大菩薩峠/百

これは中里介山の『大菩薩峠』から機械的に段落を抜き出し、原文の100分の1強の長さに縮めたものです。

抽出の意図や方法については、こちらをご覧ください。

- 『大菩薩峠』1/100抄録版の検討

- 「甲源一刀流の巻」の圧縮版を試作

甲源一刀流の巻

「俺(わし)は子供の時分、なんでもこの街道へ打棄(うっちゃ)られたのを大先生(おおせんせい)が拾って下すったとなあ。俺の親というのはどんな人だんべえ、俺だってまんざら木の股(また)や岩の間から生れたじゃあるめえから、親というものがあったには違えねえ、大概(たいがい)の人に父(ちゃん)というものとおっ母(かあ)というものがあるだあが、俺にはホントウの父とおっ母が無え、だから俺あ人にばかにされる、なに、ばかにされたってかまやしねえや、大先生が大事にしてくれるから不自由はねえけれども、それでも一ぺんホントウの父というものとおっ母というものに会いてえな——海蔵寺の方丈様のおっしゃるには、地蔵様というものは親なし子を大事にして下さる仏様だとよ、地獄へ行っても地蔵様が我を頼めとおっしゃって子供を助けて下さるくらいだから、地蔵様を信心(しんじん)していれば自然と親たちにもめぐり会えるだからと、方丈様がそうおっしゃるものだから、俺あ地蔵様を信心して、道傍(みちばた)に石の地蔵様が倒れてござらっしゃれば起して通る、花があれば花、水があれば水を上げて信心するだ……昨日も四谷(よつや)の道具屋に、このお地蔵様の木像があったから、いくらだと聞くと一貫二百で売るというから、小遣(こづけえ)をぶちまけて買って来た——これを持って帰って家で毎日信心をする」

「そりゃそのはずだあ、俺だって何不自由はねえけれども、それでも親身の親たちに会いてえと思わねえ日はねえくらいだ、大先生はああやって竜之助様を勘当(かんどう)しておしめえなすって、誰が何といっても許すとおっしゃらねえが、でも腹の中では若先生がいたらと思うこともあるに違えねえ……いったいが竜之助様という人が心得違えだ、たとえば勘当されたとて、たった一人の親御(おやご)じゃねえか、それを慕って帰ってござらねえというのが嘘(うそ)だ、俺、ふだんから若先生という人は気味の悪い人だと思っていた、剣術なんというものは身の守りにさえなればよかんべえに、若先生は人を斬ることを何とも思わっしゃらねえだ——いくら剣術でもああいう法というのはあるめえ、かりにも御主人を悪くいって済(す)まねえけんど、あの分で行ったら竜之助という人は決していい死にようはなさらねえ、もしや江戸にござらっしゃるかと昨日(きのう)も一昨日(おととい)も探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」

鈴鹿山の巻

 お浜はいま夫の魘される声に夢を破られて、夫の寝相(ねぞう)を見ると何とも言えず物すごいのであります。凄(すさま)じい唸(うな)りと歯を噛(か)む音、夜(よ)更(ふ)けての中に悪魔の笑うようにも聞えます。お浜はぞくぞくと寒気(さむけ)がして、郁太郎を乳の傍へひたと抱き寄せて、夜具をかぶろうとして、ふと仏壇の方を見ました。竜之助夫婦は仏壇などを持たないのですから、これは前に住んだ人がこしらえ残しておいたものです。奥には阿弥陀(あみだ)様か何かが煤(すす)けた表装のままで蜘蛛(くも)の巣に包まれてござるほどのところで、別にお浜の思い出になるものがこの仏壇の中にあるはずもないのですが、このとき仏壇がガタガタと鳴っています。それとても不思議はない、鼠が中で荒(あば)れ廻っているからです。

 それがために頭が少しずつ混乱してゆくようで、今もこの僅かなる一寝入りにさえ、机竜之助の前には島田虎之助が衣紋(えもん)の折目正しく一※(「火+主」、第3水準1-87-40)(いっちゅう)の香(こう)を焚(た)いて端坐しているところへ、自分は剣を抜いて後ろから覘(ねら)い寄る、刀を振りかぶると前を向いていた島田が忽然(こつぜん)とこっちへ向く、横に廻って突っかけようとすると、いつか島田はそっちを向いている、焦(いら)って躍(おど)りかかろうとすると、島田の前に焚かれた香の煙が一直線に舞い上って、その末端がクルクルと廻って自分の面に吹きかけて来る。竜之助、その煙を払いながら太刀をつけて島田の周囲をグルグル廻っているうちに、眼が眩(くら)んで鼻血が出て、そこへ香の煙が濛々(もうもう)と捲(ま)いて来て息が詰まる。その時にヒヤリと自分の首筋に冷たいもの。

壬生と島原の巻

 ましてや、それよりまた小一世紀を隔つる大正の今の時、問題の土塀もくずれ果てて跡方もなく、小店(こだな)には、日々に空家(あきや)が殖(ふ)えて、大店(おおだな)は日に日に腐ったまま立ち枯れて、人の住まなくなった楼の塗格子(ぬりごうし)や、褪(さ)め果てた水色の暖簾(のれん)に染め出された大きな定紋(じょうもん)が垢(あか)づいてダラリと下った風情(ふぜい)を見ると、「嵯峨(さが)や御室(おむろ)」で馴染(なじみ)の「わたしゃ都の島原できさらぎという傾城(けいせい)でござんすわいな」の名文句から思い出の優婉(ゆうえん)な想像が全く破れる。涙ながらに「日本色里の総本家」という昔の誇りを弔(とむろ)うて、「中(なか)の町(ちょう)」「中堂寺(ちゅうどうじ)」「太夫町(たゆうまち)」「揚屋町(あげやまち)」「下(しも)の町(ちょう)」など、一通りその隅々まで見て歩くのはまだ優しい人で、「ナンダつまらない」その名前倒れを露出(むきだし)にしながら、とにかくここで第一の旧家といわれる角屋(すみや)の前に足をとどめてみても、御多分(ごたぶん)に洩れぬ古くて汚ない構えである。侮(あなど)り切っていきなり玄関から応接を頼むと、東京では成島柳北(なるしまりゅうほく)時代に現われた柳橋(やなぎばし)の年増芸者(としまげいしゃ)のようなのが出て来て、「御紹介のないお客さまは」と、極(きわ)めてしとやかに御辞退を申し上げる。

三輪の神杉の巻

 関東へ帰るつもりならば、長谷の町の半ばに「けわい坂」というのがあって、それを登ると宇陀郡(うだごおり)萩原の宿へ出る、それが伊勢路へかかって東海道へ出る道であるから、当然それを取らねばならぬ。竜之助が、この三輪まで逆戻りをして来たからには、関東へ帰る心を抛(なげう)ったのであろう。また京都へ帰る気になったのかも知れぬ。いや、そうでもない、彼は今や西へも東へも行詰まっている。立往生(たちおうじょう)をする代りに、籠堂へ坐り込んで一夜を明かした、が、百八煩悩(ぼんのう)を払うというなる初瀬(はつせ)の寺の夜もすがらの鐘の音も、竜之助が尽きせぬ業障(ごうしょう)の闇に届かなかった。迷いを持って籠堂に入り、迷いをもって籠堂を出た竜之助は、長谷の町に来て、ふとよいことを聞いた。

「御承知でもござろうが、この宝蔵院流槍の開祖は、当院の覚禅房法印胤栄(かくぜんぼうほういんいんえい)と申して、もとは中御門(なかみかど)氏でござったが、僧徒に似合わず武芸を好んで、最初は剣術を上泉伊勢守(こういずみいせのかみ)に学ばれたものじゃ。後に大膳太夫盛忠(だいぜんだゆうもりただ)というものについて槍術を覚え、それより自ら一流を開いたものでござるが、もとより武芸は出家の心でない、覚禅房は刀槍(とうそう)を好んで、かくは一流を開きましたなれど、内心はこれを欣(よろこ)ばれぬじゃ。わが後の者必ず武芸を学ぶべからずとあって、武器兵器はことごとく人に授けて、この寺へは一本も留め置かぬ。されば道場の名は残るといえども、覚禅房限りで、表面この流儀の跡が絶えたわけでござる」

竜神の巻

 お豊は滝の傍へ進んで、かの水が日高川へ逃げて行く弁財天の小さな祠(ほこら)へ来て、その前で手を合せた。それから静かに自分の締めていた帯を解きかかる。クルクルと帯を解いたが、さて、それを置くべきところがない、草の葉も木の葉も、じめじめと水気がたっぷりで、地の上にも水が滲(にじ)む。お豊はちょっと当惑したが、すぐに気のついたのは、弁財天の祠の土台のところから根を張って、ほとんど樹身の三分の二を水の方へさし出した一幹(ひともと)の柳でありました。その柳の、ちょうど程よい枝ぶりのところへ帯をかけて……それから着物と襦袢(じゅばん)とを一度に……脱ぎかけると、お豊は自分の肌の半身が誰もいない闇の中で、あまりに白かったのに怖れたようでありました。思い切って水に浸(つか)っているうちに、不思議なもので、お豊は何とも知れない心強さを感じてくるのであります——この冷たい水の中に、尤(もっと)もまだ秋のはじめで、水が苦になる時でないとはいえ、今までの怖ろしかった心が、だんだんに消えて行って、水の肌に滲(し)み込む気持が何とも言えぬ清々(すがすが)しさになってゆくのでありました。

間の山の巻

 源氏車や菊寿(きくじゅ)の提灯(ちょうちん)に火が入って、水色縮緬(みずいろちりめん)に緋羅紗(ひらしゃ)の帯が、いくつも朧(おぼろ)の雪洞(ぼんぼり)にうつって、歌吹(かすい)の海に臙脂(べに)が流れて、お紺(こん)が泣けば貢(みつぐ)も泣く頃には、右の間の山から、中の地蔵、寒風(さむかぜ)の松並木、長峰の里あたりに巣をくった名物の乞食どもが、菰(こも)を捲いて、上り高のさしを数えて、ぞろぞろと家路をさして引上げて来るのであります。秋に入ったとはいえ、陽気を受けたこの土地は、なかなか夜風の涼しさが肌に心地よいくらいで、昼は千早振(ちはやぶる)神路山(かみじやま)の麓、かたじけなさに涙をこぼした旅人が、夜は大楼の音頭(おんど)の色香(いろか)の艶(えん)なるに迷うて、町の巷(ちまた)を浮かれ歩いていますから、夜の賑(にぎわ)いも、やっぱり昼と変らないくらいであります。

 竜之助がはじめて京都へ上る時に、同じこの国の鈴鹿峠(すずかとうげ)の下で、悪い駕籠屋(かごや)からお豊が責められて、そのとき詮方(せんかた)なくお豊が駕籠屋に渡そうとした簪がこの簪と同じ物でありました。お豊を初めて見た竜之助が、さてもお浜によく似た女と思った後に、茶屋の老爺(おやじ)が拾った平打の簪を見ると、それがまたお浜の以前の定紋(じょうもん)と同じことであった下り藤であったので、竜之助はその簪を持って京都まで上って行ったはずであります。京都から十津川(とつがわ)までの竜之助はあの通りの竜之助で、饅頭(まんじゅう)の代りに帯刀をすら差出してしまった竜之助ですから、あの一本の簪だけを今まで持っていたはずはありません。これはおそらくその後、竜神からお豊と共に逃れて後、お豊の手から再びわが手に入れた物であろうと思われます。思い出の多かるべきはずの竜之助が、その簪に対してはさまでの惜気(おしげ)がなくて、なんらの縁のないお玉は、その簪のために泣かねばならなくなりました。お玉は泣き、竜之助は泣かせておくと、またも天上から落ちて来るように浪の音が蓑(みの)を鳴らして湧き立ちました。

東海道の巻

「ナニ、七兵衛の友達といったからって通り一遍の仲なんですから、どっちへ転んだって、大した義理が欠けるわけじゃございません、あの野郎にこれだけ尽しておけば、これからまた持役(もちやく)を替えて踊ってみてえんで……その机竜之助という剣術の先生、それは敵持(かたきも)ちのお方でござんしたね、敵と覘(ねら)う相手がちょうど船で清水の港へ来ているんで。そうして七兵衛と打合せがしてあって、江尻(えじり)の宿の外(はず)れで名乗りかけることにしておいたのを、お前様方が久能山道へお廻りなすったものですから、趣が変って三保の松原という段取りになったので……それで鶴屋へ送り込むようにおっしゃったあの乗物を、途中から七兵衛が行って折戸(おりど)の方へ曲げて、三保の松原へ連れ込んだところなので。そこには敵(かたき)の相手の、なんと言いましたか、まだ若い人だそうで、その人が待っている、その上に荒っぽい船のやつらが網を張って逃げられねえようにしている、そこのところへ、あのお乗物がすっぽりと陥(はま)り込んだというわけですから、いい気なのは待ちぼけを食わされたお前様だ、その魂胆を一通り御注進に参ったので。いやどうも、頼まれもせぬに、飛んだ御苦労な役目でございます」

「それとは知らずに島田先生は、跡白河(あとしらかわ)を行く波の、いつ帰るべき旅ならん……ここまで来ると謡の節が立消えて、先生の足許(あしもと)が右の方へよろよろとしました。わたしがハッと思うと、先生のうんと唸(うな)る声、かっと地面へ何かお吐きなされたようで——あとで思えばそれは血でした。先生はその時に夥(おびただ)しい血を吐いておしまいなすったのでしたが、わたしはそんなことは知りませんから、それと一緒に先生の足許がよろよろよろ、右へ左へよろけるのを、踏み締め踏み締めしておいでなさる様子が、おかしいと思いました。まさかあのお邸で飲んだ酒が、ここまで来て急に酔いが出たわけでもあるまいし、そうかといって謡の興に乗って、往来中(おうらいなか)で舞をなさるような先生ではなし、これはと思っていますところへ、ようござんすか、いま申しました大島流の槍の一筋——先生の背後(うしろ)から楯(たて)も透(とお)れと——あたしはもう、先生が殺されてしまったと思いました、さすが名人でも、こういうところを突かれたのでは駄目だと思って、身ぶるいをして眼をつぶってしまいました」

白根山の巻

「三輪明神の社家(しゃけ)植田丹後守の邸に厄介になっていた時分と、ここへ来て二三日逗留(とうりゅう)している間とが、同じように心安い。どうも早や、おれも永らく身世(しんせい)漂浪(ひょうろう)の体じゃ、今まで何をして来たともわからぬ、これからどうなることともわからぬ。それでも世間はおれをまだ殺さぬわい、いろいろの人があっておれを敵にするが、またいろいろの人があっておれを拾うてくれる、男の世話にもなり、女の世話にもなる、世話になるということは誉(ほまれ)のことではあるまい、いわんや一匹の男、女の世話になって旅をし病を養うというのは、誉ではあるまい、それを甘んじているおれの身も、またおかしなものかな。おれは女というものではお浜において失敗(しくじ)った、お豊においては失敗らせた、東海道を下る旅、道づれになったお絹という女、あの女をもまた、おれはよくしてやったとは思わぬわい。おれは女に好かれるのでもない、また嫌われるのでもない、男と女との縁は、みんな、ひょっとした行きがかりだ、所詮(しょせん)男は女が無くては生きて行かれぬものか知ら、女はいつでも男があればそれによりかかりたいように出来ている。恋というのは刀と刀とを合せて火花の散るようなものよ、正宗(まさむね)の刀であろうと竹光(たけみつ)のなまくらであろうと、相打てばきっと火が出る、一方が強ければ一方が折れる分のことだ。おれをここまでつれて来て湯に入れてくれる女、それはあの女の親切というものでもなければ色恋(いろこい)でもなんでもない、ちょうどあの女が夫を失うて淋(さび)しいところへ、おれが来たから、その淋しさをおれの身体で埋めようというのだ、おれが山家の樵夫(きこり)や炭焼でない限り、それであの女の珍らしがり方が多い分のこと。しかしおれには人の情を弄(もてあそ)ぶことはできない、親切にされれば親切にほだされるわい。いっそ、おれは、あの女の許(もと)へ入夫(にゅうふ)して、これから先をあの女の世話になって、山の中で朽(く)ちてしまおうか」

女子と小人の巻

「役割から言いつけられて、神尾の殿様の様子を見ようと石灯籠の蔭で隙見(すきみ)をしているところを取捉(とっつか)まって、すんでのことに息の根を止められようとするところを不意にあの騒ぎで、神尾の殿様も、こちとらをかまっちゃいられず、急にお立ちとなってしまったから、命拾いをしたつもりで騒ぎの方へ飛んで行ってみた時分には、人間の騒ぎは済んだけれども、火の威勢がばかに強くて、通り抜けられねえから、うろうろしていると役割の死骸……じゃあなかった、役割が打倒(ぶったお)れてウンウン言っておいでなさるから、こいつは大変だと肩に掛けて引っぱって逃げると、拾い運のいい日はいいもので、役割の命を拾った上に、もう一つの拾い物。それはこういうわけなんですよ、わっしが役割を肩に引っ掛けて、煙に追蒐(おっか)けられながらあの椎(しい)の大木のところまで来ますとね、そこにまた人間が一つ倒れているんです。尤(もっと)も今度の人間は役割の前だが、前に拾ったのよりもずっと綺麗(きれい)なんですから、それこそホントウの拾い物で、その時、わっしはどうしようかと考えましたね。椎の大木の下に倒れていたのは綺麗な女の子、女軽業の中でお君といって道成寺を踊る評判者、それがやはり役割と同じこと、死んだようになって倒れているのを見つけたものですから、わっしはそこで考えたんで。いっそのこと、役割を抛(ほう)り出してこの娘に乗り換えた方が得用(とくよう)だと、すんでのことに役割の方を諦(あきら)めてしまおうかと思いましたよ。まあ怒っちゃいけません、一時はそう思いましたけれど、本来わっしどもも善人ですから、そんな薄情なことはできません、と言って一人で一度に二人の人を助けるわけにはいきませんから、役割を大急ぎで稲荷(いなり)のところまで担(かつ)ぎ出しておいて、それから取って返して、その女の子を首尾よく担ぎ出しました。が、この方がよっぽど担(かつ)ぎ栄(ばえ)がしました。まあまあお聞き下さいまし、その女の子はわっしの働きでいいところへ隠しておきますよ。あいつはね、人質(ひとじち)になるんですから、大事な代物(しろもの)ですよ。役割がよくなりなすったら、御相談をするつもりでわっしがいいところへ隠しておきますがね、役割、これが癒(なお)ったら、あいつを妾にしておしまいなさいまし」

市中騒動の巻

「今からちょうど五日ほど前のことでございました。当家の望月様へ甲府の御勤番と言って立派な衣裳(なり)をしたお武士(さむらい)が二人、槍を立て家来を連れて乗込んで来ましたから、不意のことで当家でも驚きました。ちょうどそれにおめでたいことのある最中でございましたから、なおさら驚きました。けれども疎略には致すことができませんから、叮重(ていちょう)にお扱い申して御用の筋を伺うと、いよいよ驚いて慄(ふる)え上ってしまいました。その勤番のお侍衆の言うことには、当家には公儀へ内密に夥(おびただ)しい金銀が隠してあるということを承わってその検分に来た、さあ隠さずそれを出して了(しま)えば内済(ないさい)ですましてやるが、さもない時には重罪に行うという申渡しなんでございます。あんまり突然(だしぬけ)に無法な御検分でございますから、当家の老主人も若主人も、親類も組合も土地の口利(くちきき)もみんな呆気(あっけ)に取られてしまいました。尤(もっと)も当家には金銀が無いわけではございませぬ、金銀があるにはあるのでございます、他に類のない金銀が当家には蔵(しま)ってあるには違いございませんけれども、その蔵ってあるのはあるだけの由緒(いわれ)があって蔵ってあるので、決して公儀へ内密だとか、隠し立てを致すとか、そんなわけなのじゃございません、先祖代々金銀を貯えて置いてよろしいわけがあるんでございますから、まあそれからお聴き下さいまし……御存じでもございましょうが甲州は金の出るところなんでございます。金の出るのは国が上国(じょうこく)だからでございます。その金の出ますうちにもこの辺では雨畑山(あまはたやま)、保村山(ほむらやま)、鳥葛山(つづらやま)なんというのが昔から有名なのでございます。いまでも入ってごらんになれば、昔掘った金の坑(あな)の跡が、蛙の腸(はらわた)を拡げたように山の中へ幾筋も喰い込んでいまして、私共なんぞも雨降り揚句なんぞにそこへ行ってみると、奥の方から押し流された砂金を見つけ出して拾って来ることが度々ありまして、なにしろ金のことでございますから、それを取って貯めておくと一代のうちには畑の二枚や三枚は買えるのでございます。けれどもそれでは済まないと思って、拾った金はみんな当家へ持って来てお預けしておくのでございます。そうしますと当家では、年に幾度とお役人の検分がありまするたびにその金を献上し奉ると、お上(かみ)からいくらかずつのお金が下るという仕組みになっているのでございますよ。まあ話の順でございますからお聞き下さいまし、文武(もんむ)天皇即位の五年、対馬国(つしまのくに)より金を貢す、よって年号を大宝(たいほう)と改むということを国史略を読んだから私共は知っています。なにしろ金は天下の宝でございますから、私共が私しては済みませんので、今いう通り拾ったものまでみんな当家へ預けてお上へ差上げるようにしておりますくらいですから、当家でそれをクスネて置くなんていうことができるものではございません。当家にありまする金銀と申しますのは御先祖から伝わる由緒(ゆいしょ)ある古金銀で、山から出るのとは別なんでございます。その当家の御先祖というのは……当家の御先祖は権現様(ごんげんさま)よりずっと古いのでございます。このあたりから金を盛んに掘り出しましたのは武田信玄公の時代でございます。もっともその前に掘り出したものも少しはございましょうけれど、信玄公の時が一番盛んで甲州金というのはその時から名に出たものでございます。権現様の世になってからもずいぶん掘ったものでございますが、その金を掘る人足はみんなこの望月様におことわりを言わないと土地に入れなかったもので、信玄公時代からの古い書付に、金掘りの頭を申付け候間、何方(いずかた)より金掘り罷(まか)り越し候とも当家へ申しことわり掘り申すべく、この旨(むね)をそむく者あるにおいてはクセ事なるべきものなりとあるんでございます。そのくらいの旧家でございますから、代々積み貯えた金銀がちっとやそっと有ったところで不思議はございますまい、古金の大判から甲州丸形の松木の印金(いんきん)、古金の一両判、山下の一両金、露(ろ)一両、古金二分、延金(のべがね)、慶長金、十匁、三朱、太鼓判(たいこばん)、竹流(たけなが)しなんといって、甲州金の見本が一通り当家の土蔵には納めてあるのでございます。それはなにも隠して置くんでもなんでもなく、お役人が後学のために見ておきたいとか、学者たちが参考のために調べたいとかいう時には、いつでも主人が出して見せているのでございます。ところが今度来たお役人は、大枚三千両とか五千両とかの金銀を隠して置くに相違あるまい、それを出さなければ重罪に行うと言うのでございましょう、飛んでもないことでございます、当家の主人がそんな金銀を隠して置くような人でないことは、私共はじめ村の者がみんな保証を致しまする。そんなことはございませんと言いわけをしますと、どうでございましょう、若主人を引きつれてあの宿屋へ行って拷問(ごうもん)にかけているのでございます。さあ三千両の金を出せば内済(ないさい)にしてやる、それを出さなければ甲府へ連れて行って磔刑(はりつけ)に行うと、こう言って夜通し責めているのでございますから、ちょうど婚礼最中の当家は上を下への大騒ぎで、村の大寄合いが始まってその相談の上、年寄たちが土産物を持って御機嫌伺いに行って、お願い下げにして来るということになりましたが、何の事に直ぐ追い帰されてしまって取附く島がございません。私共若い者たちは血の気が多うございますから、そんな没分暁(わからずや)の非義非道な役人は夜討ちをかけてやっつけてしまえと、勢揃(せいぞろ)いまでしてみましたが、年寄たちがまあまあと留めるものですから我慢をしていました、そうすると、いいあんばいにそこに立会ってきまりをつけてくれたのが一人のお武士(さむらい)でございます。そのお武士は御病身と見えまして、その前からこの温泉で湯治をなすっていたのでございます、身体も悪いようでございましたが眼が潰(つぶ)れておいでになりました」

駒井能登守の巻

「俺(おい)らは伊勢の国から東海道を旅をして江戸の水を呑んで来た宇治山田の米友だ。東海道には天竜川だの大井川だのという大きな川があるんだ、こんな山ん中のちっぽけな川とは違って、水もモットうんとあらあ、そこには川越しの人足も幾百人といるけれども、手前たちのようなわけのわからねえ人足は一人もいなかったんだ。おじさん、俺らはこの通り足が悪いんだから、大事にして通しておくれと頼めば、ウン兄(あに)い、気をつけて歩きねえ、転ぶとお前は背が低いから、浅いところでもブクブクウをするよなんて言やがるから、ばかにするない、背は低くっても泳ぎが出来るんだいと威張ってやると、あははと笑って通すんだ。手前たちは山ん中の猿だから世間を知らねえや、だから教えてやるんだ、東海道の川越し人足はそうしたものなんだ、同じ人足でも人足ぶりが違わあ、第一、面(つら)からして違ってらあ。俺らが急ぎだから通してくれと頼むのを、事情(わけ)も聞かねえで、無暗(むやみ)に撲(ぶ)ちやがる。撲たれていいものなら撲たしてやらあ、こっちに悪い尻があるんなら、いくらでも撲たれてやらあ、ここまで来て撲ってみやあがれ。米友が持っておいでなさるこの杖は、杖と見えても杖じゃねえんだ、まかり間違ったら槍に化けるように仕掛がしてあるとはお釈迦様(しゃかさま)でも気がつくめえ。やい山猿人足、手前たちは世間を見たことがねえから、この米友がどのくらい槍が遣(つか)えるんだかその見当がつくめえ。山猿と言われたのが口惜しけりゃここまで来てみやがれ、米友の槍が怖いと思ったら、早く川を通せろやい」

伯耆の安綱の巻

「俺が一人で飲んで、お前に見せておいては済まねえ、酒がいけなければ肴(さかな)を御馳走しようじゃねえか。この通り、結構な肴を持って来ているんだぜ、目刺(めざし)だよ、目刺を大相場で買い込んで来たんだ。目刺だからと言って、ばかにしちゃいけねえ、今時(いまどき)、甲州でこんなうめえ目刺が食えるわけのものじゃねえ、ほかの国ならばどんな魚でも食えるんだけれど、この甲州という山国へ来ては、たとえ、目刺にしてみたところが容易なもんじゃねえんだ、昔信玄公が北条と軍(いくさ)をした時分によ、小田原の方から塩を送らなかったものだ、これには信玄公も困ったね、海のねえ国で、塩の手をバッタリ留められてしまったんじゃあやりきれねえ、それを越後の謙信という大将が聞いてよ、おれが信玄と軍をするのは、弓矢の争いで塩の喧嘩じゃねえ、土や城は一寸もやれねえが、北国の塩でよければいくらでもやると言って、度胸を見せたのは名高え話だ。だからお前、いま目刺を持って来るにしたところで、駿河(するが)の国から呼ぶんだぜ。これから駿河の海辺へ出るのには三十里からあるんだ、その間を生肴(なまざかな)が通う時は半日一晩で甲府へ着くから大したものじゃねえか。その半日一晩で着いた生肴の方はなかなか俺たちの口にゃあ入らねえ」

如法闇夜の巻

と言って媒人口(なこうどぐち)らしい口を利きました。さてはこの男の縁談というのは神尾主膳へ、この家の娘のお銀様を縁づけようという取持ちであることに疑いもない——人もあろうに神尾主膳へ、そして女もあろうにお銀様を——市五郎の内心は計りがたないものであります。しかしながら市五郎の口前は極めて上手であります。神尾主膳の人柄を、伊太夫の心へ最もよくうつるように言葉を尽して、蔭と日向(ひなた)から説きかけました。そうして苦労人の神尾様は決して御縹緻好(ごきりょうごの)みをなさるようなお方でなく、お嬢様があんな不仕合せでおいでになっても、それがために愛情を落すようなお方でないということ、かえってお嬢様のお身の上を蔭ながら同情をしているというようなことを言葉巧みに説きました。その上に当地の有力者であるこの藤原家と縁を結ぶことが、神尾のためには有力なる後援であり、お嬢様のために生涯の幸福であり、且つまた若い神尾主膳はやがて甲府詰から出世をなさる人に疑いのないことなども話しかけました。市五郎のこのごろの信用の上に、その口前によって伊太夫の心がだんだん動いて来るのが眼に見えるようであります。

「奥方様はどんなに御身分の高いお方でもわたしは知らない、わたしはまたどんなに賤(いや)しい身分のものであっても、今となっては知らない。お殿様がわたし一人をほんとうに可愛がって下さるから、わたしはお殿様お一人を大切にする。わたしのような者がお殿様に可愛がられることが、わたしのために善いか悪いか、今、わたしにはそんなことは考えていられない。それでは御病中の奥方様に済むものか済まないものか、それもわたしにはわからない。わたしは本当にもうあのお殿様が恋しくて恋しくて、わたしは前からあんなにお殿様を恋しがりながら、なぜ泣いたり逃げたりしていたのだろう、ああ、それが自分ながらわからない。わたしはお部屋様になりたいから、それでお殿様が好きなのではない、わたしにはもうどうしたってあのお殿様のお側(そば)は離れられない、お殿様のおっしゃることは、どんなことでも嫌とは言えない。わたしの身体(からだ)をみんなお殿様に差上げてしまえば、お殿様のお情けはきっとわたしにみんな下さるに違いない。奥方様には本当に申しわけがないけれども、お殿様をわたしの物にしてしまわなければ、わたしはのけものになってしまう」

お銀様の巻

「お父様のおっしゃる通り、わたしの僻み根性は骨まで沁み込んでしまいました、モウどうしても取ってしまうことはできないのでございます。わたしももとからこんな僻み根性の子ではありませんでした、婆やなんかが時々噂をしているのを聞きますと、わたしの子供の時は、それはそれは可愛い子であったと申します、可愛い子で、情け深くて、どんな人でもわたしを好かない者はなかったそうでございます。それが今はこんなになってしまいました、わたしの姿がこんなになってしまうと一緒に、わたしの心も片輪になってしまいました。お父様、わたしの姿は、もう昔のような可愛い子供にはなれないのでございますね、それでも、こんな姿をしていながらも、わたしがこうして生きていられるのは誰のおかげでございましょう、幸内のおかげでございます。わたしがこの面(かお)を火鉢の火に吹かれた時に、幸内が飛んで来て助けてくれたから、それで命が助かったのは、わたしが十歳で幸内が十二の時、お父様もよく御承知でございましょう。わたしの面を焼いたのは、それは今のお母さんのなさったことだと、わたしは決してそんなことは思っていやしませんけれど……」

 この二仏二神のおかげで、甲府の土地が出来たのだというのが古来の伝説であります。最初に言い出した地蔵様は甲府の東光寺にある稲積(いなづみ)地蔵で、次に山を蹴破ったのが蹴裂(けさく)明神で、河の瀬を作った不動様が瀬立(せだち)不動で、山を切り穴を開いた神様が、すなわちこの穴切明神であるというこの縁起(えんぎ)も、お銀様はよく知っているのでありました。ここへ来て夜の更けたことを知ったお銀様は、はじめて自分の無謀であったことと、大胆に過ぎたことを省(かえり)みる心持になりました。前に来た時には、日中であったに拘(かかわ)らず、しかもお城の真下であったに拘らず、悪い折助のために酷い目に遭ったことを思い出して、ついにこの夜更けにこの淋しい道を、どうして自分がここまで来て、無事にここに立っていられるのかをさえ思い出されて、ぞっと怖ろしさに身をふるわすと、例の物悲しい、いじらしい子供の泣き声であります。

 ここに集まった人は、おおよそ何人ぐらいあるだろうという答案を募(つの)るものもありました。その答案が三万と言ったり、五万と言ったり、また飛び離れて十万と言ったり、思い切って区々(まちまち)であったところから、昔、信玄公が勝千代時分に、畳に二畳敷ばかりも蛤(はまぐり)を積み上げて、さて家中(かちゅう)の諸士に向い、この数は何程あらん当ててみよと、おのおの戦場場数(ばかず)の功者に当てさせたところが、或いは二万と言い、或いは一万五千などと言った、その実、勝千代丸があらかじめ小姓の者に数えさせておいた数は三千七百しかなかった——そこで勝千代殿は、ああ、人数というものは多くはいらないものじゃ、五千の人数を持ちさえすれば何事でも出来るものだわいと言って、老功の勇士に舌を振わせたのは僅かに十三歳の時のことであった、後年名将となる人は異なったものだ、というような話も出ました。

慢心和尚の巻

「しかし、お役人とても、そんなに野暮(やぼ)な仕打(しうち)ばかりはございません、こんなことでいちいちお関所破りをつかまえて、磔刑にかけた日には、関所の廻りは磔刑柱の林になってしまいます、旅に慣れたわっしどものようなものでなくても土地に近い人などは、わざわざ関所を通っていちいち御挨拶を申し上げてもおられないから、その抜け道や裏道を突っ切ってしまうのでございます。そんなものは、笑ってお眼こぼしでございます。それでも、こうして渡って歩くうちに、どうかして間違ってお上(かみ)の手で調べられた時には、こんなふうに言い抜けをするんでございますね、実はあの勝沼の町から出まして、駒飼のお関所へかかろうと思う途中で、ついつい道を取違えて山の中へ入ってしまいました、そこでどうして本道へ出たものかと迷っているうちに、山の中から樵夫(きこり)が出て参りました、その樵夫に尋ねてようやく本道へ出て参ることができましたけれど、その時は知らず知らずお関所を通り越しておりました、済まないこととは思いましたけれど、また先を急ぐ旅でございますから立戻るというわけにもいかず、ついついそのまま通り過ぎてしまいました、こういって言い抜けをするんでございますね。そうすると、しからば其方(そのほう)に道を教えた樵夫というのは何村の何の誰じゃとお尋ねがある、その時は、いやそれを聞こうとしているうちに、樵夫は山奥深く分け入って影も形も見えなくなりました、とこんなふうに申し上げればそれでことが済むんでございます、お関所にも抜け道があり、お調べにも言い抜けの道があるんでございますがね、やかましいのは入鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)といって、鉄砲がお関所を越して江戸の方へ入る時と、女が江戸の方からお関所を越えて乗り出す時は、なかなか詮議(せんぎ)が厳(きび)しかったものでございますがね、それも昔のことで、今はそんなでもありませんよ。そんなではないと言ったところで、このごろは世間が物騒でございますから、男が女の風(なり)をしたり、女が男の風をしたりしてお関所を晦(くら)ますようなことがあると、なかなか面倒には面倒になるんでございますね」

道庵と鰡八の巻

「是より先、米価次第に沸騰して、既に大阪市中にては小売の白米一升に付(つき)銭七百文に至れば、其日稼(そのひかせ)ぎの貧民等は又如何(いかん)とも詮術(せんすべ)なく殆ど飢餓に及ばんとするにぞ、九条村且つ難波村など所々に多人数寄り集まり不穏の事を談合して、初めは市中の搗米屋(つきごめや)に至り低価(ねやす)に米を売るべしとて、僅の銭を投げ出し店に積みたる白米を理不尽に持行くもあり、或は代価も置かずして俵を奪ひ去るもあれど多人数なる故米商客(こめあきうど)も之を支(ささ)ゆる事を得ず、斯(かく)の如くに横行して大阪中の搗米屋へ至らぬ隈(くま)もなかりしが、果(はて)はますます暴動募(つの)りて術(すべ)よく米を渡さぬ家は打毀(うちこは)しなどする程に、市街の騒擾(そうじよう)大かたならず、這(こ)は只浪花(なには)のみならず諸国に斯る挙動ありしが、就中(なかんづく)江戸に於ては米穀其他総ての物価又一層の高料(たかね)に至れば、貧人飢餓に耐へざるより、或は五町七町ほどの賤民おのおの党を組みて、身元かなりの商家に至り押して救助を乞はんとて其町々に触示(しよくじ)し、※(「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30)(もし)其の党に加はらざれば金米その他何品にても救助の為に出すべき旨強談に及ぶにぞ、勢ひ已(やむ)を得ざるより身分に応じ夫々(それぞれ)に物を出して施すもあり、力及ばぬ輩(やから)は余儀なく党に加はるをもて、忽(たちま)ち其の党多人数に至り、軈(やが)て何町貧窮人と紙に書いたる幟(のぼり)をおし立て、或は車なんどを曳いて普(あまね)く府下を横行なし、所々にて救助を得たる所の米麦又は甘藷(さつまいも)の類(たぐひ)を件(くだん)の車に積み、もて帰りて便宜の明地(あきち)に大釜を据ゑ白粥を焚きなどするを、貧民妻子を引連れ来りて之を争ひ食へる状(さま)は、宛然(さながら)蟻(あり)の集まる如く、蠅の群がるに異ならで哀れにも浅間(あさま)しかり、されば一町斯(かく)の如き挙動に及ぶを伝へ聞けば隣町忽ちこれにならひ、遂に江戸中貧民の起り立たざる場所は尠(すくな)く……云々」

黒業白業の巻

「私なんぞは、もう駄目でございます、これでも小さい時分から学問は好きには好きでございました、けれどもほかの道楽も好きには好きでございました、親譲りの財産(しんだい)がこれでも相当にあるにはあったんでございますがね、みんなくだらなく遣(つか)ってしまいましたよ、これと言って取留まりがなく遣ってしまいましたよ、なあに、いま考えても惜しいともなんとも思いませんがね、かなりこれでも遊んだものでございますよ、だから江戸を食いつめて甲州まで渡り歩いているんでございます、江戸へ帰ったら、また病が出るだろうと思ってそれが心配でございますよ、でもまあ、昔と違って今は、まるっきり融通というものが利きませんからね、これで融通が利き出すとずいぶん危ねえものでございます。危ねえと言ったって、こうなれば、疱瘡(ほうそう)も麻疹(はしか)も済んだようなものでございますから、生命(いのち)にかかわるような真似は致しません。何しろ、まあ、これを御縁に江戸へ帰ったら落着きましょうよ、末長くあなた様の御家来になって忠義を尽して往生すれば、それが本望でございますよ、お江戸の土を踏んで、畳の上で往生ができればそれで思い残すことはありませんな。あなた様は、どうか私の分までみっしり出世をなすっておくんなさいまし、出世をなさるには、酒と女……これがいちばん毒でございますからな、この金助が見せしめでございますよ、あの神尾の殿様も見せしめでございますよ、と言って駒井の殿様も、あんまりいいお手本にはなりませんな。どっちへ転んでも楽はできません、やっぱり酒と女で、器量相当に面白く渡った方が得かも知れませんな。してみると、器量相当以上に道楽をして来た私なんぞは、この世の仕合せ者でございましょう、下手に立身出世をして窮屈な思いをするよりは、金助は金助らしく道楽をしていた方が勝ちでございましょう。あなた様の前だが、私しゃあ江戸へ着いたら早速に、吉原へ行ってみてえとこう思います」

「この煙草入について四郎太夫を憶(おも)い起すんでございますよ、まあお聞きなさいまし、拙者が若い時分、四郎太夫に奢(おご)らせて、友人両三輩と共に深川に遊んだと思召(おぼしめ)せ、その席へ幇間(ほうかん)が一人やって来て言うことには、ただいま拙(せつ)は、途中で結構なお煙草入の落ちていたのを見て参りました、金唐革(きんからかわ)で珊瑚珠(さんごじゅ)の緒〆(おじめ)、ちょっと見たところが百両下(した)のお煙草入ではございません……てなことを言うと、それを聞いた高島が吃驚(びっくり)して腰のまわりを探った様子であったが、やがて赤い面(かお)をして腰から自分の煙草入を抜き取ってね、中の煙草を出して丁寧にハタいて、それを幇間の前へ置いたものさ。幇間が吃驚して、そんなわけじゃございません、旦那様をかついだわけではございません、なんて言いわけをするのを、高島が言うことには、なにもお前らにかつがれたところが恥と思うおれではない、ただ煙草入を落したものがあると聞いて、自分の腰を撫でてみたおれの心が恥かしいと言ったものさね。それで幇間にその煙草入をくれてしまった、それが薄色珊瑚の緒〆に古渡(こわた)りの金唐革というわけだ。その後はこの通り八十文の千住の紙の安煙草入、おれの持っているこれと同じやつ、これよりほかにあの男は持たなかったはずだ。だからおれはこの煙草入を見ると、高島の野郎が懐しくってたまらねえ。そりゃ高島が二十代の時分のことでしたよ……どういうわけでお前、おれが高島とそんなに懇意であるかと言ったところでお前、あれも今いう通り長崎の生れなんだろう、それにお前、医者の方であの男は打捨(うっちゃ)っておけねえ男なんだよ、今でこそ種疱瘡(うえぼうそう)といって誰もそんなに珍らしがらねえが、あれを和蘭(オランダ)から聞いて、日本でためしてみたのは、高島が初めだろうよ。そんなわけで、あの男は金があった上に、おれよりも少し頭がいいから世間から騒がれるようになったのさ。拙者なんぞも、このうえ金があって頭がよくって御覧(ごろう)じろ、じきに謀叛を起して日本の国をひっくり返してしまう、そうなると事が穏かでねえから、こうしてみんなにばかにされながら貧乏しているのさ、つまり人助けのために貧乏しているようなわけさ」

安房の国の巻

「ヘエ、申し上げましょう、お笑いになってはいけません、私の勘のいいことは、初めての人様はみんな本当になさらないことが多いんですから、どうぞ笑わないでお聞き下さいまし。それはこんなわけでございます、殺されたその女の方は、この近処の稲荷様へ願がけに参ったものらしうございますね、その帰りをあの悪者が待ち受けていたものでございます、そうして通りかかったところを柳の蔭から出て、ぐっとこうして羽掻締(はがいじ)めにしてしまったから、女の方(かた)は何も言うことができなかったんだろうと思われます、それとも、あんまり怖いから、つい口が利けなくなってしまったのかも知れません、それから暫くして、お前は幾つだ、と悪者が聞きました時に、女の人が十九だと申しました。それからのことは申し上げられません、私がぼんやりしてしまったのでございます、何が何だかエレキにかけられたように私は、それを聞きながら、咽喉(のど)がつまって一言も出ないで、立ち竦(すく)んでしまったんでございます。ところが、わからない上にもわからないことは、その悪者が病人なんでございますよ、それが全く不思議でございます、歩くにさえやっと息を切って歩く病人でございます、その病人が、あなた、やっぱり、ああして辻斬に出て歩きたがるんですから、ずいぶん腕は利いているんでございましょう。それにあなた、あれは、ただ人を斬ってみたいという辻斬とは全く違います、ただ斬っただけでは足りないんでございます、ああして嬲(なぶ)り殺(ごろ)しにしなければ納まらないのでございます、苦しがらせて殺さなければ、虫が納まらないというものでございましょう、全く怖ろしいものです。それを私が、こちらに立って、ちゃあんと手に取るように聞き込みながら、それで一言半句も物が言えなかったのは、いま考えると私が怖かったからでございます、もしあの時に、私が何か言おうものならば、きっと私が殺されてしまいます、私が殺されなければ、このお蝶さんが殺されてしまいます、ずいぶん離れてはいましたけれども、トテモ逃げる隙なんぞはありゃしません、それで私はスクんでしまいました、動けなくなったのは、自分の身が危ないからでございますね、お蝶さんがかわいそうだからでございますね。そのうちあの女の人が、なぶり殺しに逢ってしまって、悪者は右手の方へと逃げて行きました、まもなくとんとんと人の足音でございました、それが、友造さんとおっしゃるそのお方で、その時になって初めて、私の身体からエレキが取れて自由になりました。悪者をお探しになるならば、それは病人のお武家で——ああ、もう一つ肝腎なことを申し忘れました、その病人の悪者は、私と同様の盲目(めくら)でございますよ、病人で盲目で、そうして辻斬をして歩きたがるのですから、全く、今まで私共は聞いたことも、むろん見たこともない悪者なんでございます」

小名路の巻

「それには仔細がございます、わたくしが、こんなところまで迷い込みましたのは、お屋敷の御様子をおうかがいしようなんて、そんなわけではございません、尺八の音色(ねいろ)に聞き惚れて、ついついここまで参りましたのでございます。その仔細と申しますのは斯様(かよう)でございます、わたくしが今晩、町を流して参りますと、ふと尺八の音が聞えました。わたくしは眼が見えませんから、音を聞くことが好きでございます。音には御承知の通り、宮商角徴羽(きゅうしょうかくちう)などの幾通りもございます、また双調(そうじょう)、盤渉調(ばんしきちょう)、黄鐘調(おうしきちょう)といったような調子もいろいろございます、それをわたくしは聞きわけるのが好きでございます。そのほかに音というものは、人の心持によって変化が起るものなんでございます。心に悲しみを持った時は、喜びの調べを吹きましても喜びには響きません、心に楽しみを持ったときは、よし、悲しい音を吹きましても、その悲しみの中に喜びがあるのでございます、身体の壮健(すこやか)な時に吹く音と、病気の前に吹く音とは違っております。失礼ながら、あなた方がお聞きになっては少しも違わないとおっしゃる音を、わたくしが聞けば違ったと申すことがございます。人に災(わざわ)いの起る前にはその音を聞いていると、ひとりでにわかることがあるのでございます……それでございますから、わたくしは、気にかかる物の音色は、聞き過ごしに致すことはできないのでございます。そこで、今晩、聞きました尺八の音色は、近ごろ珍しいものでございました。わたくしはその音色を聞きながら、いろいろと想像を致しまして、ついつい、こんなところまで、おあとを慕って来たようなわけなんでございます。と申しますのは、その方は駕籠(かご)の中で尺八を吹いておいでになりましたんですが、わたくしと同じことに、眼の見えないお方なんでございます。眼の見えない方の吹くのと、眼の見える方の吹くのとは、私にはよくわかるのでございます。ところが、同じ眼の見えないに致しましても、そのお方の眼の見えないのと、私の見えないのとは性質(たち)が違うんでございますね。わたくしの眼は、全くつぶれてしまった眼でございますが、その方のは、どうかするとあきます、再び眼があくべきはずのものを、あかせて上げることができないのでございます。それですから、わたくしの眼は、全く闇の中へ落ちきった眼でございますけれど、そのお方のは、天にも登らず、闇にも落ちない業(ごう)にからまれた眼でございます。それに、わたくしが、どうしても不思議でたまらないと思いますのは、前に、わたくしはその方と一度、逢ったことがあるんでございます。どうしてそれがわかったかと申しますと、駕籠の中で咳をなすった時に気がつきました。いつぞやの晩、神田の柳原の土手というところを通ります時分に、わたくしは怖いものに出会(でくわ)しました、怖ろしいことをして、人を嬲殺(なぶりごろ)しにしているお方がありました、その方が、つまり今夜、尺八を吹いて、駕籠に揺られてこちらの方へおいでになった方なんでございます。その尺八のうちに、本手の『鈴慕(れいぼ)』というのをお吹きになりましたね。俗曲の『恋慕(れんぼ)』とは違いまして、『鈴慕』と申しますのは、御承知でもございましょうが、普化禅師(ふけぜんじ)の遷化(せんげ)なさる時の鈴の音に合せた秘曲なんでございます、人間界から、天上界に上って行く時の音が、あれなんだそうでございます。わたくしはその方がお吹きになった『鈴慕』を聞きまして、下総小金ヶ原の一月寺のことを思い出しました。あれは普化宗の総本山でございます。今はおりますか、どうですか、そこに尺八の名人がその時分おいでになりました、以前、私はその方から『鈴慕』を聞かせていただいたのが忘れられません。その時の心持と、今晩の心持とが同じことでございます、人間界を離れて、天上界にうつる心持というのはこれかも知れません。尺八の音(ね)に引かれて、知らず知らずわたくしはここまでおあとを慕って来て、ついに、お屋敷の中まで紛れ込んでしまいました。そういうわけでございますから、決して怪しいものではございません、どうぞお見のがし下さいまし」

禹門三級の巻

「左様でございますね、何ともおっしゃっておいでにはなりませんが、多分、本所の相生町の方へおいでになったものと心得ておりまする。実は私もこの間、こちらへ御厄介になりました居候(いそうろう)でございまして、まだ、先生の御気象もよく呑込んでいるわけではございませんが、うちの先生は、なかなかちょくなお方でございまして、あれでまた、なかなか物に憐れみがございます。わたくしと、もう一人の茂太郎というのが居候をしているのでございますが、まあ命の親と言ってもよろしいのでございます。始終、お酒を飲んで冗談ばかり言っておいでになりますけれども、お医者の方はたしかにお上手でございます、癒(なお)るものは癒る、癒らないものは癒らないと、ハッキリおっしゃるのが何よりの証拠でございます。人間業で癒るものと、神仏の御力でなければ、どうにもならないものとの区別を先生は、あれでちゃんと心得ておいでになるところがエライものと、わたくしは感心を致しておりますのでございます。本当のことを申しますと、人間というものは、決して病気で命を落すものでございません、みんな寿命でございます、前世の宿業(しゅくごう)というものでございます。それでございますから世間に、お医者さんを信用し過ぎるものは、まるきりお医者さんを信用しないものと同じことに、間違っているのでございます。また、うちの先生は薬礼を十八文ずつときめてお置きになります、これが、ケチのようですけれども、できないことでございます。もともとお医者さんという商売は、そんなにお金の出来る商売ではございません、お医者さんで、一代のうちに百万円ものお金をこしらえたりすると、その子供に良いのが出来ません、お医者さんや坊主というものは、人の命を扱うものでございますから、できるだけ綺麗(きれい)に致していなければ、人の思いというものがたかるのでございます。こんなことを申し上げると、迷信だなんぞとお笑いになるかも知れませんが、それが本当のところでございます。ただ、うちの先生に惜しいことは、お酒を召上ることでございます、梵網経(ぼんもうきょう)の中にも飲酒戒(おんじゅかい)第二とございまして、酒は過失を生ずること無量なり、もし自身の手より酒の器を過ごして、人に与えて酒を飲ましめば五百世までも手無からん、況(いわ)んや自ら飲まんをや、とございます。そのことを先生に申しますと、先生は、べらぼうめ、道庵が酒を飲んでいるから天下が泰平なんだ、道庵が酒をやめたら天下が乱れるから、それで人助けのために酒を飲んでいるのだと、こうおっしゃいますから、わたくしも二の矢がつげないのでございます。まあ、もう少しこちらでお待ち下さいまし、わたくしどもも実は茂太郎と二人で、まだ夕飯もいただかないでお待ち申しているところでございます。ナニ、もう御膳(ごぜん)は出来ておりますのですけれども、先生より先にいただいては済むまいと思いますから、二人ともにまだ夕飯を食べないでお待ち申しているところでございますが、いつお帰りになるかわかりませんから、これから、ちょっと用足しに出かけて参ろうとするところでございます、なにぶんよろしく」

無明の巻

「ええ、少々、お待ち下さいまし、ただいま、立退きまするでございます……立退きまするについては、一応お話を申し上げておかなければなりませぬ。それと申しますのは、わたくしはこうやって、お断わりを申し上げずにお庭を汚(けが)して拙(つたな)い琵琶を掻き鳴らしましたのは、なんとも恐れ入りましたことでございまする。ただいまやりましたのは、お聞きでもございましょうが、平家物語のうちの旧都の月見の一くだりでござりまする。お聞きの通り拙い琵琶ではござりまするけれども、これでもわたくしが真心(まごころ)をこめて、六所明神様へ御奉納の寸志でござりまする。昔、妙音院の大臣(おとど)は、熱田の神宮の御前で琵琶をお弾きになりましたところが、神様が御感動ましまして、霊験が目(ま)のあたりに現われましたことでござりまする。また平朝臣経正殿(たいらのあそんつねまさどの)は、竹生島明神(ちくぶじまみょうじん)の御前で琵琶をお弾きになりましたところが、明神が御感応ましまして、白竜が現われたとのことでござりまする。わたくしなんぞは、ごらんの通りさすらいの小坊主でございまして、無衣無官は申すまでもございません、その上に、お心づきでもありましょうが、この通り目がつぶれているのでござります、目かいの見えない不自由なものでございます、それに、琵琶とても、節(ふし)とても、繰返して申し上げるまでもなく、お聞きの通りの拙いものでございますから、とても神様をお悦ばせ申すのなんのと、左様なだいそれた了見(りょうけん)は持っておりませんのでござりまする。ただまあこうも致しまして、わたくしの心だけが届きさえ致せば、それでよろしいのでございますから、もう暫くのところお待ち下さいませ、せめてこの一くさりだけを語ってしまいたいのでござりまする、旧き都を来て見れば、浅茅(あさじ)ヶ原(はら)とぞ荒れにける、月の光は隈(くま)なくて、秋風のみぞ身には沁(し)む、というところの、今様(いまよう)をうたってみたいと思いますから、どうぞ、それまでの間お待ち下さいませ、それを済ましさえ致せば、早々立退きまするでござりまする」

「今晩はまた大へん月がよろしいそうでございますね。月が澄みわたりましても、私共には闇夜と同じことでございます。明月や座頭(ざとう)の妻の泣く夜かな、と古(いにし)えの人が咏(よ)みましたそうでございますが、人様の世にこそ月、雪、花の差別はあれ、私共にとりましては、この世が一味平等の無明(むみょう)の世界なのでございます。無明がそもそも十二因縁の起りだとか承ったことがございます。いつの世に長き眠りの夢さめて、驚くことのあらんとすらん、と西行法師が歌に咏みましたということをも、承っておりますのでございます。悲しいことに皆様はいつかこの無明長夜(むみょうちょうや)の夢からお醒(さ)めになる時がありましても、私共にはこの生涯においては、そのことがあるまいと思われますのでございます。夢に始まって夢に終るの生涯が、この上もなく悲しうございますので、西行法師が、驚くことのあらんとすらんとお咏(よ)みになった心を承(う)けて、数ならぬ私共もまた、何物にか驚かされたいと常に念じている次第でございます。けれども、浅ましいことに、何物も一つとして、この私の悲しい心の底を驚かせてくれるものがございません。泣ける時に泣けない人、笑える時に笑えない人、驚く時に驚けない人は、恵まれない人でございます……衆生(しゅじょう)病むが故に我も病む、と維摩居士(ゆいまこじ)も仰せになりました。生々(しょうじょう)の父母、世々の兄弟のうち、一人を残さば我れ成仏(じょうぶつ)せじというのが、菩薩の御誓いだと承りました。大慈悲の海の一滴の水が、私共のこの胸に留まりまするならば、たとえ私のこの肉の眼から一切の光が奪われまして、この世の空にかかる月は姿を見せずとも、本有心蓮(ほんぬしんれん)の月の光というものは、ゆたかに私共の心のうちに恵まれるものに相違ございませんが、何を申すも無明長夜の間にさまようて、他生曠劫(たしょうこうごう)の波に流転(るてん)する捨小舟(すておぶね)にひとしき身でございます、たどり来(きた)ったところも無明の闇、行き行かんとするところも無明の闇……ああ、どなたが私をこの長夜の眠りから驚かして下さいます……昨日も私はこの裏の山へ入って行きますと、山鳥の声がしきりに耳に入りました。目は見えませんでも、物の音は耳に入るのでございます。そのとき私は、ほろほろと啼(な)く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う母かとぞ思う、のお歌を思い出しまして、この見えぬ眼から、しきりに涙をおとしたことでございます。私共の心眼さえ開いておりますならば、山鳥の音を聞きましても、まことの父と母との御姿を拝むことができましょうのに、小器劣根の私には、それができませんのかと思うと…‥」

白骨の巻

「今度の仕事は、わたしも一世一代というわけなんですからね、その思い出にひとつ、しっかりやって下さいな。なあに、今までだってこれが嫌いというわけじゃなかったんですが、河童(かっぱ)のお角さんてのがあったでしょう、同じ名前ですから、気がさしてね。恥かしいっていう柄じゃありません、真似をしたように思われるのが業腹(ごうはら)でね。こう見えてもわたしゃ、真似と坊主は大嫌いさ。今までだってごらんなさい、そう申しちゃなんですけれども、人の先に立てばといって、後を追うような真似は決して致しませんからね。よその人気の尻馬(しりうま)に乗って人真似をして、柳の下の鰌(どじょう)を覘(ねら)うような真似は、お角さんには金輪際(こんりんざい)できないのですよ。ですから、今度だって、外(はず)れりゃあ元も子もないし、当ったところで嫉(ねた)みがあるから、身体をどうされるかわかったものじゃなし、どのみち骨になるつもりで乗りかかった仕事ですから、その思い出に素敵に大きな骸骨の骨(あたま)を一つ彫っていただきたいと、こう思いついただけなんですよ……何ですって、骸骨だけじゃ色が入らないから淋(さび)しいでしょうって? なるほど、それもそうですね。それじゃ、骸骨のまわりに燃えたつような大輪の牡丹(ぼたん)でも彫っていただきましょうか。なにぶんよろしく頼みます」

「しかしながら、切支丹の罪によって国を逐(お)われ、枕するところを奪われたジプシー種族に、二つの恵まれたものがございます、その一つは音楽でございまして、他の一つは美人なのでございます。このジプシー種族には、古来、非常な美人が生れまして、欧羅巴(ヨーロッパ)の貴族をして恍惚(こうこつ)たらしめたこともございます。また、天性、音楽が巧みでございまして、彼地(あちら)の大音楽家も、ジプシーから教えられたものがあるそうでございます……とはいえジプシーは、救世主を殺した罪の種族でございますから、これを見ることは許されても、これに触れることは許されませぬ。たとい、ジプシーの女、花のように美しうございましょうとも、それに触れた者は、手を触れたものも、触れられた女も、共に不祥の運命に終ると申し伝えられてあります。でございますから、ジプシーの美人の美しさは、花のように美しく、また花のように盛りが短いとされておりまするのでございます。皆様方はこのジプシーの女のために、その一生を誤った欧羅巴の貴族と僧侶のお話を御存じでございますか……これよりごらんに入れまするジプシー・ダンスは、日本で申しますると、ふいご祭におどる踊りでございます、花恥かしい乙女(おとめ)が、鈴の輪を持ちまして、足ぶり面白く踊ります。また日本の三味線、琵琶に似たところのギターとマンドリン、それに合わせて歌いまするそのあでやかな人と音色(ねいろ)……長口上は恐れあり、早速ながら演芸にとりかからせまする」

「そんなことをしていただいちゃ申しわけがございません、旅費のところもお角さんの手から、たっぷりといただいてあるんでございますから、その上こんなことをしていただいちゃ恐れ入ります。しかし、お嬢様、金助も頼まれますと、無暗に肌を脱ぎたがる男でございましてね、自慢じゃございませんが、事と次第によっては、目から鼻へ抜ける性質(たち)なんでございますよ。今度のことなんぞも、お角さんから頼まれますと、早速、当りをつけたのが、まあ、聞いていただきやしょう、とても、そりゃその道で多年苦労をした目明(めあか)しの親分跣足(はだし)ですね、全く予想外のところへ目をつけて、そこから手繰(たぐ)りを入れたところなんぞは、我ながら大出来、ここの親方にも充分買っていただくつもりで、寄り道もせずにこうして駈け込んで来たような次第なんでございます……エエ、その頼まれました御本人の行方(ゆくえ)、それをそのまま探していたんでは、なかなか埒(らち)の明かない事情がありますから、まずこういう具合に……エエと、この街道を琵琶を弾(ひ)いて流して歩いたお喋(しゃべ)りの盲法師(めくらほうし)を見かけたお方はございませんか、こういって尋ねて歩いたのが、つまり成功の元なんですね。将を射るには馬を射るという筆法が当ったんで。つまりそれでとうとう甲州街道の上野原というところで、めざす相手を射留めたという次第でございます……」

他生の巻

「御趣意の程、よく承(うけたまわ)りました。承ってみますると、私はそういうことを承らない方が仕合せであったという感じしか致さないのが残念でございます。あのお山は、私もついこの間まで御厄介になっておりましたから、よく存じておりますが、車を仕掛けて人様を引き上げねばならぬほどの難渋(なんじゅう)なお山ではございませぬ、斯様(かよう)に眼の不自由な私でさえも、さまで骨を折らずに登ることができましたくらいですから、御婦人や子供衆たちでも御同様に、さまで骨を折らずに、お登りになることができようと存じます。よし、多少、お骨は折れるに致しましても、そこに信心の有難味もございまして、登山の愉快というものもあるのではございませぬか、信心のためには、木曾の御岳山までもお登りなさる婦人たちがあるではございませぬか。それにくらぶれば、あのお山などは平地のようなものでございます。それに承れば、せっかく、代々のお山の木を切りまして、それを売払っていくら、いくらとのお話でございますが、昔のおきてでは、一枝を切らば一指を切るともございます、お山によっては、山内の木を伐(き)ったものは、死罪に行うところすらあるのでございます、それをあなた方、多年、そのお山の徳によって養われている方が先に立って、そういうことをなされて、御開山方へ何とお申しわけが立つのでございましょう……なおお聞き申しておりますると、せっかく信心の方々が杉苗を奉納なさるのを、あなた方は徳利の中へ入れて、飲んでおしまいになったり、半ぺんの下へ置いて、食べておしまいなさるそうですが、そうして、あなた方は、自分で自分の徳をほろぼしておしまいになることを、自慢にしておいでなさるのですか……樹木は地上の宝でございます、木を植ゆるは徳を植ゆるなりと申されてありまする、あなた方の御先祖代々が、せっかく丹精して、あれまでに育てて霊場を荘厳(そうごん)にしてお置きになるのを、むざむざと伐って、それでよい心持が致しますか……また山の自然の形には、自然そのままで貴いところがあるものでございます、これを切り崩して、後日の埋め合わせはどう致すつもりでございますか。俗世間でも、家相方位のことをやかましく申しますのは、一つは、この自然さながらの形を、重んずるところから出でているのではございませぬか……それほどまでにして、車を仕掛けてあなた方は、いったい、だれをおよびになろうという御了簡(ごりょうけん)なのですか。聖衆は雲に乗っておいでになりまする、信心のともがらは遠きと、高きを厭(いと)わぬものでございます、ゆさんの人たちは足ならしのために恰好(かっこう)と申すことでございます……ところの幽閑、これ大いなる師なりと古人も仰せになりました。出家のつとめは、俗界の人のために清い水を与えることでございます、清い水を与えるには、清いところにおらなければならない約束ではございませぬか……山を荘厳にし、出家が空閑におるのは、俗界の人に、濁水を飲ませまいがためでございます。釈尊は雪山(せつせん)へおいでになりました、弘法大師も高野へ精舎(しょうじゃ)をお営みになりました、永平の道元禅師は越前の山深くかくれて勅命の重きことを畏(かしこ)みました、日蓮聖人も身延の山へお入りになりました、これは世を逃(のが)れて、御自分だけを清くせんがためではござりませぬ……源遠からざれば、流れ清からざるの道理でございます。もし、あなた方が、どうでも人の世のまん中に立ち出で、衆と共に苦しみ、衆と共に楽しむ、の思召(おぼしめ)しでございますならば、いっそ、浅草寺(せんそうじ)の観世音菩薩のように、都のまん中へお寺をおうつしになっては如何(いかが)でございますか……」

「本来、風流に番附があるべきはずのものではありませんが……俗世間には、こういうものを拵(こしら)えたがる癖がありましてね。この番附には一茶が入っておりません、たまに入っているかと思えば、二段目ぐらいのところへ申しわけに顔を見せているだけです。しかし、これは仕方がありません、点取り宗匠連が金を使って、なるべく自分の名を大きくしておかないと商売になりませんからね、一つは商売上の自衛から出ているのですが、面白いのは、一茶の子孫連中が、その祖先の有難味にいっこう無頓着で、一茶が最後の息を引取った土蔵——それは今でも当時のままに残っておりますが、左様、土蔵といったところで、一間半に二間ぐらいのあら壁作(かべづく)りのおんどるみたようなもので、本宅が火事に逢ったものだから、一茶はこの土蔵の中に隠居をして、その一生涯を終りました、その土蔵の中へ、ジャガタラ芋(いも)を転がして置きました、たまに、わたしどもみたような人間が訪れて礼拝するものですから、その子孫連中があきれて、何のためにこんな土蔵を有難がるのか、わからない顔をしている有様が嬉しうございました……西洋の国では、大詩人が生れると、その遺蹟は国宝として大切に保護しているそうですが、日本では、一茶のあの土蔵も、やがて打壊されて、桑でも植えつけられるが落ちでしょう。一茶というものは、時代とところを離れて、いつまでも生きているものだから、遺蹟なんぞは、どうでもいいようなものですけれど……一茶の子孫の家ですか、それは柏原の北国街道に沿うて少し下ったところの軒並の百姓家ですが、今も申し上げた通り、自分の先祖の有難味を知らないところが無性(むしょう)に嬉しいものでした。家を見て廻ると、あなた、驚くじゃありませんか、流し元の窓や、唐紙(からかみ)の破れを繕(つくろ)った反古(ほぐ)をよくよく見ると、それがみんな一茶自筆の書捨てなんですよ。知らずにいる子孫は、いい反古紙のつもりで、それを穴ふさぎに利用したものです。あんまり驚いたもんですから、わたしどもはそれを丁寧にひっぺがしてもらって、こうして持って帰りました。それからこの渋団扇(しぶうちわ)、これもあぶなく風呂の焚付(たきつけ)にされるところでした。ごらんなさい、これに『木枯(こがら)しや隣といふも越後山』——これもまぎろう方(かた)なき一茶の自筆。それからここに付木(つけぎ)っ葉(ぱ)があります、これへ消炭(けしずみ)で書いたのが無類の記念です。一茶はああした生活をしながら、興が来ると、炉辺の燃えさしやなにかを取って、座右にありあわせたものに書きつけたのですが、こんなものをその子孫が私どもに、屑(くず)っ葉(ぱ)をくれるようにくれてしまいました。あんまり有難さに一両の金を出しますと、どうしても取らないのです、そういう不当利得を受くべきはずのものじゃないと思ってるんですな。これは、先祖の物を粗末にするというわけじゃない、その有難味のわからない純な心持が嬉しいのですね。それでも一茶自身の書いた発句帳、これはその頃の有名な俳人の句を各州に分けて認(したた)めたもの、下へは罫紙(けいし)を入れて、たんねんにしてあった、これと位牌(いはい)、真中に『釈一茶不退位』とあって、左右に年号のあるもの、これだけは大切に保存していました」

流転の巻

「ちょうど、この松原で……多分ここは松原の中だと思いますが、私の前へ一人の人が現われて申しました、お前はどこへ行く……私は旅をして歩きますと申しますと、一人で旅をして歩くには路用というものを持合わせているだろう、それをここへ出せ、とのことでございます……いいえ、左様なものは持合わせてはおりませぬ、と答えましたが、その人が聞き入れません。嘘をつけ……持っているだけ出さないと為めにならぬぞ、と、斯様(かよう)に申しますものですから、私が事を分けて、いいえ、ございませぬ、門付(かどづけ)でいただいた鳥目(ちょうもく)が僅かございましたのを、それで、甲府の町の外(はず)れで饂飩(うどん)を一杯いただいて、今は全く持合せがございませぬ……こう申しますと、その人がどこまでも、それは嘘だ、眼も見えないくせに、一人で旅をして歩くからには、必ずどこぞに路用の金を隠し持っているに相違ないと、斯様に私を責めまする故に、私はそれならば、私が、今ここで裸になってごらんに入れましょう、古人は曾無一善(ぞうむいちぜん)の裸の身と申しました、裸になった私の身体(からだ)をごらんになった上、たとえそこに一銭の金でも蓄えてありましたならば、私は生命(いのち)を取られても苦しいとは申しませぬ……こう言いまして、私は琵琶を下へ置いて、上なる衣(ころも)から悉皆(しっかい)脱ぎ去って、裸になって、その方に見せました……そうしますと、うむなるほど、無いものは無いに違いない、貴様はなかなか気の利(き)いた坊主だ、本来はこちらから身ぐるみ裸にしてやるべきものを、その手数をかけずに自分から進んで裸になったのは可愛ゆい奴だ、銭がなければ、二束三文にもなるまいが、この着物だけは持って行く……と申しまして、私の上から下までの着物——と申しましても襦袢(じゅばん)ともに僅かに三枚なのでございますが、その三枚を持って行こうとしますから、私が、もしもしとその方を呼び留め申しました、呼びとめて申しますのには、あなたがそれをお持去りになるのは仕方がございませんが、仕方があってもなくても、この私はあなたのなさることは、お留め申すだけの力は一切ございませんが、どうかお情けにはそのうちの上着の一枚だけをお返し下さいますまいか、せめてそれだけでもございませんと、これから一足も進むことができないのでございます……と、懇(ねんご)ろに頼みましたところが、その方はそれを一向お聞き入れ下さらず、馬鹿め……着物がなくっても足があるだろう、足があって一足も歩けないということがあるかと申されました、よろしうございます、それではお持ち下さいませ……私が悪うございました、世間には一枚の着物さえ持たない人もあるのに、これまで三枚の着物を重ねていた私は奢(おご)っておりました、その罪で、あなたのために衣をはがれるのは、罪の当然の酬(むく)いでございます、私から着物をお取りになろうとするあなたこそ、私以上に困っておいでになればこそでございます、求められずとも、私から脱いで差上げなければならなかったのを、たとえ一枚でも欲しいと申した私の心が恥かしうございます……とこう申しますと、その人が、いきなり私を足蹴(あしげ)に致しました。

 その方が、いきなり私を足蹴に致しまして、よく、ペラペラ喋(しゃべ)るこましゃくれだ、黙って往生しろ——とそのまま行っておしまいになればよかったのですが、その方が、ふと私があちらへおいた琵琶に目をつけたものと見えまして、こりゃあ何だ、月琴(げっきん)の出来損いのようなへんてこなものを持っている——これもついでに貰って行く、と琵琶をお取上げになったようでしたが、夜目にも、私の琵琶が古びて、粗末なのを見て取ったのでしょう、持って帰ったって、こんな物、売ったところでいくらにもなるめえ、買い手があるものか……と呟(つぶや)きましたのを、私が聞いて、左様でございます、その品は、それを操るものには無くてはならぬ品でございますが、余の人が持ちましたとて、玩具(おもちゃ)にもなるものではございませぬ、もしできますならば、それはそのままお残し下さいませ、おっしゃる通りに着物はなくても、足があれば歩けないという限りはございませぬが、それがありませぬと、明日から世渡りに差支えまする、とにもかくにも、その一面の琵琶を私が抱いて参りますうちは、皆さんが……よし私の芸が不出来でありましょうとも、それに向って、いくらかの御報捨をして下さいますが、それがないと、私は全く杖柱を失ってしまいます、衣類はどなたでも御着用なさいませ、琵琶はおそらく私に限って、破れた一面の琵琶でも、私にお授け下さればこそ、その用をなすというものでございます……その琵琶だけは……とこう申しましたのが返す返すも、私の未熟ゆえでございます。すでに曾無一善(ぞうむいちぜん)の裸の身と申しながら、またも一枚の着物を惜しみ……一面の琵琶を惜しむ、浅ましい心、それが無惨に蹂躙(ふみにじ)られたのは、もとよりそのところでございます。まだツベコベと文句を並べるか……察するところ、貴様はこの月琴の胴の膨(ふく)らんだところへ、路用を隠しておくのだな、木にしては重味がありすぎる……大方、この胴の中へ、小判でも蓄えておくのだろう——と言ってその琵琶をメリメリと踏み壊しておしまいになりました。とかく、私の言うことが癪(しゃく)に障(さわ)ったものでしょう。それと、せっかく踏み壊して見た琵琶の胴の中にも、一文の蓄えもあろうはずはありませんから、その癇癪(かんしゃく)まぎれに、私の身を裸で一晩涼ませてやるといって、この通りの始末でございます。いいえ、それだけのことを覚えてはおりますが、別段、怪我といってはございませぬ、縛られる前に、蹴られたとき気が遠くなりました、それまででございます。いいえ、何とも思ってはおりません、さのみ悲しいとも思ってはおりません、あなた様に助けられても、さのみ嬉しいとは存じません……ああ、私も今までずいぶん苦労も致しましたし、命を取られるような目に逢ったことも幾度もございましたけれど、本当に裸の身にされたのは今宵が初めてでございます、この肉身一つのほかに、持てる物をことごとく奪われたのは今回が初めてでございます。いいえ、奪われたのではございません、持つべからざるものを持つが故に、召し上げられたのでございます……仏があの人の手を借りて、私の劫初(ごうしょ)以来の罪業(ざいごう)を幾分なりとも軽くしてやろうと思召(おぼしめ)して、かりに私の身から一切の持物を取っておしまいになりました。しかし、着物は剥ぎ取られましても、この心にはまだまだ我慢邪慢の膿(うみ)のついた衣が幾重(いくえ)にも纏(まと)いついておりまする。それを一枚一枚脱ぎ去って、清浄無垢(しょうじょうむく)の魂を見出した時に、初めて、その魂に着せる着物が恵まれねばなりませぬ、そのとき恵まれた着物のみが、本当に私の着物でございます。曾無一善の身には、世間の衣一枚は私の悩みでございました……」

みちりやの巻

「そこで、わたしは、今でも思い出してゾッとするのですが、竜之助さんが九ツの時でした、その時分はよく子供らが集まって、多摩川の河原で軍(いくさ)ごっこをしたものですが、ある時、あだ名をトビ市といった十三になる悪たれ小僧が、それがどうしたことか、竜之助さんの言うことを聞かなかったものですから、竜之助さんが手に持っていた木刀で、物をもいわず、トビ市の眉間(みけん)を打つと、トビ市がそれっきりになってしまいました……子供らはみんな青くなって、河原に倒れたトビ市をどうしようという気もなくているところへ、漁師が来てお医者のところへかつぎ込みましたが、とうとう生き返りませんでした……それでも後は無事に済むには済みました、が、その時から、子供たちも、竜之助さんの傍へは近寄らないようになりました。その後、御岳山の試合で、宇津木文之丞という人を打ち殺したのもあの手だと思うと、やはり子供の時分から争われないものです。あの時だって、あなた、トビ市を打ち殺しておいて、あとで人相がちっとも変りませんでしたもの……御岳山の時は、わたしどもは、あっちにはおりませんでした。こちらへ修行に来てしまいましたから……その後の噂(うわさ)は、大菩薩峠を越える人毎に、何かとわたしたちの耳に伝えてくれます。いい話じゃありませんが、おさななじみのわたしどもにとってみると、どうもひとごととは思われない気がします」

『お嬢さん、あなた、陽気にならなきゃいけません。陽気になるには、お光を受けなきゃなりません。お光を受けて、身のうちをはらい清めなきゃなりません。人は毎日毎朝、座敷を掃除することだけは忘れませんが、自分の心を、掃除することを忘れているからいけません。自分の心を明るい方へ、明るい方へと向けて、はらい清めてさえ行けば、人間は病というものもなく、迷いというものもなく、悩みというものもないのです。ですから、何でも明るい方へ向いて、明るいものを拝みなさい。一つ間違って暗い方へ向いたら、もういけませんよ。暗いところにはカビが生えます、魔物が住込みます、そうして、いよいよ暗い方へ、暗い方へと引いて行きます。暗いところには、いよいよ多くの魔物の同類が住んでいて、暗いところの楽しみを見せつけるものだから、ついに人間が光を厭(いと)うて、闇を好むようなことになってしまうと、もう取返しがつきませんよ……早いたとえが、この間のあの二人をごらんなさい、あの年とった、いやにいろけづいたお婆さんと、それにくっつききりの若い男とをごらんなさい、あれがいい証拠ですよ。あれが明るいところから、わざわざ暗いところへ、暗いところへと択(よ)って歩いて、その腐りきった楽しみにふけったものだから、つい、あんなことになってしまいました。外の空気のさえ渡って、日の光がたまらないほど愉快な小春日和(こはるびより)にも、あの二人は、拙者がいないと、この小屋の中へはいり、小屋をしめきっては、暗いところでふざけきっていました。だから、わたしは山から帰る早々、それを見つけると、戸をあけ払って、二人をはらい出したものです。二人は、拙者の振り廻す御幣(ごへい)をまぶしがって、恐れちぢんで逃げ出したが、逃げ出して暫くたつと、またあの森かげへ隠れて、くっつき合っていましたよ。とても度し難いというのはあれらでしょう、放って置いてもいいかげんすると、うだって、腐りきってしまう奴等ですが……みんごと、魔物の餌食(えじき)になって、二人とも、沼へ落ちて死んでしまったが……いやはや、罪のむくいとはいえ気の毒なものさ……お嬢さん、あなたなんぞは年も若いし、今が大切の時ですから、暗い方へ行ってはなりませんよ、始終明るくおいでなさいよ。そうしないとカビが生えますよ、毒な菌(きのこ)が生えますよ……光明は光明を生み、悪魔は悪魔を生みますよ。ほんとに、あなたはこのごろ顔色が悪い、この間中のさえざえした無邪気な色が消えかかって行く。気をおつけなさい……』

めいろの巻

「それでわかった、それで委細がわかりましたよ、お松さんという人が、ああして新町へお堂を建てたり、そのお堂の中に納めてあった絵馬(えま)が、こんなところへ来ていたりする因縁(いんねん)が、よくわかりましたよ。しかし、若い衆さん、わが子を捨てるほどの親を、血眼(ちまなこ)になって探し廻るような仕事はよした方がようござんすぜ、子を捨てるほどの無慈悲な親に、ロクな奴があるはずがありませんからね。よしんば探し当てて、おおお前がお父さん、おおお前がせがれか、と抱きついてみたところで、ツマらねえお芝居さ、少しほとぼりがさめてごらんなさい、子供の方がちっと、よくでもなっていて、小遣銭(こづかいせん)をねだりに来られたりするうちはまだいいが、万々が一、その親という奴がたちの良くねえ奴でもあってごろうじろ、それこそ親子の名乗りなんぞしなかった方が、ドノくらい仕合せかとあとで臍(ほぞ)を噛(か)むようなことがなんぼうもございまさあ。生みの親にめぐり逢いてえとか、この世の名残りにせがれに一目あって死にてえとかいうのは、お芝居としちゃあ結構な愁嘆場(しゅうたんば)かも知れねえが、生(しょう)で見せられると根っから栄(は)えねえものなんだぜ……お前さんも、そこをよく心得ていなくちゃいけねえ。お松さんにもよくその事を言っておかなくちゃいけねえ。親は無くても子は育つんだからなあ、それ、世間でも生みの親より育ての親と言うだろうじゃねえか、拾って下すって、今日まで面倒を見て下すったその御恩人に対して、御恩報じをする心持でいせえすりゃ、それでいいのさ。西も東も知らねえおさな児を、かわいそうに野原の真中へ打捨(うっちゃ)って、虎狼(とらおおかみ)に食わせようなんていう不料簡な親を慕って、それにめぐり逢いてえなんて、だいそれた料簡だ、よくねえ料簡だ。お松さんにも、よくそいって置きな、この忙がしい世の中に、棄児(すてご)の親なんぞを探す暇があったら、襦袢(じゅばん)の一枚も縫っていた方がいいって……お前さんだって、そうさ、お地蔵様を信心すれば、生みの親に逢えるだろうなんて、あんまりたあいがなさ過ぎらあな。それよりは、ウンと稼(かせ)いでな、給金を貯めてな、それで新家(しんや)の一つも建てて納まることを考えなくっちゃいけねえ。そうなると、相応のおかみさんが欲しくなるだろうが、そこだてなあ……女房というやつは、持つがいいか、持たねえのがいいか、ことさらお前の身の上について考えてみると、何とも言えねえ——持つなら、いい女房を持たしてやりてえがなあ」

「お嬢様、それは間違っております、出発点が間違っていますから、それで結論がまた間違ってしまいます、間違ったなりに徹底して、さながら一面の真理でもあるかのように聞えるのが、外道(げどう)の言葉だと私は思います。愛というものは——慈悲と申しても同じことでございますが——火のように烈しく人を焼き、水のように深く人を溺らせるものではございません。慈悲と申しまするものは、春の日のように、また春の雨のように、平和に人を恵みうるおすものでございます。時としては、秋の霜のように、冬の暁の雪のように、人の骨身を刺すこともございましょうけれど、それは人の精神を引締めるもので、人の心を亡ぼすためではありません。愛というものは、そんなに痛快なものではないのでございます。どちらかと申せば、緩慢な、歯痒(はがゆ)いところに慈悲が潜(ひそ)んでいることもございます。本当の愛というものは、急激な同化を好まずして、秩序ある忍耐を要求するものではございますまいか。一粒のお米を、自分のものとして取入れるまでに致しましても、三百六十余日の歳月を待たねばなりませぬ、そうしてその三百六十余日の歳月とても、ただ徒(いたず)らに待っているわけではございません、耕し、耘(くさぎ)り、肥料をやり、刈り取り、臼(うす)に入れ、有らん限りの人の力を用いた上に、なお人間の力ではどうすることもできない、雨、風、あらし、ひでり、その他の自然の力に信頼して、そのお助けを得ての上で、そうしてようやく一粒の米が私共の食膳にのぼるのでございます。お嬢様、あなたのお家は大家(たいけ)だそうでございますから、定めて宏大な御普請と存じますが、いかほど大きなお家でも、一夜のうちに灰となることは不思議でございません、けれども、それを一夜のうちに組立てることはできないのでございます。物を亡ぼすのが愛の仕事でございません、物をはぐくみ育てるのが愛の仕事でございます。つまり、あなた御自身が、はぐくみ育てられた恩愛というものを知ることが浅いので、物を育てるの妙味がおわかりにならないのですね、はぐくみ育てるの苦労というものを御存じないから、それで同情というものが生れて参りません——あなたは何不自由なくお育ちになりました、あなたはその豊富な生活の資料というものが、当然の権利として与えられたもののようにお考えになって、我儘(わがまま)というものは、誰にも許される人間の自由だとお考えになって、それで今日まで過ごしておいでになりました、多くの人が悩む生活の窮乏というものに、性来の御経験が無いのはあなたの幸福ではありませんでした。しかのみならず、あなたはお身体(からだ)もお丈夫で、今日まで、病気らしい病気におかかりになったことがないとのお話も承っておりましたが、それも、あなたの幸福ではございません、病気の経験の無い者を、友達にするなと古(いにし)えの人が申しました。あなたの恵まれたる生活がかえって、あなたの不幸でございました。それゆえに、何か不平不満の起りました時には、あなたは自分の仇敵(きゅうてき)のために、自分の持場を荒されたように、身も、世も、あられず、憤怒の火で心の徳を焼いておしまいになります、不平、不満の起りました時、ついぞあなたは、今まで自分の受けておいでになった有り余る満足と、我儘とに、思いおよぼしたことはございませんようです。天性、花のように生み成された御容貌が、無残にそこなわれてしまった怨(うら)みを、骨髄に徹するほど無念にくり返し、くり返し、私はあなたのお口から聞かされました。しかし、私に言わせますと、あなたの御容貌を微塵(みじん)に打砕いたそのものは、あなたの継(まま)のお母さんではありません、また、そのお母さんに味方をするという一類の人たちではありません、あなたの心の増長が、その面(かお)を焼きました」

鈴慕の巻

「どうも折々、こういうことがあって困ります、いいえ、別段に痛むのなんのというのではございませんが……それはそうとしまして、今のその鈴慕(れいぼ)の曲ですな、出過者(ですぎもの)の私は、鈴慕の曲を聞かせていただくごとに、堪能の方々にこれをお尋ねを致してみたのでございます、いったい鈴慕の曲は、どなたの御作曲で、どういう趣を御表現になったのでございますか、そのお方は、その時代は——と生意気千万にも、繰返し繰返しておたずねを致してみましたが、不幸にして、どなたも私のために、明快な御返事を与えて下さる方がございませんでした。ただ伝来の本曲がこうと教えられているから、この手を吹いているのみだ——とこう御返事になるのが常でございました。そのうち、もう少し進んだのが、あれは尺八中興の祖黒沢琴古が、わざわざ長崎の松寿軒まで行って、ようやく伝えられて来た本手の秘曲である、琴古は、虚空(こくう)と、鈴慕の秘曲を習わんと苦心しましたが、当時の先達(せんだつ)が、誰も秘して伝えてくれないものですから、遥々(はるばる)と長崎までたずねて行って、ようやくあの『草(そう)』の手を覚えて来て、伝えているのが今の琴古流の鈴慕だ、と教えて下さる方がありました。そこで私は例の出過者の癖と致しまして、では琴古さんが伝えたといわれるそれが『草』の鈴慕ならば、当然『行(ぎょう)』と『真(しん)』とが無ければならないはずでございますが、その行と真との鈴慕は、どなたが伝えておいでになりますか、それを秘して黒沢琴古に伝えなかったという先達は、誰からそれを許されたものでございますか、その次第相承のほどを承って、根元にさかのぼりたいとこう考えたものでございますから、随分しつこく、その都度都度に、人様にたずねてみましたけれど、ついにわかりません。これまで吹く人も知らないで吹き、聞く人も知らないで聞き、そうして、そこに疑いを起す人すらもなかったということに、かえって、私が驚かされたような有様でございました。尤(もっと)も私に、臨済(りんざい)と、普化(ふけ)との、消息を教えて下すって、臨済録の『勘弁』というところにある『ただ空中に鈴(れい)の響、隠々(いんいん)として去るを聞く』あれが鈴慕の極意(ごくい)だよ、と教えて下すった方はありました。その時、出過者の私は、その方に向って、ではあの尺八の鈴慕は、普化禅師の脱化の鈴の音そのままを取った響なのでございますか、或いは、臨済大師がお聞きになった鈴の音をうつしたのでございますか、とこう申しますと、その方が、イヤそうではない、そのいずれでもない、普化禅師に法を受けた張伯というものがあって、これが洞簫(とうしょう)——今でいう尺八を好くし、普化禅師の用いた鈴の代りにその洞簫を用うることにした、それが鈴慕の起りである——と斯様(かよう)に教えて下さいました時、またしても出過者の私が、それではあの鈴慕は張伯の鈴慕でございますか、と尋ねました。つまり私の心持では、鈴慕は臨済大師の鈴慕か、普化禅師の鈴慕か、ただしはその張伯という方の鈴慕か、ぜひともそれがお聞き申してみたかったのですが、私のたずね方が要領を得なかったせいでしょう、かえって私が叱られてしまいました。ところが今晩になってみますと、そんなことをしつこくたずね廻った私というものの愚かさが、つくづくと身に沁(し)みて参りました」

Ocean の巻

「皆さん、御承知の通り、高慢、罪悪、恋の曲者(くせもの)、代言人、物事に熱くなる性(さが)、乳母(うば)、それに猥褻(わいせつ)な馬鹿話、くだらぬ妄想(もうそう)は、すべて運星のめぐりに邪魔をいたします……さあ、いらっしゃい、わたしたちの力を頼めば、どんな人でも幸福に向います。諸君、エライ占星師にはそんなことは決して珍しくない。マニラは曖昧(あいまい)である、フィルミクは当てにはならぬ、アラビイは怪しげな調子で、口から出まかせを言う、ジャンクタンはなんでもかでも言いたがる、スピナはとかく隠したがる、カルタンは英国王に迷うている、アルゴリュースはあまりにギリシャ臭く、ポンタンはローマ臭い、レオリスとブゼルは大道を辿(たど)っています……そこで自然の秘密を真底から知ったり、運星の幸運を判断したり、アポロのように、風と、死体と、地と、水とで、一切万人に未来のことを示したり、空中から甘露と、霊薬を絞り取って、オロマーズを加味してアリマンヌを除き、そうして、男爵夫人を乞食に恋のうきみをやつさせて、有名なスカルロンの詩を吟じさせたり、何人(なんぴと)にも十分の成功を予言したり、霊妙不思議な惚(ほ)れ薬、黒鉛(こくえん)に、安息香に、昇汞(しょうこう)に、阿片薬を廉価(れんか)に販売したり、まった、月日や年代を言い当てたりするのは、誰ひとりとして、いやさ諸君、誰ひとりとして、ここにいられるわが師ギヨ・ゴルジュウ大先生におよぶものはない……」

年魚市の巻

「久しぶりにお目にかかります、私は弁信でございます。どうぞ皆様、御心配下さいますな、これでも旅には慣れた身でございます、旅に慣れたと申しますよりは、生涯そのものを旅と致しておる身でございます、生れたところはいずことも存じませぬように、終るところのいずれなるやを、想像をだに許されていないわたしの身の上でございます——はい、甲州、有野村の藤原家を尋常に、お暇をいただいて出て参りました、御縁があればまた立帰って、御厄介になると申し残して出て参りました。お銀様のことでございますか。あのお方は泣いておいでになります、あれ以来、毎日泣きつづけておいでになります。あのお方のは、悲しくて泣くのではございませんよ。無論、嬉しくて泣くのではありません。どうして、泣くのです。どうして、今になって泣かねばならないのですか。火事の前後のことは、わたくしがここで申し上げませんでも、皆様、たいてい御推察のことと存じます。あの前後には、お銀様は泣けなかったのです、それから三日目でしたか、あの日からお銀様が泣き出しました。泣き出すと、どうしても止まることができません、わたくしも、それをお止め申すことができません、大河の堰(せき)を切ったように、あの方が泣き出してしまいました。そうしてあれから、焼残りの土蔵の二階に、泣き伏したままでいらっしゃいます。誰もそれを慰めて上げるものがありません、無いのではありません、誰も近寄ることができないのです。わたくしだとて、その通り、あの方の涙を堰(せ)きとめるほどの力は、とうてい持合せがございませんのです。ちょうど、大火の盛んなる時は、いかなる消防の力を以てしましても、手のつけようがないように、あの方の泣き出したそれを慰めようのなんのと、そんな力があるべきはずのものとも思われません——お銀様は、今もあの焼残りの大きな土蔵の中で慟哭(どうこく)していらっしゃいます、号泣しておいでになります。その泣きつづけている声が、国を離れてこうして旅に出ている私の耳に、この通り響き通しなんでございます。あの号泣の声の嗄(か)れ尽す時がいつであるか、それをわたしは知ることができません。あの溢(あふ)れ出ずる涙の川のせき止まる時がいつであるか、それも、わたくしにはわかりません——そこで、わたくしは、泣いているお銀様に、土蔵の下まで行って、黙ってお暇乞(いとまご)いをして出かけて参りましたが、無論、弁信さん、お大切(だいじ)に行っておいでなさいとも、おいでなさるなとも御挨拶はございませんでした——私も、また、どうぞ、この際、あの方に泣くだけ泣かして上げたいと思いまして——あの絶大な号泣を妨げるのはかえって、わたくしの出過ぎである、冒涜(ぼうとく)であるというように感じたものですから、お暇乞いの時も、わざと言葉には一言もそれを現わしませんで、心の中で快くお別れを告げて参りました。快く……ほんとうに今度は快くお別れをして参ったと申しますのが、いつわらざるわたくしの心情でございました。人様がそれほど泣いていらっしゃるのに、それをあとにして快く出て来たなんぞと申し上げますれば、さだめて皆様は、わたくしを憎い奴だとお叱りになることでございましょう。さりながら私は、本気に快く出かけて参りましたことをいつわるわけには参りません——わたくしは、泣けるようになったお銀様の、あの心持を喜ばずにはいられません。無論、あれは喜びの涙でないにはきまっていますけれども、未(いま)だ決して懺悔(ざんげ)の涙でもございません、何とも名状のできない号泣でございます。けれども、泣けるようになったお銀様、そうして泣きたくなった時に、思いきり泣くことを許されているお銀様を、幸福だと信ぜずにはおられません。そこで、私は快くこうして旅路に出て参ったのでございます。そういうわけで、お銀様には親しく御挨拶をしないで出立して参りましたが、御主人伊太夫殿へは、お世話になったお礼を述べて参りました。この錫杖(しゃくじょう)と鈴でございますか——これは、その時の伊太夫殿から餞別(せんべつ)にいただきました。そうしてこれからわたくしはどこへ行く? とおたずねになりますか。はい、もうやがて間近いところの乗鞍ヶ岳の麓(ふもと)の、白骨の温泉まで私は参るその途中なんでございます……

「さあ、そうなりますと、わたくしはこれからどこへ行ったものでございましょう、十方に道はありとは申せ、わたくしの行くべきところはどこでございましょう、白骨でいけないとすれば、再び甲州の有野村へ帰りましょうか。わたくしが有野村へ帰りましたとて、もうわたくしの為すべき仕事はござりませぬ、伊太夫殿のためにも、お銀様のためにも、わたくしが帰ったことによって、いささかも加えることはできないようになっております。それではいっそ月見寺へ帰りましょうか、あれは白骨谷が空なるよりもなおさらに空なものになっております。さあ、左の方木曾路へ迷い入って、あれをはるばると行けるだけ行ってみましょうか、やがては花の九重の都に至り上ることはわかっておりますが、天子の都も、今は兵馬倥偬(へいばこうそう)の塵に汚れていると聞きました、その戦塵の中へ、かよわいかたわ者のわたくしが参ってみたとて何になりましょう。それならばはるばると摂津の難波、須磨、明石、備前、備中を越えて長門の下の関——赤間ヶ関、悲しい名でございます。寿永の昔にあの赤間ヶ関の浪の末に万乗の君がおかくれになりました、その赤間ヶ関の名は、ほとんど日本の国の終りのような響がいたします。でございますが、そこまで至り尽したところで、どうなりましょう。海を渡ればまた、四国、九州の新しい天地が開けます、有明の浜、不知火(しらぬい)の海、その名は歌のようにわたくしの魂の糸をかき鳴らしますけれども、現在そのところに至れば、わたくしの魂はずたずたに裂かれて、泣き崩折(くずお)るるよりほかはなかろうと思われます。それから先、海を越えて支那、朝鮮のことは申すもおろかでございます。さてそれならばいっそ安房(あわ)の国へ渡って、再び清澄のお山に登る、そこで心静かに、心耳(しんに)を澄ましてはどうかとおっしゃる、そのお言葉には、道理も、情愛もございます。まして、わたしが、唯一の幼な馴染(なじみ)であるところの、あの清澄の茂太郎も、今はまたその安房の国に帰っていることはたしかでございますから、お前のためには安房の国へ帰るのがいちばんよろしかろう、とおっしゃって下さる……それはまことに有難い仰せではございますが、私が、そもそもあの清澄のお寺を立ち出でました時の心をお察し下さいます方は、それがどうしてもできないことだと御承知くださると考えます。出家の身は一所不住と申しまして、一木の下、一石の上へなりとも二度とは宿らぬ願いでございます、ああして身の不徳を恥じながら清澄のお山を下ったこのわたし、どうしてまたあのお山に帰ることができましょうか。まして、人情というものの煩悩(ぼんのう)から全く脱しきれない貧道無縁の身、あちらへ帰りますと、見るもの、聞くものが、みな人情のほだしとならぬことはなく、この玉の緒の絶えなんとすることほどの切なさが、幾つ思い出の数にのぼりましょう、第二の故郷である安房の国へ帰ることは、第二の煩悩の種子を蒔(ま)きに行くようなものでございます。わたくしは安房へは帰れません、清澄のお山へは戻れません……ではせっかく来たものだから、空であろうともなかろうとも、惹(ひ)きつけられた力が絶えようとも絶えまいとも、最初の目的通り、一旦その白骨谷へ行って見てはどうかとおっしゃるのですか……それもそうでございます、わたくしも今それを考えているのでございます。さいぜんまで、あれほど痛切に呼びかけたお雪ちゃんの声が、いま私のあたまに響かないのは、あの子がもう白骨谷にはいない証拠だと、それでわたくしは一時がっかりしまして、それがために、せっかくこれまで来た踵(きびす)を返そうといたしましたが、しかしなおよく考えてみますると、たとえ、お雪ちゃんという子が現在あそこにいないにしても、最近まであそこにいたことはたしかでございます、ですからあの子の最近の便りを知るには、やはり白骨谷に越したところはございません、ともかくも白骨谷に行きさえすれば、もしあの子がいないとすれば、どちらへ行ったか、それは必ず分るはずでございます、やっぱりわたくしは力なくも白骨谷までまいりましょう。むろん、今の心では白骨へ行って、そうして、わたしが、ほっとそこで一息ついても、やれうれしやなつかしやお雪ちゃん、と呼びかけることはできないにきまっています。それから先、どこまで行って、どこで、誰に逢えるか、ちょっと分らなくなってしまいました。ですけれども、やはり一旦は最初の目的通りに白骨へ行くのが、この際、いちばんの順路かとも考えておるのでございます」

畜生谷の巻

 その語るところによると、鉄太郎はこの土地で育ったが、生れはやっぱり江戸だ、本所の大川端の四軒屋敷で生れたのだ、祖父の朝右衛門がここの郡代になるについて、当地へやって来たのが十歳(とお)ぐらいの時でもあったろう、おふくろも一緒に来たよ、おふくろといっても、鉄はああ見えてもあれで妾腹(めかけばら)でな、と言わでものことまで言う。剣術の方かい、ここで手ほどきをしたというわけではない、江戸で近藤弥之助やなんぞについて、その以前にやったのだが、引続いて、この地で学問剣術をやった。鉄に剣術を教えた井上清虎てのは、まだこの地にいるかって? 今はいないよ。よっぽど出来る先生かって、左様、よくは知らんがな、土佐の人だとかいったよ、真影(しんかげ)だ、それと甲州流の軍学を心得ていたということだ。そのほか、この土地の先生に就いて学問もやれば、習字もやったが、なんにしても飛騨の山の中では本当の修行はできやせん、まもなく江戸へ上って、鍛えたから、まあ当今あれだけになったものさ。ははあ、そんなに強いかね。天性力はあったね。鬼鉄(おにてつ)、なるほど、そうかも知れぬ。だが、感心に若い時分から信心家でな、八つぐらいの歳から観音様を信仰していたものだとさ。面白い話が一つある、叔父さんかなんかのために鎧(よろい)をこしらえていたが、その出来が遅いと言って怒られた、その晩、先生素裸(すっぱだか)で、黒の桔梗笠(ききょうがさ)をかぶって、お盆の上へ蕎麦(そば)を一杯恭(うやうや)しく盛り上げ、そいつを目八分に捧げて、その叔父さんかなにかのところへ出かけて、まじめくさって、門口に突立っていたものだから、みんなギャッと言って肝をつぶしたことがある。素裸で、お蕎麦一杯を恭しく捧げて、まじめくさって突立った形は絵になるじゃないか、白蔵主(はくぞうす)のお使といったような形だね。そんな人を食ったところもあったそうだ。六百石の小野家から、百五十石の山岡へ押しかけ聟(むこ)に行ったところも面白いな。君も知ってるだろう、山岡は静山(せいざん)といって、日本一の槍の名人さ——とにかく飛騨の高山は、昔、悪源太義平、加藤光正、上総介(かずさのすけ)忠輝といったような毛色の変った大物が出ているよ。毛色の変った人物といえば、近頃てこずった難物——と申し上げては少々恐れ多いが、とても扱いにくいエラ物(ぶつ)がおいでになって、拙者も弱り切っている。そうだ、君でも当分あの方のお傍にいて、お伽(とぎ)をつとめてもらうと助かるがなあ——

勿来の巻

「その後とても、現在、わたくしほどの者がこうして、ここまで生きてこられたということが、物の不思議でございます。わたくしのようなものでも、この世に生かして置いてやろうとの、お力があればこそ、こうして生きておられるのでございます。よし、わたくし自身といたしましては、こんな無智薄信の不自由な身が、この娑婆(しゃば)の中に、足あとほどの地をでも占めさせて置いていただくことが、この世にとっては、いかに御迷惑な儀であり、わたくしにとりましては、軽からぬ苦痛の生涯でありましょうとも、生かし置き下さる間は死ねませぬ。死ねない間は、わたくしは、わたくしとして、与えられたこの世の中の一部分の仕事が、まだ尽きない証拠ではございますまいか。言葉を換えて申しますと、わたくしの身が、前世に於て犯した罪悪の未(いま)だ消えざるが故にこそ、わたくしはこの世に置かれて、その罪業をつぐなうのつとめを致さねばなりませぬ。ああ、昨日は雪の中で凍えて死なんとし、今日はこうして、のんびりと温泉につかって骨身をあたためる、あれも不幸ではなし、これも幸福として狎(な)るる由なきことでございます。きのうの不幸は、わが過去の業報であり、きょうの幸福は、衆生(しゅじょう)の作り置かるる善根の果報であることを思いますると、一切がみんなひとごとではございません。さあ、もうこのくらいにして上りましょう。お湯から出たら、この炉辺へ来てお茶をあがれ、と北原さんというお方がおっしゃって下さいましたから、これから、わたくしはあの炉辺へ行って、お茶を招ばれるつもりでございます。この温泉場には、今年は珍しく、多数の冬籠(ふゆごも)りのお客があるそうでございまして、あの炉辺がことのほか賑(にぎ)わう、弁信、お前も珍しい新顔だから、ここへ来て旅路の面白い話をしろと、皆様からもすすめられましたから、わたくしもこれからお茶に招ばれながら、皆様のお話も承ったり、それからわたくしの話も申し上げたいと思いますが、わたくしは、どうも御存じの通りの癖でございまして、話をはじめると長うございますから、時と場合をおもんぱかりまして、皆様の御迷惑になるような場合には、慎んで控えていようとは心がけているのでございますが、本来、わたくしのこちらへ志して参りましたのは、どうも、あのお雪ちゃんの声で、しきりにわたくしに向って呼びかける声が、わたくしの耳に響いてなりませぬから、その声に引かされて、こちらへ参ったような次第でございますが、参って見ますると、ここにお雪ちゃんがいないということは——それは、大野ヶ原へ来る前から、ふっと勘でわかりました、お雪ちゃんがいない以上は、わたくしのこの地に来るべき理由も、とどまるべき因縁も、ないようなものでございますが、ここへ導かれたということ、そのことにまた因縁が無ければならないと存じました。これはわたくしの力ではござりませぬ、そうかといって、わたくしを助けてお連れ下さった猟師さんや、鐙小屋(あぶみごや)の神主様のお力というわけでもござりませぬ、全く目に見えぬ広大な御力の引合せでございまして、この広大な御力が何故に、わたくしをたずねる人の、すでに行き去ったあとのここまで導いて下さったか、その思召(おぼしめ)しは今のわたくしではわかりませぬ。わからないのが道理でございます、分ろうといたしますのも僭越でございますから、導かれた時は導かれたままに、そこに己(おの)れの全力を尽して善縁を結ぼうという心が、すなわちわたくしどもの為し得るすべてでなければなりませぬ。古人は随所に主(あるじ)となれと教えて下さいましたが、どうして、どうして——わたくしなんぞは随所に奴(やっこ)となれでございます。どうぞ皆様、この不具者(かたわもの)のわたくしでよろしかったならば、何なとお命じ下さいませ、琵琶は少々心得ておりまする、何卒、この不具者にできるだけの仕事をさせて、可愛がってやっていただきとうございます。ああ、いい心持になりました、白骨のお湯は、わたくしの骨まで温めてくれました。わたくしはこれから、皆様の炉辺閑話の席へお邪魔をいたして、また温かいお心に接し、あたたかい焚火にあたらせていただき、皆様のお話をおききしつつ——わたくしも心静かに、お雪ちゃんの行方(ゆくえ)を尋ねたいと存じます」

弁信の巻

「意地の悪いことをおっしゃる弁信さん。実はねえ、あなたのために、お淋(さび)しかろうと思ってお伽(とぎ)に出たのなんのというのは、お為ごかしなんでして、本当のところは、こっちが淋しくてたまらないんですよ、お察し下さい。この白骨の温泉の冬籠(ふゆごも)りで、誰がわたしの相手になってくれます、炉辺閑話の席などへ寄りつこうものなら、忽(たちま)ちあの人たちにとっつかまって火の中へくべられっちまいます。お雪ちゃんという子をとっつかまえて相手にしようと思いましたけれども、あの子はあんまり正直過ぎて歯ごたえがありませんね、ところがどうです、いい相手が見つかりましたぜ、ついこの間までお雪ちゃんが侍(かしず)いて来たあの盲目(めくら)の剣客、ことに先方も、たあいないお雪ちゃんのほかには骨っぽい話相手というものが更に無いという場合なんでしょう、こいつ願ったり叶ったり、究竟(くっきょう)の話敵御参(はなしがたきござん)なれと、こそこそと近づきを試みてみましたが、なんだか物凄くてうっかり近寄れません。そこであの天井の節板の上や、この畳のめどや、屏風の背後や、例のほくち箱の中なんぞに潜んで、隙を見てはこの話敵を取って押えようとしましたが、なかなかいけません、今日は御機嫌がいいようだと思って来て見ると、不意にあの短笛です、例の『鈴慕』ですね。あいつを聞かせられると、ピグミーはこの頭がハネ切れてしまいそうです。そこでその夜もびっくり敗亡、すごすごと引返すこと幾夜(いくよさ)。そのうちに、或る晩のこと、珍しくこの行燈(あんどん)へ火を入れましてね、ここで刀の磨きをかけていましたよ。その時ばかに御機嫌がよくって、この行燈の火影(ほかげ)で見える横顔なんぞが、美しいほど凄く見えたものですから、大将今晩こそは本当の御機嫌だなと、そっとそれ、あの衣桁の背後から怖る怖る這(は)い出して、まず刀の目ききからおべんちゃらを並べてみましたところが図に当りましたね。人間、好きには落ちるものですよ。五郎入道正宗じゃありませんか、違いますか、では松倉郷、それもいけませんかなんぞと言っているうちに、とにかくいい刀でしたからつい増長して、その棟の上へのぼってえっさえっさをして見せますと、それがいけなかったんですね、一振り軽く振られたんですが、何しろ手が冴(さ)えていますからたまりません、ホンの軽い一振りで、わっしの身体は胴から二つになってあの壁へやもりのようにへばりついてしまったというみじめな次第——いやどうも危ないものです。そこでこんどは河岸(かし)をかえてお浜さんへ取りつきましたね。いい女でしたね、姦通(まおとこ)をするくらいの女ですから、美しい女ではあるが、どこかきついところがありましたね。それもとどのつまりは『騒々しいねえ』といってお浜さんの手に持った物差でなぐられちまいました。どっちへ廻ってもこのピグミー、いたく器量を下げちまい、その後今晩まで閉門を食ったようなもので、この天井の蜘蛛(くも)の巣の中に、よろしく時節を相待っていたのは、弁信さん、あなたを待っていたようなものですよ。弁信さんならば、二尺二寸五分相州伝、片切刃大切先(かたぎりはおおきっさき)というような業物(わざもの)を閃(ひらめ)かす気づかいはありません。柳眉(りゅうび)をキリキリと釣り上げて、『騒々しいねえ』と嬌瞋(きょうしん)をいただくわけのものでもなし、人間は至極柔和に出来ていらっしゃるに、無類のお話好きとおいでなさる。こうくればピグミーにとっても食物に不足はございません、さあ相手になりましょう、夜っぴてそのお喋(しゃべ)り比べというところを一つ願おうじゃございませんか。それにしても火が無くちゃ景気が悪いです、先のお客様や、弁信さんなんぞは、塙保己(はなわほき)ちゃんの流儀で、目あきは不自由だなんぞと洒落飛(しゃれと)ばしなさるにしても、ピグミーの身になってみますと、これでも物の光というやつが恋しいんですからね、ひとつ火を入れましょう。この多年冷遇され、閑却された行燈に向って、一陽来復の火の色を恵むのも仁ではございませんか——どれ、ひとつ、永らく失業のほくち箱に就職の機会を与えて、カチ、カチ、カチ、カチ」

「御承知の通り、馬鳴菩薩のお作でございまして、釈尊滅後六百年の後小乗が漸(ようや)く盛んになりまして大乗が漸く衰え行くのを歎いて、馬鳴菩薩が大乗の妙理すなわち真如即万法、万法即真如の義理を信ずる心を起さしめんがためにお作りになったものだそうでございまして、真如と無明との縁起がくわしく説いてございます。わたくしは清澄のお寺におりました折に老僧からその大乗起信論の講義を承ったことがございますが、真如、無明、頼耶(らいや)の法門のことなどは、なかなか弁信如きの頭では、その一片でさえこなしきれるはずのものではございませんが、不思議と老僧の講義を聴いておりまするうちに、しみじみと清水の湧くような融釈の念が起ってまいりまして、およそ論部の講義であのくらいわたしの頭にしみた講義はございませんでした。ちょうど只今、真如と無明の争いを承っておりますうちに、その講義の当時のことが思い出されてまいりました。真如が果して真如ならば、無明はそれいずれのところより起る、という平田先生並びに池田先生のお疑いは決して今日の問題ではございませんでした。真如の中に無明があって、真如を動かすものといたしますと、もはや真如ではございません、もしまた真如の外に無明が存在していて、真如を薫習(くんじゅう)いたすものならば、万法は真如と無明の合成でございまして、仏性一如(ぶっしょういちにょ)とは申されませぬ。真如法性(しんにょほっしょう)は即ち一ということはわかりましても、無明によって業相(ごうそう)の起る所以がわかりませぬ。真如即無明といたしますれば、無明を真如に働かせる力は何物でございましょう。真如は大海の水の如く、無明は業風によって起る波浪の如しと申しますれば、水のほかに浪無く、浪のほかに水無く、海水波浪一如なる道理のほどはわかりますが、円満なる大海の水を、波濤として湧き立たせる業風は、そもいずれより来(きた)るということがわかりませぬ。この風を起信論では薫習と申しているようでございますが、薫習の源が、また真如無明一如の外になければならぬ理窟となるのをなんと致しましょう。世間でよく譬(たと)えに用いまするところの、蛇、縄、麻の三つでございますが、麻が形を変えますと縄になりますが、本来、麻も、縄も、同じものなのでございます。真如と無明とがまたその通り、一仏性が二つの形に姿を変えたものでございますが、その縄を蛇と見て驚くのが即ち人の妄想でございます……と申しましても、巧妙な譬えには巧妙な譬えでございますが、やはり良斎先生の御質問には御満足を与え得ないと存じます。つまり、麻と縄との同質異相は疑いないと致しましても、そのまま縄を蛇と見るものは衆生(しゅじょう)の妄想といたしましても……現実多くの人の煩悩(ぼんのう)は、怖るべからざるものを怖れ、正しく見るべきものを歪(ゆが)めて見るところから起るのでございまして、多くは皆縄を蛇と間違えて諸煩悩の中に生きているものには相違ございませんが——それは事実上の世界のことでございまして、只今の究竟的御質問には触れてまいらぬのでございます。良斎先生はその二つの譬喩(ひゆ)をお疑いになるのではなく、ただ麻が縄となるその外縁がわからぬようにおっしゃるのでございましょう。麻と縄とが同じものだということはお疑いにならなくとも、では、何者が麻を縄にしたか、その力を知りたいとおっしゃるのでございましょう。そこで、真如はただ絶対にして、動もなく、不動もなく、生もなく、死もなく、始めもなく、終りもなき大遍満の存在と致しまして、それに無明が働くことによってのみこの世界にもろもろの現象が起る、その現象が人間世界にもさまざまの悲喜哀楽を捲き起す——何の力が無明を働かして左様な現象を起さしめるのか、それがわからないとおっしゃるのでございましょう——」

不破の関の巻

「いよいよ、古狸も指を噛むようになったな。およそ日本の歴史上に、この関ヶ原の合戦ほど心憎い戦(いくさ)というものはない。すべての戦が、すべて勝負は時の運ということになっているのだが、勝敗の数をあらかじめ明らかにして、しかも最初からわかりきったはめ手にかけ、目指す大名を、豚の子のようにみな相当大きくしてから取るといった図々しい横着な戦争というものは他にあるべきはずのものじゃない。徳川の古狸を心から憎いと思う者も、その力量のあくまで段違いということを認めないものはない。それでいて、戦うものは戦い、敗れるものは敗れて亡びなければならないというのが運命だ。悠々(ゆうゆう)として落着き払って、遠まきに豚を檻の中に追い込み、最後にギュッと締めてしまう、すべてが予定の行動だ——こんな行動と結果のわかりきった戦争というものは無いが、ただ一つわからないものがある。それはあの古狸が、秀秋いまだ反(そむ)かざる前に伜(せがれ)めに計られて口惜(くや)しい口惜しいと憤って指を噛んだということだ。家康は若い時から、自分の軍が危なくなると指を噛む癖がある、その癖がこの際に出たということはわからない——本来この関ヶ原の戦は、家康が打ったはめ手通りに行っている戦で、どう間違っても家康に指を噛ませるように出来ていない芝居であったのが、あの際、指を噛ませることになったのは、たしかに芝居ではない、家康としては、重大なる不覚といわなければならぬ。本因坊が石田、小西の四五段というところを相手にして、終局の勝ちは袋の物をさぐるような進行中、指を噛まねばならなくなったということは、たしかに失策であり、そうでなければ誤算なのだ。本来、あの際に、誤算なんぞを、頼まれてもやるべき家康ではない、幼少以来鍛えに鍛えた海道一の弓取りだ、敵を知り、我を知ることに於ては神様だ。あらかじめ斥候(せっこう)の連中が皆、上方勢を十万、十四五万と評価して報告して来るうちに、黒田家の毛谷主水(もんど)だけが、敵は総勢一万八千に過ぎないと言う。軍勢をはかるには、京大阪の町人共が算盤(そろばん)の上で金銀米銭の算用をするような了見では相成らぬ、なるほど、上方勢十万も十五万もあるだろうが、高い山へ陣取っているものは、平地の合戦には間に合わぬものだ、上方勢で実戦に堪え得るものは一万八千に過ぎない、それ故、味方大勝利疑いなしと毛谷主水が家康の前で広言して、家康をして、『よく申した、武功の者でなければその鑑定はできない』と言って、手ずから饅頭(まんじゅう)を取って毛谷主水にくれた。無論そのくらいのことは家康はとうに読みきっている。今いう、毛谷主水の一万八千人は、つまり石田の手兵五千と小西の六千、大谷の千五百人というそれに、宇喜多軍の一部を加えたものに過ぎない、とにかく西軍の実勢力は二万に足らぬ小勢であったとは見る人はきっと見ている。その二万に足らぬ小勢が、十万以上の古狸の百練千磨の大軍と、去就(きょしゅう)不明の十万以上の味方を足手まといにしながら、家康に指を噛ませたという超人間力の出所を、もう一ぺん我々は見直さなければならない。ここが家康の誤算なき誤算なのだ。決死の軍に超数学的の援兵がある真実は、幼少の時、阿部川の印地打ちの勝敗を予言したほどの家康は、知って知り過ぎている、それがなお且つ、それを計りそこねたのだ。家康をして、指を噛むことをもう一分遅からしめると、天下のことはどうなったかわからぬ」

「こういうことの結果は、たいてい世間に見られる通りの破滅の道に急ぐのが通例でしたけれど、幸か不幸か、この怖ろしい二人の間の魔力が、全く予想外に無難に進んで行きましたのは——友人は竹馬の友で、拙者を少しも疑っていない、よし疑っていないまでも、自分の女房に対しての自覚と、特別の愛情とがありさえすれば、おのずから警戒という心が生ずるものなのですが、その友人は全く警戒をしていないのです。自分の女房にあやまちがないと絶対信任しているというよりは、女房があやまちをしたからといっても、それを咎(とが)め立てするほどに女房に対して隔意を持っていないほどに親密——とでも言った方がよいでしょう。ですから、二人の間の火の出るような関係が、少しもさわりなく——そうしてまた友人の妻も、それをよいこととは信じていなかったであろうが、衷心(ちゅうしん)から悪いこととは信じきれないで、愛せねばならぬ人を愛することも、恋せずにはいられない人を恋するのも同じことである——そこで、この奇妙なる関係が、妻は妻として今まで通りに夫を愛し、新たな愛人は愛人として、渾身(こんしん)のあるものを捧げるということに矛盾を感じていなかったようです。ですから、拙者を愛してもまた、彼女は貞淑善良なる友人の妻であることを失いませんでした。拙者としてもまた、おのずからの力で、こう進められて行ったその力に抗しきれないだけで、友人の妻を奪ったとか、おくびにもその痛快をひらめかすとか、嫉妬を煽(あお)るとかいうような振舞は少しもしないで、竹馬の友は竹馬の友として昔に変らず、表面の交際をつづけて行ったのですから、二人は、もう不義の恋ですが、今でも拙者は、不義とはどうしても覚りきれませんが、本当に溶けるような甘い思いを味わって行きました。いや、こんな話は、お聞かせ申すべきはずではござらぬが、さいぜんも申す通り、拙者をして、語るべからざることを語らしむるように誘発された責めは……あなたにある、いや、あなたの鈴慕がそれをそうさせたのだから、拙者として語りつくすところまで語り尽さなければ、話端(はなし)の業がつきないのです。まず、お茶を一つ召上れ」

白雲の巻

 つまり、うむ、では、直ぐに出かけてつかまえて来いとも言わないし、あんな奴は問題にするなとも言わないのは、駒井としてそこに若干の苦衷(くちゅう)が存するものらしいことを、田山白雲も最初から感じていました。あのウスノロのマドロスめ、言語道断(ごんごどうだん)の奴ではあるが、船長としての駒井甚三郎が、その言語道断の奴を一刀両断にも為(な)し難い——というのは、駒井甚三郎はその秀抜[#「秀抜」は底本では「秀技」]な頭脳を以て、最近の学術と、経験と、応用とを以て、一艘(いっそう)の船を独創したことは事実であるが、それを首尾よく運送して、初航海を無事にここまで安着せしめた成功の大半は、この放縦無頼(ほうじゅうぶらい)のウスノロのマドロスの力に負うところが無いとは言えない状態なのだ。学問は無く、品性は下劣であるにしても、その世界中を渡り歩いて、海を庭とし、船を家としていた生活から生れた体験は、駒井が、書物や、学理や、少々の実験からではどうしても得られないものを、こいつが豊富に持っていました。それは今度の初航海に充分に証明されたところであり、本人が、こっちにとってそれほど貴重な経験を、マドロスとしてあたりまえの働きとして、鼻にかけるところまでは行ってなかったらしいが、駒井にとって、天の助けとも、渡りに船とも、なんとも有難い唯一無二の羅針となったものです。この男がいなかろうものなら、船は、難破せしめるほどのことはないにしても、ここまでの無事廻航はまず覚束(おぼつか)ない。或いは途中、不意にどこかへ寄港して、腹帯を締め直す必要はたしかに存していたと見なければならぬ。同時に、不意の寄港がもたらすところの不便や、誤解や、さまざまの障碍を想像すると、マドロスにあっては尋常茶飯(じんじょうさはん)の労務が、駒井には無くてならぬ依頼——船中の誰よりも、むしろ船の次には、その男が必要と認めないではいられなかったと思われる。

 今の事情が、またそれを証明させる。あいつ無闇に親船を駈落(かけおち)して来は来たものの、本来あの兵部の娘にしてからが、そんなに思慮の計算のあるやからではない、人の金を持ち出して、二十日余りに四十両の五十両のと使い果してから、この世の名残(なご)りとしゃれるようなしゃばっけも持ち合わせてはいない。ただ盲目的に着のみ着のままで飛び出して来たのだから、行当りばったり、行詰るにきまっている。行詰った時、最初の要求は、彼等にとっては死でなくして食である。少なくとも、ウスノロの奴め、雪時の熊のように、どこかへ食物をあさりに出るに相違ない。食物を人里へあさりに出たが最後、眼の色、毛の色の変った珍客——昔二ツ眼のある人物が、見世物の材料を生捕るために一ツ眼の人の島へ押渡ったところ、反対に二ツ眼のある人間が来たから取っつかまえて見世物にしてやれ、と言ってつかまってしまったというのと同じ運命に落つるにきまっている。白雲が最初、七兵衛おやじの影を捕えるのはかなり難儀であろうが、ウスノロの方は存外手間暇(てまひま)がかかるまいと安く見ていたのが的中しました。彼は今、飢えに迫ってあの船頭小屋の中へ何か食物を漁(あさ)りに来たのだ。そして船頭親子に見つかってあの醜体だ。白雲は自分の想像の図星を行っているウスノロめの行動が、むしろおかしくなって吹き出したいくらいに感じたが、しかし、彼処(かしこ)で争っている三人の御当人たちの身になってみれば必死の格闘である。ことに気の毒なのは、この一種異様な侵入者を、ここまで追跡して来て、せっかく取抑えたかと思えば、かえって逆襲されて、一歩あやまると、自分たちの生命問題になる立場に変って、狼狽(ろうばい)しつつ、後退しつつ、必死に争っている体を見ると、白雲は気の毒でたまりません。

胆吹の巻

「ですからね、お雪ちゃん、あなたも、わたしも、鈴慕の音色にあこがれて来たのだということは、今もクドクドと申した通りなのです。しかし、不幸にして二人の聞こうとしていた鈴慕は聞くことができないのみか、音色を鈴慕に借りて、内容、精神はやっぱり堕地獄の音でありました。それ故に、わたしはあれを聞かせないように、せめて、あなたにそれを聞かせたくないようにとつとめている心は、今もあの時も少しも変りありません——それですから、今のわたしと致しましては、お雪ちゃんに怨まれましょうとも、ズルイと言われましょうとも、コスイと言われましょうとも、うやむやと言われましょうとも、これよりほかに何とも致し方がないのでございます。ですから、これはそうと致しまして、お雪ちゃん、わたくしはこれからひとつ、お山巡りをして参りますから、少しのあいだ待っていて下さい。お山巡りと申しますのは、実は、わたくしも縁あってこの胆吹山の麓を汚(けが)しながら、まだお山の神様へ御挨拶にもお礼にも出ておりませんから、これからひとつ……参詣をしてまいりたいと思うのです。お聞きにもなりましたでしょうが、この胆吹山と申しまする山は、日本七高山のその一つに数えられておりまする名山でございます。高さから申しますと、さきほどあなた方がおいでになった焼ヶ岳や穂高、神高坂(かみこうさか)、大天井(おおてんじょう)の方の山々とは比較になりませんけれども、あの地方は、山そのものも高いことは高うございますけれども、地盤がまたおのずから高いだけに、こちら方面よりは標高が高まっておりますものでございますから、山容そのものだけの高さをもっていたしますると、この胆吹山とても随分あちらの高山峻嶺に劣りはしないとこう考えますから、わたくしも、その心構えで参詣してまいりたいと思います。案内者でございますか。私としましては別段、案内者は頼みませんでも、山にしたがってまいりさえすれば、あぶないことはなかろうと存じます。登山路の道筋だけはよく承って置きました。これから参りますと、ほどなく女一権現というのがあるそうでございます、それを過ぎますと、北に弥勒菩薩(みろくぼさつ)のお堂がございまして、あの辺には一帯に松柏の類が繁茂いたし、胆吹名代の薬草のございますのも、その辺であると伺いました。それから登りますと三所権現があり、それをまた十町登りますると鞠場(まりば)というのへ出ると承りました。その鞠場より上へは女人は登ることを止められてあるそうでございます。それからは巌根こごしき山坂を越えて、絶頂が弥勒というところ、そこへ行くと、時ならぬ風は飄忽(ひょうこつ)として起り、且つ止まり、人の胆を冷すそうでございますが、一体にこの胆吹のお山は気象の変化の劇(はげ)しい山だそうでございまして、ことに怖るべきは、頂上の疾風だなんぞと人様が申しますから、その辺もずいぶん用心を致しまして、そうして頂上の弥勒菩薩に御参詣を致して御挨拶を申し上げ——それから帰りには、できますことならば、別の道をとって西に降り、胆吹神社に参詣——胆吹明神と申しますのは風水竜王が御神体であらせられ、その昔、飛行上人(ひぎょうしょうにん)がこの山に多年のあいだ住んでおりまして、開基を致されたと承りました。飛行上人と申すのは、いずれのお生れか存じませんが、飛行自在(ひぎょうじざい)の神通力(じんずうりき)を得て、御身の軽きこと三銖(さんしゅ)——とございますが、三銖の銖と申しますのは、三匁でございましょうか、三十匁でございましょうか——まだ私もよく取調べておりませんが、身の軽いということを申しますと、わたくしも至って身軽の痩法師(やせぼうし)でございますが、飛行自在の神通力なんぞは及びもないことでございます故に、つとめて自重を致しまして、山険と気象に逆らわず、神妙に登山を致し、慎密に下山を致して参るつもりでございます。本来、目が見えませんから、山へ登りましても人寰(じんかん)の展望をほしいままに致そうとの慾望もござりませず、山草、薬草の珍しきを愛(め)でて手折(たお)ろうとの道草もござりません、ただ一心に神仏を念じ、他念なく登ってくだるまでのものでございます。それ故、今晩のうちには、無事に戻って参るつもりでございますから御安心下さいまし。もしまた、途中、天変地異の災難がございましたら、心静かに臨機の避難をいたしまして災難をやり過して、それから徐(おもむ)ろに下りてまいります。いかに疾風暴雨といたしましても、一昼夜のあいだ威力を続けているという例は少のうございますから、その間をどこぞに避難しておりまする間の時間——それを御考慮に入れて置いていただきましても、明朝までには間違いなく戻って参ります。そのほかには、決して御心配になるほどのおそれはございますまい。あっ、そうでございますか、なるほど、昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの山で大蛇(おろち)にお会いになって、それがために御寿命をお縮めあそばされたという歴史の真相、あれはおそれ多いことでございましたね、山神が化して大蛇となり、悪気を以て武尊をお苦しめ奉ったという歴史、これは真実でござりましょうが、今日は左様な悪気はことごとく消滅しているに相違ござりませぬ。でも、毒蛇はいない代りに盗賊が——ああなるほど、それは一応は尤(もっと)もなお心づかいでございますが、この胆吹山や、伊勢の鈴鹿山が、名ある盗賊のすみかであったことも、もはや過ぎ去った昔のことでございます、今日では誰も左様なことを噂(うわさ)にさえ申しませぬ。ただ恐るべきは山路の険と、気象の変化、それだけなんでございましょう。では、わたくしはこれから出かけて参ります」

新月の巻

「よう、あなた、何を考えていらっしゃるの——物事は成るようにしか成りゃしませんから、クヨクヨなさらないように……いったい、あなたが薄情で、そうして小胆でいらっしゃることは、中房のお湯で、ようくわかり過ぎるほどわかっているのよ。けれど、それがまた、あなたはおいやでも、こうして飛騨の奥山で、退引(のっぴき)ならずお目にかからなければならないようになったのも浅からぬ御縁というものじゃなくって——浅間の温泉では、ずいぶん失礼しちゃいましたわね。でも、どうも、あの時から、あなたとわたしとは、離れられない御縁——というわけじゃなかったのか知ら。ですから、あとになり、先になり、おたがいにこうして、よれつもつれつして行くのが乙じゃなくって、考えてみるとおたがいは、前世でいい仲を裂かれた許婚同士(いいなずけどうし)かなにかの生れかわりじゃないか知ら。ですから、あなたがおいやでも、わたしが好きの嫌いのなんのという心持でないにしても、二人は、行くところまで行かなけりゃ納まらないように出来ているのかも知れませんのねえ、行きましょうよ。お蘭さんとがんりきの奴は、いい気で美濃路へ出てしまいましたし、お雪ちゃんという方は、お化けのようなお坊さんと、これも表の方へ出て行ったというじゃありませんか。あんな人たちへの意地としてもわたしたちは、同じ道をとりますまい——白山へ行きましょうよ、加賀の白山へ——白山はいいところですってね、あなたも、いい御縁ですから、ぜひ一度、参詣していらっしゃい。ですけれども、今度は途中で振捨てて、あの仏頂寺なんて仏頂面のさむらいにさらわせてしまってはいやよ——ねえ、あなた行きましょうよ、北国筋へ。旅は嬉しいものじゃなくって?」

 ただ、もう少し追究すると、そんならそれで、従者なり、案内人なりを連れて、白昼やって来ればよいのに、この真夜中に、こういう危険を冒(おか)してまで探究しなければならぬ必要と、薬草とがあるか? というようなことになるのですが、それは専門家としてのこの先生に減らず口を叩かせると、本来、薬草というものは、見物に来るべきものではない、臭いをかいでなるほどとさとるものもある、臭いをかぐには深夜に限る、なんぞと理窟をこねるかも知れない。また草木の真の植物的機能を知るために——草木といえども、動物と同様に休息もすれば、睡眠もとる機能がある、それを観察するために、わざと深夜を選んだという理由も成り立たぬことはないでしょう。ことにまた植物の葉というものは、空気に先だちて暖まり、空気に先だちて冷ゆるものであるから、葉温は空気の温度に支配せらるるというよりも、むしろ葉温が気温を支配するというのが至当であるという見地から、植物の葉の温度は、日中には著しく気温よりも高く、晴夜には著しく気温よりも低いということの実験を重ねるために、わざわざ深夜を選んだということの理由も成り立たないではないが、地方から最近転任のお巡りさんが、挙動不審犯を交番へ連れ込んだ時のように、この先生の行動の出処進退を調べ出しては際限がない。第一、この胆吹山へ突入までの石田村の田圃(たんぼ)の中で、衣裳葛籠(いしょうつづら)を這(は)い出して、田螺(たにし)に驚いて蓋をさせたあの場を、どうして、どういうふうに遁(のが)れ出して、この胆吹山まで転向突入するまでに立至ったのか、その証拠固めをして、辻褄(つじつま)を合わせるだけでも、容易な捜索では追っつかないが、それは酔いのさめる時を待って徐(おもむ)ろに訊問をつづけても遅くはあるまいが、要するに、道庵は道庵として職に忠実にして、学に熱心なるのあまり出でた、全く無理のない行動をとって、ここに縦の蒲団を横にして、上平館(かみひらやかた)の松の丸の炉辺に寝込むまでの事情に立至ったことを、信じて置いていただけばよろしいのです。

「お雪ちゃん、お前さんも将来はその責任があるのだから、ようく聞いて置きなさいよ、わしはエロで話すわけじゃないんだ、お前さんの親切心に酬(むく)ゆるために、女にとってこれより上の大事はない、つまり男で言えば、戦場に臨むと同様なのが、それお産のことだあね。こればっかりは男にはできねえ。わしゃいったい、どうも身贔屓(みびいき)をするわけではないが、女の方が男に比べて脳味噌が少し足りねえと思うね。そりゃ女だって、多数のうちには男に勝(まさ)る豪傑——女の豪傑というも変なものだが、男のやくざ野郎よりは数十段すぐれた女もあるにはある、男だって女の腐ったよりも悪い奴がウンといるにはいる、が、平均して見てだね、女の方が少し脳味噌が劣る——と言っちゃ怒られるかね。だから女というやつは、男にたよらなければ何一つできない、女のするほどのことは男がみんなするが、男のするほどのことを女がやりきれるというわけにはいかねえ。ただ一つ、女にできて男にどうしてもできねえことが、しゃっちょこ立ちをしても男がかなわねえことが、たった一つだけある、それは何かと言えばお産をすることだ。こればっかりは女の専売で、男がたとい逆立ちをしてもできねえ。尤(もっと)も孝経には、父ヤ我ヲ産ミ、母ヤ我ヲ育ツ、とあるから、孔子の時分には男が子を産んだのかも知れねえが、今日、男が子を産んだという例は無い。だから子を産むことだけは女の専売で、この点では男が絶対的に女の前に頭が上らねえんだが、女さん、増長していい気になっちゃいけませんよ、その子を産むというたった一つの女の絶対的専売でさえ、男の助太刀(すけだち)が無けりゃできねえんだから……」

恐山の巻

「ずいぶん、漕ぎ方が荒かったでございます、どうしたのですか、米友さん、わたくしはどうもそれがおかしいと思って、今まで、ひとりで考えてみました、最初この舟が、あの城あとの前から出る時は、ほんとうに穏かに辷(すべ)り出しました、その舟の辷り出す途端から、米友さんが櫓を押す呼吸も穏かなものでございましたのに——そこで、米友さんも自然に鼻唄が出てまいりましたね、水も、波も、舟も、櫓も、ぴったりと調子が揃(そろ)っておりました、そこで、その調子に乗って、おのずから呼吸が唄となって現われた米友さんの心持も素直なものでございました。わたしはそのときに別なことをこの頭で考えておりましたが、米友さんの唄が、あんまりいい気持でうたい出されたものでございますから、うっかりそれに聞き惚(ほ)れてしまいました。何と言いましたかね、あの唄は……十七姫御が旅に立つ、それを殿御が聞きつけて……おもしろい唄ですね、罪のない唄ですね、それを米友さんがいい心持でうたい出したものですから、わたくしも、つい、いい心持にさせられてしまいましたのです。あなたの音声に聞き惚れたのではございません、その調子がととのっておりました、米友さんの唄いぶりもおのずから練れておりました。あの唄は米友さんが長い間うたい慣れた唄に相違ありません、よく練れていました、気分がしっくりとしていました。関雎(かんしょ)は楽しんで淫せず、と古人のお言葉にありますが、大雅の声というものが、あれなんだろうと思われました、太古の民が地を打って歌い、帝力何ぞ我にあらん、と言った泰平の気分があの唄なんだろうと、わたくしは実に感心して聞き惚れていましたのに、それが半ばからすっかり壊れてしまいました。どうしてあんなに壊れたでしょう、あれほど泰平雍和(ようわ)の調子が、途中で破れると、すべてが一変してしまいました、あなたの唄が変り、櫓拍子が変り、呼吸が変り、従って舟の動揺が全く変ってしまったのには、わたくしは驚いてしまいました。そうかといって、波風がまた荒くなったのではありません、湖の水流に変化が起ったわけでもありません、前に何か大魚が現われたという気配もございませんし、後ろから何物かが追いかけて来るような空気もございませんのに、ただ、米友さん、あなただけが、荒れ出してしまい、それから後のあなたの舟の漕ぎっぷりというものが、まるで無茶ですね、無茶と言えなければ自暴(やけ)ですね。さっさ押せ押せ、と言いながら、そうして自暴に漕ぎ出してからのお前さんは、いったい、この舟をどこまで漕ぎつけるつもりなのですか。下関といえば内海の果てでございます、それから玄海灘(げんかいなだ)へ出ますと、もう波濤山の如き大海原(おおうなばら)なんでございますよ。ここは近江の国の琵琶の湖、日本第一の大湖でございますが、行方も知らぬ八重の潮路とは違います、それだのに、米友さん、お前さんの、今のその漕ぎっぷりを見ていると、本当に下関まで、この舟を漕ぎつけて行く呼吸でした。下関までではございません、玄海灘——渤海(ぼっかい)の波——天の涯、地の角までこの舟を漕ぎかける勢いでございました」

「米友さんや、わたくしは一昨晩——胆吹山へ参詣をいたしましたのです、その時に、あの一本松のところで、山住みの翁(おきな)に逢いました。たいへん、あそこは景色のよいところだそうでございましてね、翁は隙があるとあの一本松のところへ来ては、湖の面(おもて)をながめることを何よりの楽しみといたしまして、ことに夕暮の風景などは、得も言われないと賞(ほ)めておりましたが、その時にわたくしが、わたくしの眼ではその美しい風景も見ることができませんが、そんな美しい琵琶の湖にも、波風の立つことがございますかと聞きますと、それはあるとも、ここは胆吹の山だが、湖をさし挟んであちらに比良ヶ岳というのが聳(そび)えている、胆吹の山も風雪の多い山ではあるが、湖に対してはそんなに暴風を送らないけれども、あちらの比良ヶ岳ときては、雪を戴いた山の風情(ふぜい)がとても美しいくせに、湖にとってはなかなかの難物でございますって——それと申しますのは、若狭湾(わかさわん)の方の低い山々から吹き送られてまいりまするところの北西の風が、ことのほかにたくさんの雪を齎(もたら)し来(きた)るのだそうでございます、そうして、あちらの日本海の方から参りまする雪という雪が、みんな比良ヶ岳の山に積ってしまうのだそうでございます、それで、そのわりに雨というものが少ないものでございますから、雪の解けることがなかなか遅いそうでございまして、冬から春さきにかけますと、沿岸の平地の方は温かになりますのに、山中及び山上は、甚(はなは)だ冷たいものでございますから、そこで温気と寒気との相尅(そうこく)が出来まして、二つの気流が烈しく交流をいたしますものですから、それが寒風となって琵琶の湖水に送られる時が、たまらないのだそうでございます。波風は荒れ、舟は難船いたし、人も災を蒙(こうむ)ることが多いのだそうでございます。そこで、この時分を、比良八荒(ひらはっこう)と申しまして、事に慣れた漁師でさえも、出舟を慎しむのだそうでございます。藤井竹外という先生の詩に『雪は白し比良山の一角 春風なほ未(いま)だ江州に到らず』とございました、あの詩だけを承っておりますと、いかにも比良ヶ岳の雪は美しいものとばかり思われますけれども、そういう荒い風を送るということを、わたくしは一昨日、胆吹の山住みの翁から承ったのでございますが、ちょうど今はまだ冬季に入っておりませんし、比良山にも雪がございませんそうですから、舟はどこまで行っても安心だそうでございます。ですから、外から起る波風の点におきましては、大安心のようなものでございますけれども、米友さんの胸の中に、波風が起ったばっかりに、舟がこの通り行方をあやまってしまいました、この舟で、この方向へ漕いでまいりましては、決して私共の心願のある竹生島へ着くことはできませんでございます」

「ねえ、米友さんや、さきほどもわたくしが、あなたに向って申しました、毫釐(ごうり)も差あれば天地遥かに隔たると申しました。それです、長浜の岸を出た時のあの調子で参りますると、舟は無事円満に竹生島へ着くことができたのです、それが途中でこんなに方向がそれてしまいましたのは、水が悪いわけではなく、また舟のせいでも、櫓のせいでもございませんのです、米友さんの心持一つなのです。なぜといって、ごらんなさい、あのとき米友さんが、いい御機嫌で鼻唄をうたい出しになりましたね、それ、十七姫御が旅に立つ、それを殿御が聞きつけて、とまれとまれと袖を引く……ずいぶんおもしろい唄で、無邪気なものでございましたが、それを唄い出しているうちに、米友さんの気持が急に変ってしまいました、その変ったことがわたくしの勘にはありありと分ったのです。あれを唄いかけて、あのところまで来ますと、何か昔のことを思い出したのに違いありません、たとえば故郷の山河が眼の前に現われて来たとか、幼な馴染(なじみ)の面影が前に現われたとかいうようなわけで、何かたまらない昔の思い出のために、米友さんは、あんなに急に気が荒くなってしまって、さっさ押せ押せ、下関までも、と自暴(やけ)に漕ぎ出してしまったのです、それに違いありません。それがあんまり変ですから、わたくしもこの頭の中で、米友さんの胸の中を、あれかこれかと想像しているうちに、おぞましや、自分も自分のつとめを忘れてしまいました。あなたに舟を漕いでいただいて、わたくしが水先案内をつとめねばならぬ役廻りでした、それを一時(いっとき)、わたくしはすっかり忘れてしまったのです。眼の見えないわたくしが、水先案内を致すというのも変なものでございますが、眼は見えませんでも、私には勘というものがございまして、天にはお天道様というものもございます、このお天道様のお光と、この頭の中の勘というものとを照し合わせてみますると、方角というものはおおよそわかるものでございます。ですから、これはやっぱりわたくしが悪いのでございました、責任がわたくしにあるのでございました、米友さんはただ舟を漕いでいただけばよいのでございました、右とか、左とか、取り梶とか、おも梶とかいうことは、その時々刻々、わたくしが言わなければならないのを怠りました、それ故に舟の方向をあやまらせてしまったのは、米友さんが悪いのじゃありません、案内役のわたくしが悪かったのです、米友さんの胸の中を考えるために、私がよけいな頭を使って、舟の方がお留守になりました、それ故ほんの一瞬の差で、舟の全針路を誤らせてしまいました。わたくしたちは全く別な心で出直さなければなりません、そうでございませんと、湖とは申せ日本第一の大湖、周囲は七十里に余ると承りました、迷えば方寸も千里と申します、ましてやこの七十里の湖の中で、二人は迷わなければなりません。米友さん、少しの間、舟を漕ぐことを止めていただきましょう、そうして、ゆっくり、わたくしがこの頭で考え直します、そうして、全く心を置き換えて、再び舟出をし直さなければ、竹生島へはまいれませんのでございます」

農奴の巻

「これは、ひとり農民に限ったことはございません、すべての人に伝えなければならぬ観念なのでございますが、ことに農民から始めて、誤った貴賤貧富の観念をすっかり改めてやらなければなりません。貴賤貧富の観念を改めると申しましても、悪平等に堕せよと教えるのではございません、君は君とし、親は親とし、人倫はおのおの尊重し合わなければなりません、それは古(いにし)えよりの道でございます、その正しい倫理観念に反逆をそそるような教え方はいけません。中世以降、この世界をすべて麻痺(まひ)せしめてしまっておりますところの、貴賤上下の観念だけはすっかり取払ってやって、万事はそれからのことなんでございます。後代の貴賤上下の観念は、人間本質の輝きではございませんで、その輝きを没却するところの手段方法に供せられた点が夥(おびただ)しいのでございます。そのために、世界の見て以て卑しとするものが、必ずしも卑しからず、俗界の見て以て貴しとすることが、必ずしも貴からず、貧が必ずしも辛(つら)からず、富が必ずしも楽ではないということの根本の事実と、実際とを教えて上げなければなりますまい。末世に於きましては、事実上、正当の地位がみな置き換えられてしまっているのでございます。それは最初のうちに、国を治める人が方便のためにしたことが、後日はその方便が方便の仮借(かしゃく)から離れて、そのことそのものに、われとつけてしまった箔(はく)のために、われと迷うているのでございます。たとえばこの世の位階勲等の如きは、最初は、帝王の宏大なる政治心から、人間待遇の道として開かれたものでございまして、人が偉いから、おのずからそのかがやきが発せられたものなんでございまして、後代に到りますと、人間がつまらないのに、箔だけがかがやくものでございますから、知恵の浅い多数の者が、その中身を見ないで、箔だけを拝むようになりました。位階勲等ばかりではございません、人間の原始の生活には、富というものはございませんでした、また、正当な生活をやっておりさえ致しますと、富というものの蓄積も、使用も、さのみ効用がないものなのでございます。然(しか)るに末世になりまして、人間がおのおの生活のために戦うようになりますと、富の蓄積が即ち生命の蓄積と同じような貴重なものになりまして、同時に人間そのものの生命を尊重するよりは、生命のために蓄積した富そのものを拝むように間違って参りました。富があれば、安楽にして一生が暮せる、富がなければ、一生を牛馬の如く苦労して暮らさなければならぬ、一歩あやまてば餓えて死ななければならぬ、その恐怖のために万人がおののいて、みすみす罪におちておりますが、私から言わせますと、このくらい違った迷信はないものと存じまする。他人の膏血(こうけつ)による富を積んで、己(おの)れが安楽に暮さんとする、その安楽が、世の人の考える如く安楽なものでございましょうか、汗を流して終日働く人たちのみが、世の人の考えるほど不幸なものであり、労苦なものでございましょうか。この観念を、今の人は、よく見直すことに出直さなければならないのではないですか。位階勲等の高きもの、身分格式の卑しいもの、働かないものが幸福で働くものが不仕合せ、ただ単にそれだけで或いは誇り、或いは憂えるということがあんまり浅はかに過ぎます。本当の幸福は、世のいわゆる、見て以て高しとするところになく、見て以て低しとするところに存在するのではございますまいか。且つまた、本当の安楽は、世の見て以て逸(いつ)とするところに存在せずして、見て以て労(ろう)とするところに存在するのではございますまいか。御存じでございましょう、佐藤一斎先生が太公望をお詠(よ)みになった詩の中に、『一竿ノ風月、心ト違(たが)フ』という句がございます、その前句は多分、『誤ツテ文王ニ載セ得テ帰ラル』とかございました、私の記憶と解釈が誤っておりましたらば御免下さいませ、あれは、太公望が釣をしているところを、周の文王に見出されて天下の宰相となりました、普通の眼で見ますると、これより以上の出世はないのでございまして、世間の光栄と羨望の頂上でございますが、太公望御自身から申しますると、大へんにこれは間違っている、自分の本当の楽しみは、一竿の風月にあって、天下の宰相になることではない、それを見出されてしまったのは時の不祥である、という心持を、さすがに佐藤一斎先生がお詠みになりました。それは負け惜しみでも、似非風流(えせふうりゅう)でもございません、太公望様それ自身の本心なのでございます、楽しめば一竿の風月の中に不尽の楽しみがある、それよりほかの物は結局煩(わずら)いに過ぎない、という太公望の心境を、さすがに佐藤一斎先生がお詠みになりました。それからまた、三国の時代の有名な諸葛孔明(しょかつこうめい)でございますが、御承知の通り、諸葛孔明様の有名な出師(すいし)の表(ひょう)の中に、『臣モト布衣(ほい)、躬(みづか)ラ南陽ニ耕シ、苟(いやしく)モ生命ヲ乱世ニ全ウシテ聞達(ぶんたつ)ヲ諸侯ニ求メズ』というの句がございます、聞達を諸侯に求めずという、この求めざるの心が、あえて諸侯に向って求めざる所以(ゆえん)に限ったものではございません、何者に対しましても求めざるの心があって、はじめて心が乱れませぬ、心が乱れませぬ故に、いつも平和でございます、何者が参りましてもこれに加えることができませんし、またこれに減ずることもできないのでございます。古語に『自ラ求メザルモノニ向ツテハ哀楽ソノ前ニ施スべカラズ』というのがございます、世にこの求めざるの心ほど強いものはございません。諸葛孔明(しょかつこうめい)は最初からこの最も強い地位に坐しておいでになりました、その求めざるの心が安定いたしておりましたのは、それだけ修養が積んでおりましたのですが、一方から物質的に見てみますると、あの『躬(みづか)ラ南陽ニ耕シ』と仰せられた通り、諸葛孔明は自分で百姓をしておいでになりましたから、それで生活の分が足りておいでになりました、百姓を致して天地から生活の資料を直接に恵まれておいでになりましたから、生活のために何物を以て加えられても決して動揺を致しませぬ。諸葛孔明様は古今の名宰相でございますが、百姓として立派なお百姓でございました。諸葛孔明は蜀(しょく)の玄徳のために立たれるまでは、南陽というところで、みずから鋤鍬(すきくわ)を取って百姓をしておいでになりましたのです。どのくらいの石高のお百姓でしたか、私にはよくわかりませんが、出廬(しゅつろ)以前のお百姓と致しましては、おそらくやっと食べて行かれるだけの水呑百姓の程度を遠く出でなかった百姓であったろうことを想像いたされるのでございます。孔明は幼にして父母を失われ、相当に苦労をなされたそうでございますから、そう大した資産が残されておりましたとも覚えません、少なくとも農奴を使用して、自分が手をふところにしておる地主様ではございませんでした、みずからたがやして働くところの一農夫でありましたに相違ございません、『躬ラ南陽ニ耕シ』とある、『躬耕(きゅうこう)』の文字がその事実を証明いたします。後に蜀の丞相(じょうしょう)の位に登りましてから、上表の文章の中に、『自分には成都に桑八百株薄田(はくでん)十五頃(けい)があるから子孫の生活には困らせない用意は出来ており、官から一物をも与えられなくとも生活が保証されておりまする』ということが書いてございます。桑八百株と申しますと一坪に二株ずつとしましても約四百坪の地面に過ぎません、薄田十五頃と申しますと日本のどのくらいの面積に当りまするでございましょうか、佐久間象山先生は日本の五百石ぐらいだと仰せになりましたが、ある人に伺いますと、一頃は田百畝(せ)のことだそうでございます、その一畝というのが日本の一畝と同じことでございますかどうか、日本の一畝は当今では三十坪ということになっておりますが、支那の一畝は百坪或いは二百四十坪だという説を承ったこともございますが、なんに致せ蜀の時代と致しますると、今から千七八百年もの昔でございますから、私共にはとうてい本当のところはわかりません、よってこれをどこまでも日本面積として考えてみますると、一頃百畝すなわち十五頃は千五百畝となるわけでございます、その千五百畝を日本式の坪数に引直してみますると四万五千坪でございます、これに前の桑田四百坪を加えますと、四万五千四百坪になる勘定でございます、その四万五千四百坪を、今度は日本の反歩に逆算してみますると、一反歩を三百坪と致しまして、三千坪の一町歩、三万坪の十町歩、あとの一万五千坪を反歩に引直しますると三五の十五で五町歩、そう致しますると四万五千坪は即ち十五町歩、それに四百坪を加えますると十六町三畝十歩の土地を諸葛孔明様は持っておいでになりました。十六町歩と申しますると、日本の国ではまず中農以上の大地主の部類に属する地面持でございますが、かりにこれを一反歩五俵二石取りと致しますと、一町歩の二十石、十町歩の二百石、五町歩の百石でございますから、三百石取りの資産なのでございます。三百石取りと申しますと、日本の侍の中通りの身上に過ぎないのでございます。二千年近くの昔とは申せ、四百余州の支那の国を三分した天下の宰相が、三百石取りの知行(ちぎょう)で甘んずることを心得ておられたということによって、いかに諸葛孔明が清廉潔白のお方であったかということがよくわかるのでございます。それで御自分だけではない、一家一門を、不足を言わせないようにしつけて置かれたのですから、いざとなれば、自分も宰相の位をやめて、鍬(くわ)を取ってお百姓になれるだけの腕をお持ちになり、それからまた御子息たちをも地主様としてでなく、ほんとうに自ら働くお百姓として立って行かれるように、教育を為(な)されてお置きになったものに相違ございません。仮りにまた、只今かぞえてみました孔明様の御知行を、支那面積に見積りまして、三倍、四倍と評価を致してみましたところで、千石前後でありまして、日本で申しますと、中藩の家老どころに過ぎないのでございます。諸葛孔明は支那三千年、第一等の宰相と称せられておりますが、お百姓としてもまた立派な一人前のお百姓でありました。その力でございます。でございますから、まだ出廬(しゅつろ)をなさらない時分の毎日の生活と申しますのは、晴れた日には自分から陽当りのいい前畑に出て躬耕(きゅうこう)を致し、雨の日には自分の好むところの古今東西の書物を取ってごらんになる、それだけの境涯で楽しみが余りあって、それ以上には全く求むるの心がございませんでした。求めなくともよろしいのです、それ以上求める必要もございません、求むればかえって煩(わずら)いを惹(ひ)くということを、明白に御自覚でございました。王者の身を屈して、その人の草廬を三たびたずねられても、出づることを欲しなかったのは、大臣大将の身になるよりも、この五段百姓の方がどのくらい御当人に好ましい境遇であることを、つくづく自ら味わっておりましたのです。お百姓という仕事は、全く天の時と、地の恵みだけで生きられる仕事なのでございます。乱世ともなれば、この世界はまだ広いのでございますから、未開墾の地も到るところにございましょう、兵馬の到らない、戦塵の飛ばない、平和な地に根を卸(おろ)して、そこに耕して生きて行く分には、何人の権力もこれに及ぶことはございますまい、諸葛孔明は農業を楽しむことを知る人でございました。斯様(かよう)に申しますると、人はみな諸葛孔明ではない、しかもこれを楽しみ得られる人ばかりではない、とおっしゃるかもしれませんが、この農を楽しむ心は、移して以ていかなる人の境涯にも置けないことはござりませぬ。私のような、人にも神にも見放されました不具の身は格別と致しまして、およそ五体が満足でありさえ致せば、いかなる人も農を楽しんで楽しめないはずはないのでございます。他の楽しみは、おのおのその天分気分にもよりましょうけれど、農ばかりは、誰もこれを働き、誰もこれを楽しんで、そうして、自他共に、他に迷惑をかけることの微塵もない職業なのでございます。農業の苦痛を説くのも、時によっては当然の応病与薬でございますが、諸葛孔明の心を以て、農を楽しむことを万人に教えて悪いということはございますまい……と私は考えますのでございます」

京の夢おう坂の夢の巻

この男は四国の金比羅(こんぴら)へ参るとて山田にて別れ、おれは伊勢に十日ばかりぶらぶらしていたり、だんだん四日市の方へ帰って来たが、白子の松原へ寝た晩に、頭痛強くして、熱が出て苦しみしが、翌日には何事も知らずして松原に寝ていたが、二日ばかりたって漸く人ごころが出て、往来の人に一文ずつ貰い、そこに倒れて七日ばかり水を飲んで、ようよう腹をこやしていたが、その脇に半町ばかり引込んだ寺があったが、そこの坊主が見つけて、毎日毎日、麦の粥(かゆ)をくれた故、ようよう力がついた。二十二三日ばかり松原に寝ていたが、坊主が菰(こも)二枚くれて、一枚は下へ敷き、一枚はかけて寝ろと言った故、その通りにしてぶらぶらして日を送ったが、二十三日目ごろから足が立った故、大きに嬉しく、竹きれ杖にして、少しずつ歩いたが、それから三日ばかりして、寺へ行って礼を言ったら、大事にしろとて、坊主の古い笠と、草鞋(わらじ)とをくれた故、一日に一里ぐらいずつ歩いたが、伊勢路では火で焚いたものは一向食わぬ、生米をかじりて歩きたり、病後ゆえに腹がなおらぬから、またまた気分が悪くって、ところを忘れたが、ある河原の土橋の下に、大きな穴が横に明いているから、そこへ入って五六日寝ていた。或る晩、若い乞食が二人来て、おれに言うには、その穴は先日まで神田の者が寝所にしていたところだが、どこへか行きおった故に、おらが毎晩寝るところだ、三四日稼(かせ)ぎに出た故、手前に取られて困ると言う故、病気の由を言ったら、そんなら三人にて寝ようとぬかして、六七日一緒にいたが、食い物には困り、どうしようと二人へ言ったら、伊勢にては、火の物は大神宮様が外へ出すを嫌いだからくれぬ故、在郷へ行ってみろと言うから、杖にすがって、そこより十七八町わきの村方へはいったら、番太郎が六尺棒を持って出て、なぜ村へ来た、そのために入口に札が立ててある、このべらぼうめがとぬかして、棒でブチおったが、病気ゆえに、気が遠くなって倒れた、そうすると、足にて村の外へ飛ばしおった故、腹這(はらば)うようにして漸く橋の下へ帰って来たら、二人がどうしたと言うから、そのしだいを言ったら、手前は米はあるかと言うから、麦と、米と、三四合もらいだめを出して見せたら、そんならおれが粥子(かゆこ)を煮てやろうと言って、徳利のかけを出して、土手のわきへ穴を掘って、徳利へ麦と米と入れて、水を入れ、木の枝を燃して、粥を拵(こしら)えてくれたから、少し食ったあとは礼に二人に振舞った。それよりおれも古徳利を見つけ、毎日毎日、もらった米、麦、引割をその徳利にて煮て食ったから、困らないようになったが、それまではまことに食物には困った。だんだん気分がよくなったから、そろそろとそこを出かけて、府中まで行ったが、とかく銭がなくって困るから、七月ちょうど盆だから、毎夜毎夜、町を貰って歩いたが、伝馬町というところの米屋で、ちいさい小皿に引割を入れて施行(せぎょう)に庭へ並べて置くから、一つ取ったが、一つのさしに銭が一文あるから、そっとまた一つ取った、そうすると米を搗(つ)いていた男が見つけおって、腹を立て、二度取りをしおるとて握(にぎ)り拳(こぶし)でおれをしたたかぶちおったが、病後ゆえ、道ばたに倒れた。ようよう気がついた故、観音堂へ行って寝たが、その時はようやく二本杖で歩く時ゆえか、翌日は一日腰が痛くって、ドコへも出なんだ。それから或る日の晩方、飯が食いたいから二丁町へはいったが、麦や米ばかりくれて、飯をくれぬから、だんだん貰って行ったら、曲り角の女郎屋で客が騒いでいたが、おれに言うには、手前はこぞうのくせに、なぜそんなに二本杖で歩く、悪くわずらったかと言う、左様でござりますと言ったら、そうであろう、よく死ななかった、どれ飯をやろうとて、飯や、肴(さかな)や、いろいろのさいを竹の皮に包ませ、銭を三百文つかんでくれた、おれは地獄で地蔵に逢ったようだと思って、土へ手をついて礼を言ったら、その客が手前は江戸のようだが、ほんとの乞食ではあるまい、どこか侍の子だろうとて、女郎にいろいろ話しおるが、緋縮緬(ひぢりめん)の袖のついた白地の浴衣(ゆかた)と、紺縮緬のふんどしをくれたが、嬉しかった。その晩は木賃宿へ泊って、畳の上へ寝るがいいと言った故、厚く礼を言って、それから伝馬町の横町の木賃宿へ夜になると泊ったが、しまいには宿銭から食物代がたまって、払いに仕方がないから、単物(ひとえもの)を六百文の質に入れてもらって、早々そこのうちを立って、残りの銭をもって、上方へまた志して行くに、石部(いしべ)まで行って或る日、宿の外れ茶屋のわきに寝ていたら、九州の秋月という大名の長持が二棹(ふたさお)来たが、その茶屋へ休んでいると、長持の親方が二人来て、同じく床几(しょうぎ)に腰をかけて酒を飲んでいたが、おれに言うには、手前はわずらったな、ドコへ行くと言うから、上方へ行くと言ったら、当てがあるのかと言うから、あてはないが行くと言ったら、それはよせ、上方はいかぬところだ、それより江戸へ帰るがいい、おれがついて行ってやるから、まず髪月代(かみさかやき)をしろとて、向うの髪結床へ連れて行ってさせて、そのなりでは外聞が悪いとて、きれいな浴衣をくれて、三尺手拭をくれた、しかして杖をついては埒(らち)が明かぬから、駕籠(かご)へ乗れとて、駕籠をやといて載せて、毎日毎日よく世話をしてくれた。江戸へ行ったら送ってやろうとて、府中まで連れて来たが、その晩、親方がばくちの喧嘩で大騒ぎが出来て、おれを連れた親方は国へ帰るとて、くれた単物を取り返して、木綿の古襦袢をくれて直ぐに出て行きおったから、いま一人の親方が言うには、手前はこれまで連れて来てもらったを徳にして、あしたは一人で江戸へ行くがいいとて、銭五十文ばかりくれおったが、仕方がないから、また乞食をして、ぶらぶら来て、ところは忘れたが、あるがけのところにその晩は寝たが、どういうわけか崖より下へ落ち、岩の角にきんたまを打ったが、気絶をしていたと見えて、翌日ようよう人らしくなったが、きんたまが痛んで歩くことがならなんだ。二三日過ぎると少しずつよかったから、そろそろ歩きながら貰って行ったが、箱根へかかって、きんたまが腫(は)れて膿(うみ)がしたたか出たが、がまんをして、その翌日、二子山まで歩いたが、日が暮れるからそこにその晩は寝ていたが、夜の明け方、飛脚が三度通りて、おれに言うには、手前ゆうべはここに寝たかと言う故、あい、と言ったら、強い奴だ、よく狼に食われなんだ、こんどから山へは寝るなと言って銭を百文ばかりくれた。三枚橋へ来て茶屋のわきに寝ていたら、人足が五六人来て、こぞうなぜ寝ていると言いおるから、腹が減ってならぬから寝ていると言ったら、飯を一ぱいくれた。その中に四十ぐらいの男が言うには、おれのところへ来て奉公しやれ、飯はたくさん食われるからと言う故に、一緒に行ったら小田原の城下の外の横町にて、漁師町にて喜平次という男だ。おれを内へ入れて、女房や娘に、奉公につれて来たから、可愛がってやれと言った、女房娘もやれこれと言って、飯を食えと言うから、飯を食ったらきらず飯だ、魚はたくさんあってくれた、あすよりは海へ行って船を漕(こ)げと言うから、江戸にて海へは度々(たびたび)行った故、はいはいと言っていたら、こぞうの名は何というかと聞くから、亀というと言ったら、お鉢の小さいのを渡して、これに弁当をつめて朝七つより毎日毎日行け、手前は江戸っ児だから、二三日は海にて飯は食えまいから持って行くなと喜平が言いおる、おれは江戸にて毎日海で船に乗ったから怖(こわ)くないと言ったら、いやいや江戸の海とは違うと言うから、それでもきかずに弁当を持って行った。それから同船のやつが、うちへおれを連れて行って頼んだから、翌朝より早く来いと言う、それから毎朝毎朝、船へ行ったが、みんなが言うには、亀が歩くなりはおかしいと言いおる、そのはずだ、きんたまの腫れが引かずにいて水がぽたぽた垂れて困ったが、とうとう隠し通してしまったが困ったよ。毎日朝四ツ時分には沖より帰って、船をおかへ三四町引き上げ、網を干して、少しずつ魚を貰って小田原の町へ売りに行った。それからうちへ帰って、きらずを買って来て四人の飯を焚(た)くし、近所の使をして、二文三文ずつ貰った。うちの娘は三十ばかり気のいいやつで、時々水瓜(すいか)などを買ってくれた。女房はやかましくてよくこき使った。喜平は人足ゆえ、うちには夜ばかりいたが、これはやさしいおやじで、時に菓子など持って来てくれた。十四五日ばかりいると子のようにしおった。おれに江戸のことを聞いて、おらがところの子になれと言いおる故、そこで考えてみたが、なんしろおれも武士だが、うちを出て四カ月になる、こんなことをして一生いてもつまらねえから、江戸へ帰って、祖父の了簡次第(りょうけんしだい)になるがよかろうと思い、娘へ機嫌をとり、もも引と、きもののつぎだらけなのを一つ貰って、閏(うるう)八月の二日、銭三百文、戸棚にあるを盗んで、飯をたくさん弁当へつめて、浜へ行くと言って夜八ツ時分起きて、喜平がうちを逃げ出して、江戸へその日の晩の八ツ頃に来たが、あいにく空は暗し、鈴ヶ森にて、犬が出て取巻いて、一生懸命大声を揚げてわめくと、番人乞食が犬を追い散らしてくれた故、高輪(たかなわ)の漁師町のうらにはいりて、海苔取船(のりとりぶね)があったから、それをひっくり返して、その下に寝たが、あんまり草臥(くたび)れたせいか、翌日は、日が上っても寝ていたから、所の者が三四人出て見つけて叱りおった。わび言をしてそこを出て飯を食いなどして、愛宕山(あたごやま)でまた一日寝ていて、その晩は坂を下るふりをして、山の木の茂みへ寝た。三日ばかり人目を忍んで、五日目には夜両国橋へ来て、翌日回向院(えこういん)の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買って食っていたが、しまいには銭がなくなったから、毎晩度々(たびたび)、垣根をむぐり出て、貰っていたが、夜はくれ手が少ないから、ひもじい思いをした。回向院奥の墓所に乞食の頭(かしら)があるが、おれに仲間に入れとぬかしおったから、そやつのところへ行って、したたか飯を食った」

山科の巻

「コノ年十月、本所猿江ニ、摩利支天(まりしてん)ノ神主ニ吉田兵庫トイウ者ガアッタガ、友達ガ大勢コノ弟子ニナッテ神道ヲシタ、オレニモ弟子ニナレトイウカラ、行ッテ心易(こころやす)クナッタラ、兵庫ガイウニハ、勝様ハ世間ヲ広クナサルカラ、私ノ社(やしろ)ヘ、亥(い)ノ日講(ひこう)トイウノヲ拵(こしら)エテ下サイマセ、ト頼ンダカラ、一カ月三文三合ノ加入ヲスル人ヲ拵エタガ、剣術遣イハイウニ及バズ、町人百姓マデ入レタラ、二三カ月ノ中ニ、尚五六十人バカリ出来タカラ、名前ヲ持ッテ、兵庫ニヤッタラ、悦ンデ受取ッタ、ソレカラ一年半カカッタラ、五六百人ニナッタ、全クオレガ御陰ダカラ当年ハ十月亥ノ日ニ、神前ニテ十二座ノ跡デ踊リヲ催シテ神イサメヲシタイトテ頼ムカラ、先(ま)ズ講中ノ世話人ヲ三十八人拵エタ、諸所ヘ触レテ、当日参詣ヲシテクレロト云ッテヤリ、ソノ日ニハ皆々見聞ノタメダカラ、世話人ハ残ラズ、御紋服ヲ着テクレロトイウカラ、ソノ通リニシテヤッタラ、兵庫ハ装束ヲ着テ居タ、段々参詣モ多ク、初メテコノヨウナ賑(にぎ)ヤカナコトハナイトテ、前町ヘハイロイロ商人ガ出テ居タ、ソレカラ講中ガ段々来ルト、酒肴デ、アトデ膳ヲ出シテ振舞ッテ居ルト、兵庫メガ、イツカ酒ニ酔ッテ居オッテ、西久保デ百万石モ持ッタツモリヲシ、オレガ友達ノ宮川鉄次郎ト云ウニ、太平楽ヲヌカシテコキ遣ウ故、オレガオコッテ、ヤカマシク云ッタラ不法ノ挨拶ヲシオル故、中途デオレガ友達ヲ皆ンナ連レテ帰ッタ、ソウスルト多クノ者ガツカイヲ云ッテアヤマルカラ、オレガ云ウニハ、ヒッキョウハコノ講中ハ、オレガ骨折故出来タヲ有難クハ思ワナイデ、太平楽ヲヌカスハ物ヲ知ラヌ奴ダカラ、講中ヲバ抜ケルカラ、ソウ云ッテクレロト云ウタラ、大頭伊兵衛、橋本庄兵衛、最上幾五郎トイウ友達ガ、尤(もっと)モダガ、セッカク出来タノニオ前ガ断ワルト、皆々断ワル故(ゆえ)、兵庫今更後悔シテアヤマルカラ、許シテヤレト種々イウカラ、ソンナラ以来ハ御旗本様ヘ対シ、慮外致スマイト云ウ書附ヲ出セトイッタラ、ドノ様ニモサセルカラト云ウ故、宮川並ビニ深津金次郎トイウ者ト一所ニ兵庫ノトコロヘ行ッタ、ソウスルト、大頭伊兵衛ガ道マデ来テ云ウニハ、オマエガオ入リニハ、兵庫ハカリ衣(ぎぬ)ヲ着テ門マデオ迎エニ出ル、ソレカラ座敷ヘ出ロ、昨日ノ不調法ヲワビサセルカラ挨拶ヲシテヤレト云ウカラ、聞届ケタトイエ、ソレカラハ講中ガ残ラズ出テ馳走ヲスルカラ、アトデハ決シテ右ノ咄(はなし)ハシテクレルナトイウカラ、オレガ云ウニハ、残ラズ承知シタガ、外ノ者ヘヨクヨク口留メヲシナサイ、モシモ昨日ノ咄ヲシタヤツガ有ルソノ時ハ、世話人ガウソツキニナルカラ、片ハシヨリ切ッテ仕舞ウツモリデ来タカラ、ヨク云イ聞カシテ置キナサルガイイトテ、イジョウヲコメテ帰シタ、間モナク兵庫ガ宅ヘ行ッタラ、同人ガ迎エニ出ルシ、世話人モ残ラズ玄関マデ出タガ、座敷ノ正面ヘ通ッタラ、刀カケニオレガ刀ヲカケテ、皆々座ニツイタ、兵庫モ出テ、オレニ昨日ハ酒興ノ上無礼ノ段々恐レ入ッタリ、以来慎シミ申スベキ由、平伏シテ云イオルカラ、オレガイウニハ、足下ハ裏店神主(うらだなかんぬし)ナル故、何事モ知ラヌト見エル、御旗本ヘ対シテ不礼言語同断ノ故咎(とが)メシナリ、講中漸々(ようよう)広クナラントスル時ニ、最早心ニ奢(おご)リヲ生ジタ故、右ノ如ク不礼アリ、随分慎ンデ取続ク様ニトテ、ソレカラ一同ガオレニイロイロ機ゲンヲ取リテモテナシタガ、酒ガキライ故ニ、人々酔ッテ騒グヲ見テイタラ、兵庫ノ甥(おい)ニ大竹源二郎トイウ仁ガ有リ、オレガ裏店神主ト云ッタヲ聞キオッテ腹ヲ立テ、キノウノシマツヲ、宮川ヲダマシテ聞キオリ、小吉ハイラヌ世話ヲ焼ク、宮川ノコトデ、伯父(おじ)ニ大勢ノ中デ恥ヲカカシオッタ、是カラオレガ相手ダ、サア小吉出ロ、トイッテソノ身御紋服ヲ着ナガラ、鉢巻ヲシテ、片肌ヌギデ座敷ヘ来ル故ニ、知ラヌ顔シテ居タラ、直ニオレガ向ウヘ立ッテジタバタシオルカラ、オレガイウニハ、大竹ハ気ガ違ウタソウダ、雑人(ぞうにん)ノ喧嘩ヲミタヨウニ、鉢巻トハ何ノコトダ、武士ハ武士ラシクスルガイイ、此方(こっち)ハ侍ダカラ中間(ちゅうげん)小者(こもの)ノヨウナコトハ嫌イダト云ッタラ、フトイ奴ダトテ吸物膳ヲ打附(ぶっつ)ケタカラ、オレガソバノ刀ヲ取ッテ立上リ、契約ヲ違エテ、タワ言ヲヌカスハ兵庫ガ行届カザルカラダ、甥ガ手向ウカラハ云イ合ワセタニチガイナイカラ、望ミ通リ相手ニナッテヤロウト云ッタラ、大竹ガクソヲ喰(くら)エトヌカシタカラ、大竹ヨリ先ヘツキハナシテ出ヨウト思イ、追ッカケタラ、皆ンナガ逃ゲ出シタ、ソレカラ兵庫ガ勝手ノ方ヘ大竹モ逃ゲタカラ追イ行クト、折ワルク兵庫ガ納戸(なんど)ヘオレガ入ッタラ、大勢ニテ杉戸ヲ入レテ押エテ居ルカラ、出ルコトガ出来ヌ、大竹ハ恐レテ丸腰デ、ウヌガ屋敷ノ伊予殿橋マデ帰ッタガ、ソレカラ大勢ガ杉戸口ヘ来テ、イロイロニ云ウカラ、許シテヤッタラ、大竹ト和ボクシテクレト云イオルカラ、大竹ガ不礼ノコトヲトガメタシ、色々アツカイガハイッテ、特ニハ大竹ガオフクロガ泣イテ詫(わ)ビルカラ、伊予殿橋ヘ呼ビニヤッテ、源太郎ガ来タカラ、段々酒酔ノ上、恐レ入ッタトテ、殊更相支配ユエニ、何卒(なにとぞ)御支配ヘハ話ヲシテクレルナトテ、和ボクヲシタ、ソレカラ酒ガ又出テ、大竹が云ウニハ一パイ飲メトイウカラ、酒ハ一向呑メヌトイッタラ、ソレハマダ打チトケヌカラダトヌカス故、盃(さかずき)ヲヨウヨウ取ッタラ、吸物椀デ呑メト皆ンナガ云ウ、カンシャクニサワッタカラ、吸物椀デ一パイ呑ンダラ大勢ヨッテ、今一パイトヌカスカラ、ソレカラツヅケテ十三杯呑ンダ、後ノヤツラハ呑ンデイロイロ不作法ヲシタカラ、オレハソノ席デ少シモ間違ッタコトハシナカッタ、兵庫ガ駕籠(かご)ヲ出シタカラ、乗ッテ橋本庄右衛門ガ林町ノウチマデ来タガ、ソレカラ何モ知ラナカッタ、ウチヘ帰ッテモ三日ホドハ咽喉(のど)ガ腫(は)レテ、飯ガ食エナカッタ、翌日皆ンナガ尋ネテ来テ、兵庫ガウチノ様子ヲイロイロ話シテ、ソノ時、橋本ト深津ハ後ヘ残ッテ居テ、以来ハ親類同様ニシテクレトイウテカラ、両人ガ起請文(きしょうもん)ヲ壱通ズツヨコシタ、ソレカラ猶々(なおなお)本所中ガ従ッタヨ、兵庫ガ脳ガ悪イカラ、講中モ断ワッテヤッタ、ソノ時オレガ加入シタ分ハ、残ラズ断ワッタ故、段々スクナクナッテツブレタヨ」

椰子林の巻

「さて、我々はこの島へ上陸して、今後、この島の主となると共に、この島に骨を埋める覚悟で働かねばなりません。ここは我々だけの国であり、おたがいだけの社会でありますから、今までの世界の習慣に従う必要もなければ、反(そむ)くおそれもありません。もしこの島の生活を好まぬ時は、いつでも退いてよろしい。生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい、法律を定める人と、それを守る人との区別を置かないように、命令を発する人と、命令を受くる人との差別を認めますまい。仮りに私が先達(せんだつ)でありとしましても、それは諸君を治めるという意味の立場でなく、諸君に物を相談するという立場でありたい。この故に、我々だけの国とはいうものの、我々の国には王者がありません、治める人と、治めらるる人とがありません、従ってこの国には賞というものがなく、罰というものがないことになります。賞という以上は、それを賞する者がなければならず、賞するというのは、一段高いところに立って、そのことのぜひ善悪を鑑別して後にこれを推(お)す者になるのですから、批判の地位になります、批判が正しい時はそれでよろしいが、もし批判が間違っている時は、賞にその権威がなくて、軽蔑が起るのですから、人世と人とを推進せんがため、賞というものがかえって世道人心を紊(みだ)るの結果ともなるのであります。罰もその通りでありまして、社会が罰というものを設けるのは、これによって善をすすめ、悪を抑(おさ)えんためでありますが、それもやはり罰する人が正しければよろしいが、罰する人が誤っていた日には、罰を与えていよいよ人心を危うくするばかりです。よって、ここの国では賞も行わず、罰も行わずという建前にしたい。では、善いことはせんでもよい、悪いことは仕放題で罪がないかと申しますと、それは大いに有ります、おたがい同士仲よく生きて行くために害を為(な)すことは悪い、それを滑(なめら)かにするものは善い、とこう定めて置きましょう、そうすれば、おのずからこの島に於て為さねばならぬことと、為して悪いこととがわかるはずです。まず第一に、生きて行くには食物がなければなりません、空気と水は天地が与えてくれますから、これは人間の骨折りはいらない、その他の食物は、一切人間の手で、人間が作らなければなりませんから、人間の活(い)きて行く善事のまず第一のものは、食物を作ることです。これとても人間の力だけで出来るものではありません、米を蒔(ま)くにも、田畑というものがなければなりません、幸いに、私共がただいま実地検分して参りました結果によりますと、この島には、食物を生産すべき可能性が充分にあるのであります、人力を加えさえすれば、立派な耕地となる面積があるのであります、種子物の類は、豊富に船の中に貯えて持参してありますから、上陸早々、まず雨露を凌(しの)ぐところをこしらえて、それから耕地のこなしに取りかかりましょう、これが私たちの最初の善事でありますから、皆さん、応分の力をこれに添えて働いて下さい。みな働くと申しても、皆さんの力が平均しているわけではありませんから、誰も彼も鍬(くわ)を取り、鎌を振(ふる)って、荒仕事ができるものではありません、女子供はましてそうですが、力の足らぬもの、経験の乏しいものは、見よう見まねに、仕事の成績には関係せず、努めてやってみようという心がけが大切です。また、労力相当の軽い仕事から始めて、助けて行くのもよろしいです。そうすれば、これだけの人数で、五町や十町の開墾は苦もなくできます、それに種子をおろせば、まだ土が珍しいから、肥料なくして大抵の作物は出来るはずです。種子をまいて半年なり一年なりすれば、この人数を養うだけの収穫は必ずあります。故に、皆さんは、まず食物を作ることを第一の善事だと心得て下さい。それを妨げるもの、妨げないまでも、その助力を惜しむものが第一の悪事だと心得て下さい。それからです、我々は決しておたがいに過大の労力を課することを慎みましょう、出来ないものに無理に仕事をさせることのないように、出来る者にも、なるべく多くの余裕を与えて、人間というものは食って行くだけの世ではない、食って行くのは、つまり、皆々の持合わせた天分を、最上に発揮するためだということを心得て、おたがいの修養と、発表とを、怠らぬように致したい。そこで当分は、半日働いて、半日はおのおのの思うままのことをしてよろしい、本を読みたいものは本を読む、絵をかきたいものは絵を描く、歌をうたいたいものは歌をうたう、大工をしたい、細工をしたい、というおのおのの好み好みのことを、存分におやりなさい。半日は食物のために働き、半日は趣味のために生くるということ、これをこの島のおきてと致しましょう。それから、万々一、おたがいの中に我儘(わがまま)気儘(きまま)が昂じて、他の害悪をなす場合には、他の世界では、直ちにつかまえて牢へ入れたり、首を斬ったりするのですが、ここでは一切、そういう刑罰は用いますまい、刑罰の代りに遠慮を申し渡しましょう。我々の生活がわかってさえもらえば、好んで周囲を悪くするものはないはずですから、万々一、そういう人は、この社会を離れてさえもらえばよろしい。と言ってもここは大洋の中の孤島ですから、めいめい勝手に離れて行きたいところへ行くというわけにはいきませんから、この島のうちで別世界をこしらえて、そちらへ移ってもらう、そうして、そちらで自分の好きなような生活ぶりをやってみるがよい、当分の間、食うべきものは、こちらから分けて上げることにして、それ以後は勝手な生き方で生きてみるようにする。なおこの新しい生活を共にして行く間には、今までの世界で起らなかった問題も相当起るかも知れませんが、その時は、おたがいに相談の上で善処することと致し、とりあえず右のような意味で、食物を作ることに全力を注ぐということを、天地に誓いましょう、これには御異存はござるまいと思います」