大菩薩峠/百

甲源一刀流の巻

「俺(わし)は子供の時分、なんでもこの街道へ打棄(うっちゃ)られたのを大先生(おおせんせい)が拾って下すったとなあ。俺の親というのはどんな人だんべえ、俺だってまんざら木の股(また)や岩の間から生れたじゃあるめえから、親というものがあったには違えねえ、大概(たいがい)の人に父(ちゃん)というものとおっ母(かあ)というものがあるだあが、俺にはホントウの父とおっ母が無え、だから俺あ人にばかにされる、なに、ばかにされたってかまやしねえや、大先生が大事にしてくれるから不自由はねえけれども、それでも一ぺんホントウの父というものとおっ母というものに会いてえな——海蔵寺の方丈様のおっしゃるには、地蔵様というものは親なし子を大事にして下さる仏様だとよ、地獄へ行っても地蔵様が我を頼めとおっしゃって子供を助けて下さるくらいだから、地蔵様を信心(しんじん)していれば自然と親たちにもめぐり会えるだからと、方丈様がそうおっしゃるものだから、俺あ地蔵様を信心して、道傍(みちばた)に石の地蔵様が倒れてござらっしゃれば起して通る、花があれば花、水があれば水を上げて信心するだ……昨日も四谷(よつや)の道具屋に、このお地蔵様の木像があったから、いくらだと聞くと一貫二百で売るというから、小遣(こづけえ)をぶちまけて買って来た——これを持って帰って家で毎日信心をする」

「そりゃそのはずだあ、俺だって何不自由はねえけれども、それでも親身の親たちに会いてえと思わねえ日はねえくらいだ、大先生はああやって竜之助様を勘当(かんどう)しておしめえなすって、誰が何といっても許すとおっしゃらねえが、でも腹の中では若先生がいたらと思うこともあるに違えねえ……いったいが竜之助様という人が心得違えだ、たとえば勘当されたとて、たった一人の親御(おやご)じゃねえか、それを慕って帰ってござらねえというのが嘘(うそ)だ、俺、ふだんから若先生という人は気味の悪い人だと思っていた、剣術なんというものは身の守りにさえなればよかんべえに、若先生は人を斬ることを何とも思わっしゃらねえだ——いくら剣術でもああいう法というのはあるめえ、かりにも御主人を悪くいって済(す)まねえけんど、あの分で行ったら竜之助という人は決していい死にようはなさらねえ、もしや江戸にござらっしゃるかと昨日(きのう)も一昨日(おととい)も探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」