マタイ乱視説
「マタイ伝」の作者マタイは乱視だったのではないか。
情報源はR・A・ラファティの短編「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」。
主人公のクレムは腕のいい巡回セールスマン。
ホテルに泊るとき、かならず実行することが一つあった。いったん外出して、外から自分に電話を入れるのである。そうすれば自分の名が宿泊者名簿に記載されていることが確認でき、本社からの連絡を受けそこなうことがない。
ところがある日、いつものように外から電話すると、「おつなぎします」といわれて、自分の部屋に電話がつながる。
電話口から流れてきたのは自分の声だった。話し方も自分のものである。
やりとりをするうちに、相手も同じことを察したのがわかる。クレムが二人になってしまったのだ。
その夜のうちにクレムは夜行便で自宅のある町にもどる。
朝になるのを待って、すべての銀行口座を解約し、現金に替えてニューヨークに出る。自宅には別の自分がいる。もう家には帰れない。
クレムはつつましく暮らしながら、あちこちの溜まり場にかよう。
その一つが料理店と酒場を兼ねる〈トゥー・フェイス・バー&グリル〉で、店の主人は〈二つの顔〉のアダ名を持ち、悪党と紳士の二股をかける人物。(これらの二重性が物語の世界を示唆しているのはいうまでもない)
たまたま同じテーブルについた男がクレムに話しかけてくる。
「どうしてマシューにはロバが二頭でてくるんだろう」
いきなり何の話だ? とまどうクレムに男は疑問を列挙する。
マシューすなわちマタイの書いた「マタイ伝」の21章1節から9節には、二頭のロバがでてくる。
8章の28節から34節には、悪霊につかれた人物が二人でてくる。
9章の27節から31節には、盲人が二人でてくる。
20章の29節から34節でも盲人は二人。
だが、ほかの福音書ではロバは一頭だったし、狂人も盲人も一人だ。それなのに、なぜマタイの書では人物がダブっているのか。
「たぶん乱視だったんだろう」とクレムは男の疑問にこたえる。
「ちがうね」と男は声をひそめる。「やつはわれわれの仲間だったんだ」
男のいう「われわれ」の意味にクレムは気づく。
自分の症例は唯一のものではなかった。かりにそういう現象が百万人に一人の割合で起こったとしても、すでに数百人の分裂人間が国内にいることになり、彼らは救いを求めて〈トゥー・フェイス・バー&グリル〉のような店に集まってくるのだ。
以上が「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」の前半部分。
男がクレムに語ったことを、読者は信用していいのか。
「SF 界のホラ吹き男」と呼ばれ、ホラを吹きまくっていた(というよりホラ話しか書かなかった)ラファティのことだから、鵜呑みにするわけにはいかない。けれどもなんだか気にはなる。
そこで福音書を調べてみた。
するとホラどころか、生真面目な事務員が記したみたいに章・節の番号まで正確。二頭のロバ、二人の狂人、二人の盲人は、どれも男の指摘した「マタイ伝」の箇所に出てくる。だが、「マルコ伝」、「ルカ伝」、「ヨハネ伝」の対応するエピソードでは、どれもそれらは一頭か一人に限られる。
奇妙なのは、それらがマタイ伝において二頭や二人とされた必然性がまったくないこと。
クレムがちらっと言っただけのマタイ乱視説だが、何を言い当てたのか。
情報源はR・A・ラファティの短編「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」。
主人公のクレムは腕のいい巡回セールスマン。
ホテルに泊るとき、かならず実行することが一つあった。いったん外出して、外から自分に電話を入れるのである。そうすれば自分の名が宿泊者名簿に記載されていることが確認でき、本社からの連絡を受けそこなうことがない。
ところがある日、いつものように外から電話すると、「おつなぎします」といわれて、自分の部屋に電話がつながる。
電話口から流れてきたのは自分の声だった。話し方も自分のものである。
やりとりをするうちに、相手も同じことを察したのがわかる。クレムが二人になってしまったのだ。
その夜のうちにクレムは夜行便で自宅のある町にもどる。
朝になるのを待って、すべての銀行口座を解約し、現金に替えてニューヨークに出る。自宅には別の自分がいる。もう家には帰れない。
クレムはつつましく暮らしながら、あちこちの溜まり場にかよう。
その一つが料理店と酒場を兼ねる〈トゥー・フェイス・バー&グリル〉で、店の主人は〈二つの顔〉のアダ名を持ち、悪党と紳士の二股をかける人物。(これらの二重性が物語の世界を示唆しているのはいうまでもない)
たまたま同じテーブルについた男がクレムに話しかけてくる。
「どうしてマシューにはロバが二頭でてくるんだろう」
いきなり何の話だ? とまどうクレムに男は疑問を列挙する。
マシューすなわちマタイの書いた「マタイ伝」の21章1節から9節には、二頭のロバがでてくる。
8章の28節から34節には、悪霊につかれた人物が二人でてくる。
9章の27節から31節には、盲人が二人でてくる。
20章の29節から34節でも盲人は二人。
だが、ほかの福音書ではロバは一頭だったし、狂人も盲人も一人だ。それなのに、なぜマタイの書では人物がダブっているのか。
「たぶん乱視だったんだろう」とクレムは男の疑問にこたえる。
「ちがうね」と男は声をひそめる。「やつはわれわれの仲間だったんだ」
男のいう「われわれ」の意味にクレムは気づく。
自分の症例は唯一のものではなかった。かりにそういう現象が百万人に一人の割合で起こったとしても、すでに数百人の分裂人間が国内にいることになり、彼らは救いを求めて〈トゥー・フェイス・バー&グリル〉のような店に集まってくるのだ。
以上が「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」の前半部分。
男がクレムに語ったことを、読者は信用していいのか。
「SF 界のホラ吹き男」と呼ばれ、ホラを吹きまくっていた(というよりホラ話しか書かなかった)ラファティのことだから、鵜呑みにするわけにはいかない。けれどもなんだか気にはなる。
そこで福音書を調べてみた。
するとホラどころか、生真面目な事務員が記したみたいに章・節の番号まで正確。二頭のロバ、二人の狂人、二人の盲人は、どれも男の指摘した「マタイ伝」の箇所に出てくる。だが、「マルコ伝」、「ルカ伝」、「ヨハネ伝」の対応するエピソードでは、どれもそれらは一頭か一人に限られる。
奇妙なのは、それらがマタイ伝において二頭や二人とされた必然性がまったくないこと。
クレムがちらっと言っただけのマタイ乱視説だが、何を言い当てたのか。