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2015-12-26
債務不履行者
パリの監獄。自分は看守に付き添われて廊下を歩いている。
監房の窓から知った男の顔がこちらを見る。
知り合いにはちがいないが名前が思い出せない。名前が思い出せないくらいだから、ろくな知り合いではあるまい。そうはいっても素通りはしにくいから、声をかけた。
「なんで入ってる?」
「債務不履行で入ってます」
「借金が返せなかったということか?」
「そのとおりです。不面目なことで」
「踏み倒すつもりだったのか」
「とんでもない。こんなところに押し込められてなきゃ、稼いで返しますよ」
「へんな話だな」
男は借金が返せなくて牢に入れられた。その結果、ますますカネは返せない。この様子では刑期が満ちて外へ出ても、やはりカネは返せまい。するとまた入獄。そうして入獄と出獄の繰り返しが死ぬまでつづく。死ねば借金は永久に返せないから、そこではじめて債務不履行が確定する。ずいぶん理不尽な話ではないか。
「ええ、へんな話で」と男もうなずく。
「共犯はどうした?」
「共犯? そんな者はいません。あたし一人の借金です」
「そんなはずはあるまい。共犯者に逃げられたのか」
「いませんよ、共犯者なんて。女房の金遣いが荒くてこんなことになったのは確かですが、あいつが共犯というわけではない」
妻の金遣いが荒い。それで思い出した。
「ルイ王みたいはやつだな」
「まさか。あたしが国王陛下だなんて、それはありません」
そりゃ、そうだ。人間おちぶれれば態度も卑屈になるし、見かけもみすぼらしくなる。この男がルイ16世だという可能性だって、いや、それはさすがにない。国王ならもっとましなところに閉じ込められてるだろう。幽閉とかいうやつだ。
「おい、行くぞ」と看守が低い声で言う。すごみを効かせたつもりらしい。
「うるせえ! だいじな話なんだ。おとなしくしてろ」と脅し返すと、看守はそっぽを向いて黙った。
「共犯はどうした?」と、同じことをもう一度きく。
「だから、そんなものは──」
「共犯はいないっていうのか。じゃあ言い直すが、主犯はどうした?」
「人聞きの悪いことをいわないでください。共犯だの、主犯だのって、まるであたしが誰かとつるんで、詐欺でも働いたみたいじゃないですか。あたし一人で借りたんですよ」
「一人で借りただと? そんなことはできねえ。何をかばってるんだ」
「だから、女房は関係ないって──。あいつが共犯とか、主犯とか、そんなことは金輪際ありません。そりゃ、金遣いの荒いのには泣かされましたがね、それさえなけりゃ、いい女房だった。けっこうまぶいやつで、自慢の女房だったんすよ」
やはりルイ16世みたいなやつだと思った。そのうえ馬鹿だ。
借金は貸し手と借り手がいて成り立つ。貸し手が貸さなければ貸借関係も債務不履行も生じない。つまり貸し手が主犯なのだが、そこのところが男はわかってない。妻が浪費家だとか、美人だとか、そういう話ではない。
「おまえ、ブルジョワか」と自分はきいた。
「へっ? なんですか、そのブルなんとかというのは」
「借りたカネは返さなくちゃいけないと思ってるやつのことだ。おまけに利子まで付けてな」
「えっ、えっ」と驚く男。「カネって返すものでしょ」
「いや、返さなくていい」
「ええ〜っ」
「いいか、考えてみろ。おまえにカネを貸したやつのことだが、そいつがなぜカネを貸したか」
「あたしが貸してくれと頼んだからじゃないですか」
「ほう。するとおまえが頼めば誰でもカネを貸してくれるのか」
「う〜ん」と男は考え込んだ。それほど難しいことなのか。「そういえば、貸してくれるやつと貸してくれないやつがいる」
「そういうことだ。じゃあ、なんで貸してくれるやつと貸してくれないやつがいるのか」
「う〜ん」と男はまた考えこむ。
「答はかんたんだ。カネが余ってたからだよ」
「余ってたのか」
「自分の身になって考えてみろ。このカネがないと今月は飯が食えないというとき、それでもそのカネをひとに貸すか。ひと月も飯が食えなかったら、死んでしまうぞ、おまえ。それでも貸すか」
「貸さないな」
「そうだろ。ところが、おまえにカネを貸したやつはカネが余ってた。つまり、要らないカネだ。だからおまえに貸した」
今度はわかりが早かった。
「くそ〜っ」と男はうなった。「あたしは要るカネを借りたのに、あいつは要らないカネをよこしたのか」

ルイ16世の処刑は見に行けなかった。自分はまだ刑期が明けず、16世がギロチンに掛けられたことは看守からきいた。
ここに連れて来られたとき、監房の窓越しに話した男のことはおぼえている。あいつがルイ国王だったということは、まあ、ない。けれども、借金は返すものというインチキなルールにうまく対応できなかった点で、似たような運のやつだったとは言える。
借りたカネは返す。そんな決まりはいつの時代にできたのか。いや、それ以前に、カネを貸すなんていうことが、いつから許されるようになったのか。要らないカネなら、要るやつにくれてやるのが人間としての筋だろうに。