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トマトは種を抜いてから食え
なんて今ごろ教えられても
すでにトマトは、腹の中で芽を出して
根も張って、とっくに手遅れ
- トマト男
2012-12-27
島原遊郭、島原狂言、島原戦争
『大菩薩峠/百』のうち第3巻「壬生と島原の巻」を読んだ。残念ながら、100分の1縮小版に登場人物の消息はなかった。
今は大正時代。島原はさびれて、「日本色里の総本家」の面影はない。しかし、あなどって旧家を訪れると、一見の客として丁重に拒絶されてしまう。――こんなことしか書いてない。感想も分析もできないので、かわりに島原について少し。

島原というのは京の島原遊郭のこと。
- 嶋原 - Wikipedia
この記事にあるように、「島原」の名称の起こりを、この遊郭の引っ越し(1641年)が島原の乱(1637〜38年)の騒ぎを思わせたからとする説があるが、そんなことではない、それでは事実を矮小化してしまうとして、演劇評論家の武智鉄二がこんなことを言っている。

批判者側の民衆としては、歌舞伎を通じて、島原の乱に声援を送りました。島原狂言、島原歌舞伎といわれるものがそれです。これらは表面的には、京の島原での傾城買いのふりをしながら、島原の乱の民衆歌をうたったり、伝えたりしたのでした。島原ものといえば歌舞伎の代名詞とされた時代がありましたが、それがこの時期のものなのです。『髪切島原』『坂田島原』『八島島原』『安宅島原』などの外題が伝えられています。
しかし、この島原ものも、後には近松門左衛門の『傾城島原蛙合戦』のように、天草四郎や天竺徳兵衛などをキリシタンバテレンの妖術使いにしてしまい、歌舞伎狂言に忍者もののジャンルを残すだけのことになりました。島原の乱に対する庶民の評価が、幕府の宣伝や統制に服して、次第に演劇が為政者の側の発言を伝達する機関になり下っていったことがこれでわかります。
- 武智鉄二「歌舞伎はどんな演劇か」

「島原」という名称には、島原の乱への民衆の共感が反映している、と。
近松作品でキリシタンバテレンの妖術使いにされてしまったものたちは、初期の島原狂言では「農民革命軍の指導者」として登場したにちがいない、とも言っている(「伝統演劇の朗誦法」)。
資料が示されてるわけではないが、信じてみたくなる説である。

この説も楽しい。洗馬山には暗殺された幕府要人の死体が隠されている!!!

  あんたがたどこさ
  肥後さ
  肥後どこさ
  熊本さ
  熊本どこさ
  洗馬さ

というスペイン歌唱の筋をひくわらべうたが、肥後の熊本の人を主題にとらえてきたというのは、島原農民軍への援軍の存在を前提において考えてみなくてはならないのではあるまいか。そうして、洗馬山で木の葉に覆われている悪い狸(洗馬川は熊本城周辺にある。したがってこの狸は、直接に領主を指したものであったかも知れない)というのは、実は暗殺された幕府の要人の死体が隠されていることへの弘報的な言い伝えだったのかも知れない。
- 「歌舞伎はどんな演劇か」