竜安寺の思い出
中学か高校の修学旅行で竜安寺に行った。
寺をおとずれた人がみなそうするように、縁側に腰をおろして石の庭をながめた。
まわりに誰がいたか。同級生たちにきまってるのだが、おぼえがない。
ひどく蒸し暑い日だった。わたしはハンカチでしきりに首筋の汗をぬぐっていた。
何年かして今度は一人で竜安寺に行った。たぶん行ったと思う。
石庭の外を歩いた。土塀のあちこちが崩れていて、人が出入りできるくらいに壊れたところもあった。
割れ目から笹竹が外にはみ出していた。中をのぞくと、庭一面に笹が茂っていた。
もっと以前、何度か竜安寺に逗留したことがある。
そのころわたしは管領家の細川某だった。
当時の記憶は、上の二回の竜安寺行きにくらべるとかなり鮮明に残っている。
ある秋の日、縁側にすわって石の庭を見ていた。空にぼんやり薄橙色の太陽がかかっている。
いつ自分は蝦蟇(がま)になったか。
今年も季節に遅れてしまって、明朝あたり初霜だろうか。
「そんな気がします」
と、誰にともなく言ってみた。
そのまま蝦蟇の姿でとりとめなく昔のことを考えていると、縁側の板に張り付いた吸盤の感触が何かに似ている。
現実感──だろうか。なんだろう、違うようでもある。
自分がこんなところにいるはずがない──そんな非現実感はあったのだ。
けれどもいっぽうで、否定できない現実感もあった。
足裏の吸着感がそれ。確かにわたしはここにいる。そんな感じで板張りにぴったり吸いついていた。
「どうかな」
と、どこからか答が返ってきた。
わたしの言ったことか考えたことを、否定するような響きがあった。
だけど、何を否定されたのか。
また別の秋の晩。
その夜も蝦蟇となって縁側から庭を見ていた。
すると、なにやら懐かしく、わびしさが募って、どこにどうしてわたしはいるのか、いや、ここにこうして自分は昔からいるではないか。そして、こんな湖の底にまで──その水の透明なこと──月光は青くしみとおって岩々にふりそそぎ、笹竹の葉のひとひらひとひらを白く光らせる。その光景はたしかに憶えがあった。見上げると空中を──そこも水中なのだが──女たちが横切って行く。薄衣(うすぎぬ)の内で固く盛り上がる胸、尻、長くうしろへ流れる黒い髪。身体を水平に保ったまま女たちは滑るように泳ぎすぎて行く。それらを眺めているわたしが、ぼんやりここにいる。
ふいに湖底を影がおおった。
蝦蟇だ!
巨大な蝦蟇が水中に首を差し入れて、こちらを見ている。
おまえかね──とわたしはきいた──さきほど「どうかな」と言ったのは?
こたえる代わりに、蝦蟇は勢いよく息を吐き出す。
湖底を襲うように泡が広がり、だが、庭に敷かれた砂を巻き上げることはなく、ゆっくり上方へ反転して、そのうちに消えた。
視界から泡が消えると、あいかわらず薄衣の女たちが水中を泳ぎわたっていた。
黒々とした股間も、臍のくぼみまでも、水底から返ってくる月の余光でくっきり認められた。それなのに、欲情はわいてこない。
どういうことだろうな。
「さあね」と声がいった。
おまえは何者だ。
こたえを待ったが返ってこない。ただ、かすかに巨大な蝦蟇は笑ったようだった。
形が同じなのだ。ということは同じ素性の何かなのかもしれない。
ふいに現れた蝦蟇に、わたしは驚きもしなければ、怖れもしなかった。むしろ感じたのは親近感のようなもの。
巨大な蝦蟇がなりたての蝦蟇であるわたしを迎えにきたのにちがいない。
きっとそうだ。ならばわたしも、ゆらゆら月光に泳ぎ出そうか。
それからどうなったか。
管領家の家督争いを、わたしは勝ち抜けたのだったか。
「どうかな」
わたしが憶えているのは、水中に泳ぎ出て湖面へと浮かんで行ったわたしが、やがて視界から外れていったことだけ。一度こちらを振り向いたようでもあったが、いったいどこへ消えたのか。
寺をおとずれた人がみなそうするように、縁側に腰をおろして石の庭をながめた。
まわりに誰がいたか。同級生たちにきまってるのだが、おぼえがない。
ひどく蒸し暑い日だった。わたしはハンカチでしきりに首筋の汗をぬぐっていた。
何年かして今度は一人で竜安寺に行った。たぶん行ったと思う。
石庭の外を歩いた。土塀のあちこちが崩れていて、人が出入りできるくらいに壊れたところもあった。
割れ目から笹竹が外にはみ出していた。中をのぞくと、庭一面に笹が茂っていた。
もっと以前、何度か竜安寺に逗留したことがある。
そのころわたしは管領家の細川某だった。
当時の記憶は、上の二回の竜安寺行きにくらべるとかなり鮮明に残っている。
ある秋の日、縁側にすわって石の庭を見ていた。空にぼんやり薄橙色の太陽がかかっている。
いつ自分は蝦蟇(がま)になったか。
今年も季節に遅れてしまって、明朝あたり初霜だろうか。
「そんな気がします」
と、誰にともなく言ってみた。
そのまま蝦蟇の姿でとりとめなく昔のことを考えていると、縁側の板に張り付いた吸盤の感触が何かに似ている。
現実感──だろうか。なんだろう、違うようでもある。
自分がこんなところにいるはずがない──そんな非現実感はあったのだ。
けれどもいっぽうで、否定できない現実感もあった。
足裏の吸着感がそれ。確かにわたしはここにいる。そんな感じで板張りにぴったり吸いついていた。
「どうかな」
と、どこからか答が返ってきた。
わたしの言ったことか考えたことを、否定するような響きがあった。
だけど、何を否定されたのか。
また別の秋の晩。
その夜も蝦蟇となって縁側から庭を見ていた。
すると、なにやら懐かしく、わびしさが募って、どこにどうしてわたしはいるのか、いや、ここにこうして自分は昔からいるではないか。そして、こんな湖の底にまで──その水の透明なこと──月光は青くしみとおって岩々にふりそそぎ、笹竹の葉のひとひらひとひらを白く光らせる。その光景はたしかに憶えがあった。見上げると空中を──そこも水中なのだが──女たちが横切って行く。薄衣(うすぎぬ)の内で固く盛り上がる胸、尻、長くうしろへ流れる黒い髪。身体を水平に保ったまま女たちは滑るように泳ぎすぎて行く。それらを眺めているわたしが、ぼんやりここにいる。
ふいに湖底を影がおおった。
蝦蟇だ!
巨大な蝦蟇が水中に首を差し入れて、こちらを見ている。
おまえかね──とわたしはきいた──さきほど「どうかな」と言ったのは?
こたえる代わりに、蝦蟇は勢いよく息を吐き出す。
湖底を襲うように泡が広がり、だが、庭に敷かれた砂を巻き上げることはなく、ゆっくり上方へ反転して、そのうちに消えた。
視界から泡が消えると、あいかわらず薄衣の女たちが水中を泳ぎわたっていた。
黒々とした股間も、臍のくぼみまでも、水底から返ってくる月の余光でくっきり認められた。それなのに、欲情はわいてこない。
どういうことだろうな。
「さあね」と声がいった。
おまえは何者だ。
こたえを待ったが返ってこない。ただ、かすかに巨大な蝦蟇は笑ったようだった。
形が同じなのだ。ということは同じ素性の何かなのかもしれない。
ふいに現れた蝦蟇に、わたしは驚きもしなければ、怖れもしなかった。むしろ感じたのは親近感のようなもの。
巨大な蝦蟇がなりたての蝦蟇であるわたしを迎えにきたのにちがいない。
きっとそうだ。ならばわたしも、ゆらゆら月光に泳ぎ出そうか。
それからどうなったか。
管領家の家督争いを、わたしは勝ち抜けたのだったか。
「どうかな」
わたしが憶えているのは、水中に泳ぎ出て湖面へと浮かんで行ったわたしが、やがて視界から外れていったことだけ。一度こちらを振り向いたようでもあったが、いったいどこへ消えたのか。