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2018-08-02
上田秋成「二世の縁」
この世で夫婦だったものは、来世でも夫婦になるという考え。
これを「夫婦は二世」とか「二世の縁」という。
同じ考え方をするなら、「前世で夫婦だったから現世でも夫婦、でも来世は別々」ということもあるはずだが、普通は「来世も夫婦」として、愛しあう夫婦の別れや短命などの悲運を慰める働きをする。

農家の庭の隅からかねの音がきこえる。人を集めてあたりを掘らせると石棺が出てきて、ふたを取ると干し魚のように痩せたものがときどき手を動かして鉦をたたいている。どうやら人間のようである。即身仏(ミイラ)になろうと入定をはかったが、魂がこの世に残ってしまったものらしい。
とにかく蘇生させてみようと棺から出して、唇を湿したりしてやると、自分でも水を吸おうとする。
50日ほども面倒を見るうちに、ようやく血の気が出てきて、目も開き、おもゆなどを食べるようになる。
魚を欲しそうにするので与えると、僧のくせに骨まで食い尽くす。
ともかく蘇生したのでいろいろたずねてみるが、男は自分の名も覚えがなく、入定の経緯もまったく記憶していない。

以上が、上田秋成「二世のえにし」の前半。
この間、男の蘇生を目にして「仏の教へはあだあだしき事のみ」と悟った農家の母刀自は、寺への布施などをやめて、嫁、子、孫らと楽しく山野に遊ぶことや、召し使う者らを大切にすることをもっぱらにして80歳まで生きる。臨終の言葉は、
「畜生道とかに落ちて苦しむとも、いかにせん」
来世で牛馬に生まれ変わっても、悔やむことはない。牛や馬も苦しいことばかりでなく、見ていると楽しそうにも、嬉しそうにもしているではないか、人間のほうがよほど慌ただしい、と。

生き返った男は入定にゆうじよう定助じようすけと呼ばれて、5年ほど農家に養われたのち同じ里の寡婦のもとに婿入りするが、かごかき、荷かつぎなど、こちらこそ牛馬に劣らぬつらい労働を強いられる。
「仏に願って浄土に生まれるなどはできない。生きているうちに家業にはげむべきだった」
というのが定助の述懐。
「あの男もこうして生き返ったということは、定まった二世の縁であったのだろう」
と里の者たちは言ったが、妻となった女は、
「どうしてこんな甲斐性のない男を夫に持ったか」
と一人暮らしの気軽さを恋しがり、前夫が帰ってくれば衣食に不自由はしないのに、と恨みがましく泣いた。

いといぶかしき世のさまにこそあれ。

これが「二世の縁」の結語。その「いといぶかしき世のさま」を描き出した本人による弁としては、とぼけてないか。
来世の存在や二世の縁を肯定しながら、そのことに何の価値も見ていないのも良し。