Magazine Oi!
2016-12-01
ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ
ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ
ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ

どんな言葉も、文句も、名前も、繰り返せば呪文になって
だから、ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ
朝の目覚めぎわに、ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエと呟いていて
おれ、黒人てわけじゃないのに
おれ、救世主なんか求めてないのに、いらないのに
ジャマイカ生まれとかジャマイカ育ちとか
そんなわけではないというのに、ハイレ・セラシエ

ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ
ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ

さて、そのハイレ・セラシエ、その I 世とは、
Haile Selassie I、1892年7月23日-1975年8月27日
エチオピア帝国最後の皇帝、在位1930年11月2日-1974年9月12日
エチオピア南部のショア地方の貴族の子として生まれ、
血縁上はアドワの戦いで名を馳せた英雄メネリク II 世の従兄弟の子。
幼少のころより聡明で、若くして各地の州知事を歴任、
記憶力が優れ、晩年に至っても重要事項について全てを暗記していて、
メモの類を一切必要としなかった。

それからさらにいろいろあって、もちろんその前にもいろいろあって
即位前の名をラス・タファリ・マッコウネン
その名前を取って崇拝者たちのことをラスタファリアン
ジャマイカを中心とする黒人運動ラスタファリにおいて、ハイレ・セラシエ I 世こそ
救世主プレスター・ジョンの再来であると
神(ジャー)の化身であると
地上における三位一体の一部なのだと
「黒人の王が即位する時のアフリカを見よ。その人こそ救世主となるだろう」
そんな予言があって、その3年後に即位
アフリカ大陸を統一し、離散した黒人のアフリカ帰還を告げる救世主として
南北アメリカ大陸の黒人たちから崇められ

ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ
ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ

ところでどこかに、ハイレ・セラシエ II 世がいたと思うが、
ミュージシャンの名前だったか、あるいはアルバムの名前だったか。
いや、そんなことにかかわりなく、I 世がいるのだから II 世だっているはずと、
思い出そうとしたり調べたりするうちに、
ああ、それだったのか。
これだったとは。
いや、II 世ではなく、話は I 世にもどるのだが、
1966年、ハイレ・セラシエ I 世はジャマイカを訪れる。
民衆の熱狂的な歓迎に、
皇帝自身が動揺するほどだったとか。
その後、エチオピア南部の街シャシャマネのマルカウォディャ地区に、皇帝からその地を与えられたジャマイカ移民約200人が、エチオピア人のラスタファリアン約200人と共に住むと聞き、
ならばと個人史をたどってみたら、
沖縄を出たのがいつだったか、あまりに昔すぎて思い出せないが、
それからたぶん、横浜の港から移民船で出航して、
どこをどう巡ったか、やがてジャマイカに上陸。
そこからさらにエチオピアへと、
運やら人やらに誘われるまま、流されるまま、
住みついた先が、上記マルカウォディャ地区という。
どこかに──いまもエチオピアに?──そんな一生をやった者がいて、
今朝の寝床でハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエと、
そいつがおれに、呟かせたのではなかったか。

そして、そんな騒然とした雰囲気の1974年9月2日早朝、
皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に死去。
後のエチオピア初代大統領メンギスツによる暗殺という。

ハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエ