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2018-04-20
永劫回帰のシミュレーション


「放棄したものではなく、実らせた果実で人は評価される」
とウィリアム・バロウズが言っている。
たしかにそのとおり、とうなずける人は幸い。
というのも、「実らせた果実で評価される」と言えるのは、バロウズが成功者だから。
人生をやりそこなった人──たとえば、あなた──だったらどうするか。「何をやり遂げたかで評価される」などと、喜んで言えるだろうか。否だろう。自嘲的にしか言えないだろう。
人生で何もやり遂げられなかった人。
失敗ばかりしてた人。
そこそこ誇らしく(それが勘違いだとしても)生きていたのに、土壇場で何もかもダメにしてしまった者。
人生といえるようなものが始まる前に、この世を去っていった者たち。
釈明の能力も機会もなく吊るされようとしている者。
死の床でただ天井を眺めるしかない残り時間。
挽回は決定的に不可。敗者としてこの世を去ろうとしている誰か。

そういうやりそこなった者たちに永劫回帰は優しい。
オーギュスト・ブランキの描いた永劫回帰のイメージでは、この宇宙には何億、何十億の地球があり、それぞれの地球に以前の出来事が回帰してくる。今現在の出来事もやがてどこかに回帰してくる。
無限の広さの宇宙を有限種類の元素で埋めるのだから、必然的に出来事は繰り返され、そのバリエーションもまた無数。それゆえ、私がこの地上でやりそこなったことも、別の地上ではほかならないこの私によってやり遂げられる。
私がしたかったこと、私がすべきだったことも同様。
私がやり残したことなど、どこにもない。
いや、やり損なったこと、やり残したことは今もある。現に何億もの地球上で私はあいかわらずやり損ない、やり残しつづけてるのだが、そんなことは問題ではない。ほかの地球では、私がそれらを次々にやり遂げているのだから。

何十億という地球の上で、我々が今はもう思い出にしかすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか? 瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の影を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってきたし、味わい続けるだろうと想像することもまた、別の楽しみではないだろうか? 彼らもまた明らかに我々自身なのだから。 ──ブランキ『天体による永遠』(浜本正文訳)

私が愛すべきであった人や物を、私はどこかですでに──そして、これからも──愛しているのだし、愛しつづけるのだし、企てたことどももすべてどこかで実現している。なんの不足もない、すべては必ず補われるのだから。そんなふうに永劫回帰を思い描くことで、ブランキは自らを慰めたのではないか。

ところで、はじめのバロウズだが。
没後に出た短編集『トルネイド・アレイ』(清水アリカ訳)の一篇に、ローマの将軍スラの墓碑銘が引かれている。

死ぬ前に、訪ねておくべき者が幾人かいる。晴らすべき恨みが幾つかある……それが好意であれ、悪意であれ、受けた施しには充分に報いてやらねばならない。

バロウズでさえ、「晴らすべき恨み」をかかえたまま死んでいったのか。
こんな碑銘を引いたからには、そう考えないわけにはいかない。
だが、そんなことがあっていいのか。バロウズほど自由に生きた者に、恨みを残して死ぬ権利などあるのか。
彼ほど勝手気ままに生きた者でさえ恨みを残して死んだのだとしたら、バロウズにあらざる凡百はどれほどの恨みを残したらいいものか。
けれども、バロウズも永劫回帰を必要とする一人だったとしたら──。
そう考えると、思い当たることがある。
カットアップやフォールドインの手法による彼の作品は、永劫回帰のミニチュア版ではないか。
『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』三部作において無用なほどに繰り返される人物の分裂や多重化も、文学による永劫回帰のシミューレーションではなかったか。