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2018-05-16
トンデモな弁証法
弁証法と称するものの一部にトンデモなのがあるのではない。
近代以降の弁証法はすべてトンデモ。

エンゲルスによるヘーゲル弁証法のスケッチ。

ヘーゲルにおいては弁証法とは概念の自己発展である。絶対的概念が永遠の昔から──どこにかわからないが──存在し、それはまた現存する全世界の本来の生きた魂でもある。それは、『論理学』に詳しく取りあつかわれている、そして絶対的概念のうちにすべて含まれている、すべての全段階を通って、自分自身にまで発展する。それからこの絶対的概念は、自然に転化することによって自己を「外化」し、この自然のうちでは、それは自己を意識することなしに、自然必然性の姿をとって、新しい発展をし、最後に人間のうちで再び自己意識に達する。この自己意識は再び歴史のなかで粗野な形態から脱却し、ついにヘーゲル哲学のうちで再び完全に自分自身に帰る。

ヘーゲルにおいては、自然と歴史のうちに現われる弁証法的発展、すなわち、あらゆる曲折をもった運動と一時的な後退を通じてつらぬかれている、より低いものからより高いものへの進展の因果的関連は、永遠の昔から、どこでか知らないが、とにかくあらゆる思考する人間の頭脳から独立に進行している概念の自己発展の模写にすぎない。

引用は松村一人訳『フォイエルバッハ論』から。
どこか知らないところに──とエンゲルスは繰り返している──「絶対概念」というものがあって、その「概念」が弁証法に従って自己発展する。やがて自分自身にまで発展した「概念」は自己を外化する。その産物が「自然」(事物)である。これらの過程は人間の頭脳とは独立して進行し……
いや、ちょっと待ってもらいたい。概念が勝手に自己展開するなどと、ヘーゲルはほんとうにそんな説を唱えていたのか。エンゲルスがヘーゲルを不当に貶めているのではないか。
そう思って参考書をいくつか当たってみた。
疑惑は外れて、どうやらエンゲルスの不当な言いがかりというわけではない。

ヘーゲル自身が『精神現象学』のなかで次のようにいっているという。ただし、加藤尚武責任編集『哲学の歴史 7 理性の劇場』から孫引き。

この運動は普通は証明が果たすべきはずであったものを形づくっている。この運動こそ命題自身の弁証法的運動である。この運動だけが現実的に思弁的なものである。この運動を言い表すことだけが思弁的な叙述である。

人間が頭で考えて証明すべきはずのものが、命題自身の運動によって結果にたどりついてしまう。しかもこの運動だけが「現実的に思弁的なもの」なのだ、と。さらにまた、この運動を言い表すことだけが「思弁的な叙述」なのである、と。
先に「無敵の弁証法」を書いた時点では、弁証法というものを思弁の術として理解していたのだが、そんな素朴なものでも、生やさしいものでもなかった。あるときは人間の脳内で働き、けれどもそれは副作用的なもので、おもには外部の個々の事物に宿り、さらに外部世界全体にも宿り、また命題という抽象的なものにも宿って、それらを内部から駆動するというのだから、途方もない。

次の引用は今村仁司・座小田豊編『知の教科書 ヘーゲル』から。

弁証法という言葉はヘーゲルの著作や講義のなかにさほど登場するわけではない。しかし、弁証法はヘーゲル的な理性と観念論の立場と密接に結びついていて、ヘーゲル哲学にとってきわめて重要な意味をもっている。弁証法とは「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」であり、「あらゆる真の学的認識の魂」である。弁証法は単なる主観的な論理でも学問的認識方法でもなく、同時に存在するものの理法でもある。

ここでも「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」として存在するもの全ての活動原理であることが言われ、同時に「学的認識の魂」として認識主体であるとも述べられている。唯物弁証法(「無敵の弁証法」参照)を待つまでもなく、すでにヘーゲルの段階で弁証法は万能なのだ。
その唯物弁証法について、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』で次のように言っている。

われわれは、現実の事物を絶対的概念のあれこれの段階の模写と見ないで、再び唯物論的にわれわれの頭脳のうちにある概念を現実の事物の映像と見た。このことによって弁証法は、外部の世界および人間の思考の運動の一般的な諸法則にかんする科学となった。

せっかく「科学となった」と宣言したのに──というより、宣言したにもかかわらず──弁証法を「思考の運動」に関する科学にとどめておかず、「外部世界の運動」に関する科学として、ふたたび外部世界に適用してしまったのはどういうことか。これではヘーゲルの弁証法と変わらず、ただ口先で「科学である」と称したにすぎない。
唯物弁証法や唯物史観の非科学性は、エンゲルスの『空想から科学へ』を検討するかたちで言えると思うが、これは後日の宿題として、今はもうひとつだけ。

先に孫引きで借りた『哲学の歴史 7』にある一節、

ヘーゲルはのちにヘッケル(一八三四―一九一九)の名で有名になる「個体発生は系統発生を再現する(繰り返す)」という考え方と同じ構造が思想史で成り立つとすでに考えていた。

軽く話題にしてみたという程度の言及だが、この指摘は気になる。
ヘーゲルがじっさいにどう言ったかはわからない。
「個体発生は系統発生を繰り返す」とのヘッケルの説は、本来の生物学の分野ではその後否定されている。
ヘッケルは後代の人だから、ヘーゲルが個体発生云々と言うはずはないが、個体発生を観察して得られた結果をそのまま系統発生にあてはめることは、思想家がよくやらかす。ヘーゲルの弁証法がトンデモなのは、あるいは同様の混同に起因しているのではないか。
エンゲルスでいえば『家族、私有財産、国家の起原』の組み立てが同じ混同の産物だし、同書をモデルに書かれた吉本隆明の『共同幻想論』にも同じことが言える。