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2018-07-11
われわれが歴史の天使であるとして
われわれは天使なのだとヴァルター・ベンヤミンが言っている。
なぜ天使なのか、どう天使なのか。
その訳やあり方は、おおよそ以下のとおり。

はじめに次の詩があった。ベンヤミンの友人ゲルショム・ショーレムの「天使の挨拶」。

私の翼ははばたく用意ができている。
帰れるものなら喜んで帰りたい。
たとえ一生ここに居続けても、
私に幸福はないだろうから。

それから、次の絵がある。パウル・クレーの「新しい天使」。ベンヤミンはこの絵を所持していた。


これらの詩や絵に触発されて、ベンヤミンは自らの天使像を作り上げた。曰く、歴史の天使。
「その天使はこんな姿をしているにちがいない」として「歴史の概念について」(通称「歴史哲学テーゼ」)に描かれた歴史の天使のスケッチが以下。

彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、はただひとつの破局カタストローフだけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。(「歴史哲学テーゼ」第9節)

天使はそこに──いまいるところに──とどまって過去とかかわろうとしている。けれども、嵐がそれを許さない。なぜなら、風が強すぎて、天使は瓦礫に触れることさえできず、ただ未来に向かって流されてゆくばかりだから。
では嵐とは? 天使とは? それらによって構成される状況があるとして、嵐や天使は何のたとえなのか。

嵐については、ベンヤミンがその場で答えている。

私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。(第9節)

進歩信仰の危うさにベンヤミンは繰り返し言及する。人類は進歩するものだとか、その進歩には限りがないとか、その進歩は停止することがないなどの説は、議論の余地がある(第13節)。すなわち、進歩そのものより、進歩に対するスタンスが問題なのだ。そして、実際にも、

ファシズムに敵対する者たちが進歩を歴史の規範と見なし、この進歩の名においてファシズムに対抗していることに、とりわけこのことに、ファシズムにとってのチャンスがあるからだ。(第8節)

との警告が役に立たなかったことは、その後の歴史に見るとおり。ファシズムに対抗する者たちは、進歩をありがたがるあまり、ファシズムにしてやられた。

もう一つの天使については、そもそもそんなものが存在するのかという問題がある。それも、風にあおられて、たえず未来に向かって押し流されているような頼りない天使が? これについても、「歴史の概念について」の中で答が用意されている。

かつて在りし人びとの周りに漂っていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾けるさまざまな声の中に、いまでは沈黙してしまっている声のこだまが混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのなかった姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代のあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。だとすれば、私たちはこの地上に、期待を担って生きているのだ。だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。(第2節)

先行世代にとってわれわれ世代はメシアなのである。
すなわち、天使は存在する。今この世に生きているわれわれが、その天使なのだ。
というわけで、ベンヤミンの説くところを受け入れるなら、現世に生きているわれわれは、先行世代がいつの日かの出現を願っていた歴史の天使なのである。「かすかなメシア的な力」を与えられているにすぎないとしても。

以上、引用はすべて浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味』から。

ところで、先行世代とは?
かれらは何について救われたいと願っているのか。
この項、つづく。