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2018-05-23
放火の概念だけあって実体のない夢
引き続き『新釈 遠野物語』(以下、『新釈遠野』と略)を読んでいる。
陰惨な話になると予告された第2話「川上の家」が終わり、いまは第3話「雉子娘きじむすめ」。

第2話との関連で見た夢。
『新釈遠野』の登場人物が夢を見たのではなく、いまこのブログ記事を書いているわたしが見た。
河原の水際から孝太郎がこちらを見ている。
姿かたちは水木しげる描くところの河童に似ている。ほぼそのまま。
姿勢は直立で、正面をこちらに向けているが、こわばった感じではない。力が入りすぎるでもなく、抜けすぎるでもない自然体。わたしを注視するでもなく、まして睨みつけるでもない。なんとなくわたしを見ているだけ。

そのあと、イメージもストーリーもないまま放火の夢になる。
イメージもストーリーもないのだから、放火の概念だけあって実体のない夢なのだが、とにかくその放火に孝太郎が関係しているらしい。それ以上の展開はなく、ただ漠然と放火と孝太郎が結びついている。

『新釈遠野』を少しずつ読んでみようと思いついたとき、「夢のなかで物語が先行したりすると楽しい」と書いたが、意外に早く夢に出てきた。じつをいえば、夢のなかで物語が先行云々はただ言ってみただけなので、夢に出てきたこと自体が意外。