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2018-05-09
ネット探偵の肖像 feat. ベンヤミン
探偵小説は19世紀なかばに都会の雑踏を背景に生まれた、とヴァルター・ベンヤミンの説。
E・A・ポーの短編「群衆の人」(1840年)を取り上げて彼が言うには、

遊歩者はポーにとって何よりも、自分の属する社会のなかで安心していられない人間なのだ。だから遊歩者は群衆を求めるのであり、この点から遠くないところに、遊歩者が群衆のなかに隠れる理由も求められるだろう。

すなわち、大都市の街路を歩きまわる遊歩者が、探偵小説における犯人のプロトタイプなのだ、と。
ポーの描く遊歩者は、たえず群衆のなかにまぎれ込もうとする。
なぜ隠れるのか、後ろ暗い気持があるからだろう、彼は犯罪者なのである──という推論から犯人が浮上し、犯人像の肉付けがはじまる。
では探偵小説の犯人が遊歩者から造形されたとして、もういっぽうの主役である探偵は何がヒントだったのか。
じつは探偵のプロトタイプも同じ遊歩者。
街路をうろつく者がかならず犯罪者なのではない。本来的には彼はただ見て歩くだけの人なのだが、観察者としてすごしてきた遊歩者が、なにかのおりに──たとえば挙動の怪しい人物を見かけて──、あり方を観察者から追跡者に変える。これが探偵小説における探偵の誕生。

ベンヤミンによる遊歩者=探偵のスケッチ。

誰もがいくらか共謀家めいたところを持っているテロルの時代には、また誰もが探偵を演じる立場になるであろう。そのことへの期待を最もよく膨らませるのは遊歩である。ボードレールは言う。「観察者とは、至るところでお忍び〔匿名性〕を楽しむ王侯である」。かくして遊歩者が、思いもかけず探偵となるとき、このことは彼にとって社会的にまことに好都合だった。それは彼の有閑生活を正当化したのだ。彼の無頓着は、たんに見かけ上のものにすぎない。その裏には、犯罪者を見失うことのない観察者の注意深さが隠れている。こうして探偵は、自分の自信にかなり広大な領域が開けているのに気づく。探偵は、大都市のテンポにふさわしいような種々の反応形式を育てあげる。彼は事物をさっと捉える。それによって、自分は芸術家に近い存在だと夢想することができるのだ。

かくして19世紀の作家は犯人と探偵の両方を手に入れたのだが、匿名の観察者が「思いもかけず探偵となる」とあるのは、現代のネットサーファーにもあてはまる。「彼にとって社会的にまことに好都合」、「彼の有閑生活を正当化」というあたりもサーファー=探偵のあり方にぴったり。「彼は事物をさっと捉える」、「自分は芸術家に近い存在だと夢想する」などもサーファー=探偵の性向としてうなずける。サーファー=探偵の判断は速い。的確でもある。速度と的の確かさ──それが勝手な自己判断だとしても──は素早く絵筆を振るう画家を思わせ、探偵を陶酔させる。私も芸術家なのではあるまいか。

次のような指摘もあり、 ジャーナリズム情報の利用も現代のネット探偵に通じる。
「この短編小説」とあるのは、ポーの「盗まれた手紙」。

この短編小説は、犯罪を暴くさいにジャーナリズム情報を利用することの原型プロトタイプである。ポーの探偵、勲爵士デュパンはここで、実地検証ではなく日刊紙の報道にもとづいて仕事をする。

というわけで、20世紀前半の思想家ベンヤミンがインターネット時代の犯罪と探偵のあり方を予見していた──とでも締めくくれるとおさまりがいいのだが、そう割り切れない筋もあるので、付記。
19世紀と21世紀の二つの出来事の違い。
19世紀の都会の雑踏は探偵小説を生んだ。現実の犯人と探偵を生んだか否かはベンヤミンの論考からはわからない。小説の形でフィクションの犯人と探偵は生んだ。
21世紀のネット世界は、実際の犯人と探偵を日々生み出している。
19世紀の──虚構の──探偵は、正義を代表している。というより、正義を体現する人物として設定されている。
21世紀の現実の探偵は、自身とその支持者の側の正義を代表する。探偵と犯人──あるいは正義と不正義──の立場は第三者の評価で入れ替わる。

以上の引用はすべてヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション<4>批評の瞬間』所収)から。