市空間のなかの文学』に掲載されている小川町周辺の古い地図をたよりに、主人公敬太郎の行動をチェックしながら読んだ。『彼岸過迄』が書かれた明治時代には、まだ神田川にかかる聖橋がなく、小川町から聖橋に向かう自動車道路もない。このことが地理の理解を混乱させる。
今朝は敬太郎が松本恒三に会いにゆく段で、矢来、目白台、早稲田の位置関係がイメージできなくて驚く。長年暮らした生活圏のうちなのに。
04:00起床。現在05:20、食事を終えてこの記事を書いている。

ところで、人は一日の内、いつ日記を書くのか。
一日の出来事をまとめて書けるのは、就寝前か翌日くらいしかない。
就寝前は眠いから私には無理。
翌日になってから書くのも、記憶力が悪いから無理。
他の人もおおかたは同様だろう。結局、ほとんどの人は日記を書くことができず、リアルタイムで残したメモが日記代わりに残る。写真やメッセージも。
2018-04-08
断章的
ベンヤミンは何をしようとしてたのか。
わかるかと思って、ちくま学芸文庫の絵入り解説書『ベンヤミン』を読んでみたが、やはりわからない。
けれども、引用されているベンヤミンの言、

知的傾向と心的傾向と政治的傾向を、ひとつの拘束衣のなかに押し込めてしまう必要はない

あるいは、

私のスタンスは最も重要なことではつねにラディカルに、決して首尾一貫にとらわれずに、振る舞うということだ

などから、何をしようとしていたかはわからなくても、どのようにしようとしていたかは知れる。
ベンヤミンは断章的にやろうとしたのだ。
そして、断章的であることを実践したのが『パサージュ論』。

で、断章とは。
断章の本質は部品であること。それも、特定の目的を持つシステムの特定の役割に特化された部品ではなく、汎用的に使える部品。電子回路の素子のような。
そして、断章的にやるとは、用意した体系に沿って部品を開発するのではなく、使えそうな──あるいは関連がありそうな──部品(断章)を一つずつ──どちらかといえば思いつきで──作っていくうちに、結果として何らかの体系が浮かび上がってくるような仕方。
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