to top page
トマトは種を抜いてから食え
なんて今ごろ教えられても
すでにトマトは、腹の中で芽を出して
根も張って、とっくに手遅れ
- トマト男
2016-12-05
マタイ乱視説・続き
エルサレムに近いオリーブ山のふもとで、イエスが二人の弟子に命じる。
むかいの村に親子のロバがいるから連れてくるように、と。
弟子が二頭のロバを引いてきて、自分たちの衣をその上にかけると、イエスはロバに乗ってエルサレムに入る。
これは「マタイ伝」の第21章にあるエピソードだが、この話ではイエスが親と子のどちらのロバに乗ったのかわからない。
「マタイ伝」以外の三福音書では、弟子たちが連れてきたのは親子のロバのうち子のロバだけ。
したがってイエスが乗ったのも子のロバなのだが、「マタイ伝」では判然としない。
なぜマタイはそんなあいまいな書き方をしたのか。
ラファティの短編にもどっていえば、乱視のせいで一頭のロバが二頭に見えてしまったのか。

イエスがガダラ人の地に入ったときのこと。
悪鬼に憑かれた二人の者が墓から出てきて、「われわれを責めようとしてここに来たのか」とイエスに問い、「自分たちを追い出すなら、むこうにいる豚の群に移してくれ」という。
そこでイエスが「行け」と命じると、悪鬼らは自分たちが憑いていた二人の者から離れて、豚の群に移る。悪鬼に憑かれた豚の群は崖から海に駆けおりて死んでしまう。
このエピソードは「マタイ伝」の第8章にある。
「ガダラの豚」として知られるこの話でも、「マルコ伝」や「ルカ伝」では悪鬼に憑かれていたのは一人だが、「マタイ伝」のみ二人になっている。二人である必然性はなく、一人のほうが話がすっきりするのに、なぜマタイは二人にしたか。
付。悪鬼の名レギオンは、「マルコ伝」、「ルカ伝」に記されている。

イエスが村や町を巡っていると二人の盲人が「われらを憐れみたまえ」と叫んでついてくる。
イエスが二人の目に触れると、彼らの目が開く。
これは「マタイ伝」第9章にある話。
同様のことが第20章でも、やはり二人の盲人に関して起こる。
他の福音書でも、イエスが盲人の目に触れたり泥を塗ったりすると盲人の目が開くエピソードが各所にあるが、どの場合も盲人は一人。なぜ「マタイ伝」のみ二人なのか。

二頭のロバ、二人の狂人、二人の盲人、「マタイ伝」におけるこれらの存在はささいな誤記・訛伝の類なのか、それとももっと深い何かがあるのか。たとえていえば「乱視」だが、「マタイ伝」作者の思想性にかかわる問題であるような気もする。

「マタイ伝」には「ヘロデ王」も二人登場する。一度目は、新たな王(イエス)の誕生を察したヘロデ王が二歳以下の幼児を皆殺しにするエピソード、二度目は娘のサロメに求められて預言者ヨハネの首を斬るエピソード。
これらのエピソードが事実にもとづいていたとすれば、最初の「ヘロデ王」は「ヘロデ大王」と称された人物、二人目は王の称号を許されなかったとされる領主「ヘロデ」が対応し、いちおう辻褄はあう。
けれども書中での表記はどちらも「ヘロデ王」。
このへんにも「マタイ伝」作者の乱視性の一端が出ているのではないか。
作者の心の中で、父(神)と子(イエス)の二重性または同一性みたいなものが整理できずにわだかまっていて、そのことが「マタイ伝」の記述に反映しているという解釈もできそうな気がする。