Magazine Oi!
トマトは種を抜いてから食え
なんて今ごろ教えられても
すでにトマトは、腹の中で芽を出して
根も張って、とっくに手遅れ
- トマト男
2016-12-04
記事タグに「乱視」を追加
自分は自分の一人称に「自分」を使うことが多い。
でも、一定しない。自称に「自分」を使うと、他人の自己をどう表現するかで迷うことになるのも一因。

きのうの記事では「おれ」を使った。
かの乱視族の、おれも一員に違いない。
書いた後で、居心地の悪さみたいのが残った。
でも、「わたし」に変えても同じことだろう。やはり「自分」にすべきだったか、等。

これまでに使ったことのある自称。
自分、おれ、俺、わたし、あたし、わたくし、私、ぼく、僕、その他。

なぜ、自称が定まらないか。
アイデンティティの不安定が主因であることは間違いない。

下層の若い男の子たちと話してると、自称に「自分」を使う子が多い。
自身の両親(または片親)のことは「親」と言う。
彼らも確たるアイデンティティを持てずにいるのではないか。
「親」という言い方も、親子関係の不確かさを思わせる。お父さん、お母さん、父、母、おやじ、おふくろ等なら、より親子関係の具体性が感じられるのだが。

Wikipedia を見てたら、レゲエの歌詞についてこんなことが書いてあった。
非一貫性/意識の二重性
レゲエの歌詞には「ルードボーイ」、「ラガマフィン」、「ギャングスタ」、「バッドマン (en)」など不良や悪漢を意味する語がしばしば現れる。ルードボーイとラスタは必ずしも対立する概念ではなく、実際には多くのアーティストがルードボーイであり同時にラスタでもあるが、そのような非一貫性はレゲエの歌詞に頻出する主題の一つである。
例えばジミー・クリフの楽曲「ザ・ハーダー・ゼイ・カム (en)」では、曲の前半で生ある内の救済を希求しながら、後半ではむしろ死による救済を願う内容になっている。(中略)
しかしながら、アフリカン・ディアスポラと植民地時代の奴隷経験によって培われたこの非一貫性、二重性は必ずしも(特にジャマイカの)レゲエアーティストの中で矛盾として受け取られておらず、レゲエの歌詞の特徴の一つとなっている。
- レゲエ - Wikipedia

非一貫性、二重性。おれだけではないし、あなただけでもないわけだ。
この二重性は、先日書いた乱視性と似ている。もしくは同じもの。
一つのものが二つに見えたり、逆に二つのものが重なって見えたり。

というわけで、記事タグに「乱視」を追加した。