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2019-08-15
ニーチェの書から、ベンヤミンが短い影を、キリコが長い影をイメージしたこと
ベンヤミンの断章。

正午頃になると、影たちはわずかに、事物の足元にへばりついた黒く鋭い縁取りとなっていて、音もなく不意に、それぞれの巣穴のなかへ、それぞれの秘密のなかへ引きもる手筈をととのえている。するとそこには、押しひしめき身をこめてあふれんばかりに、ツァラトゥストラの時間ときがやってきているのだ。〈生の真昼〉の思索者、〈夏の庭〉の思索者の時間ときが。というのも認識は太陽と同じく、その軌道の頂点において事物を最も厳密にかたどるのだから。 ――ヴァルター・ベンヤミン「短い影」(浅井健二郎訳)

キリコの絵について述べているかのようにも読める。
ただし、キリコが彼のいうメタフィジック絵画で描いた影は長く、ベンヤミンの影とは逆。
ベンヤミンの影は夏の影、キリコの影は秋。

キリコは自身のいうメタフィジック絵画の由来を、ニーチェの「孤独な詩情」にあると称している。
また曰く、その詩情こそ「この哲学者の発見した新しさ」なのだ、と。

この新しさとは、情調にもとづく奇怪な、奥深い、神秘的で、限りなく孤独な詩情なのである。……この詩情は、私に言わせれば、秋の午後の情調にもとづいている。その頃には、空はきよらかで、かげは、夏のあいだよりも長くのびるようになっている。太陽が低くなりはじめているからだ。この異常な感覚は、イタリアの町々や、ジェノヴァやニースなどという地中海沿岸の町々で味わうことが出来る。 ――『キリコ自伝』(粟津則雄『思考する眼』による)

2019-08-06
未来が既定であるとしても
アメリ。アメリ=シュザンヌ……俺の妻は、今日から一年後、一八四一年一月三十一日に息をひきとるだろう。俺がここにとらわれてから一年間、彼女はとうとうベッドから離れることができない。二十六歳。俺が閉じ込められているここよりも、もっと遠くもっと暗い土牢の中へ、彼女は行ってしまうのだ。だが、涙はなるべく少しだけしか流さないようにしよう。俺は生きつづける。今日から四年後の十二月、重病のためにここを出されて、トゥールの病院に行く俺のことを、一八四八年の二月革命が待ち受けている。パリに甦るあの燃えるようなバリケードの日び…… ――佐藤信『ブランキ殺し上海の春(上海版)』

話者(ブランキ)は既定の未来を語っている。
ただし、意思(「涙はなるべく少しだけしか流さないようにしよう」)は既定ではない。
運命は覆せなくても、意思を運命にあずけるつもりはない、と。
2019-08-03
彗星の権威失墜と救済
今日では誰もが彗星をひどくばかにしている。

と革命家オーギュスト・ブランキ(1805-1881)。トーロー要塞の土牢でつづった『天体による永遠』で。

彗星は優越的な惑星たちの哀れな玩具なのだ。惑星たちは彗星を突き飛ばし、勝手気ままに引きずりまわし、太陽熱で膨張させ、あげくの果てはズタズタにして外に放り出す。完膚なきまでの権威の失墜! かつて彗星を死の使者としてあがめていた頃の、何というへり下った敬意! それが無害と分かってからの、何というあざけりの口笛! それが人間というものなのだ。

人々は彗星の非力を言ういっぽうで、その巨大さゆえに地球が彗星の衛星にされかねない可能性や、地球に衝突したばあいの破壊力といった不安も彼らの説につきまとった。ブランキは、それらたがいに矛盾する、あるいは内部的に矛盾をかかえた諸説を批判して、彗星とは「謎の役割を果たすだけ」の「定義不可能な物質」とするに至る。科学の論法で話をすすめながら、まさかの結論なのだが。――

彗星はエーテルでも、気体でも、液体でも、個体でもない。天体を構成しているどんなものとも似ていない。それは定義不可能な物質であり、既知の物質のいかなる特性も有していないように見える。それは、しばしの間それを虚無から引き出し、再び虚無の中で転落させる太陽光線がなかったら、存在することさえもできない。

宇宙の記述の中で、彗星の存在は完全に無視されている。それらは何でもない存在であり、何もしないし、ただ一つの役割、すなわち謎の役割を果たすだけである。

ブランキは彗星のあり方に自分を重ねている。
いや、逆か。ブランキは自分のあり方を下敷きに彗星の姿を描き出した。60代もなかばを過ぎて脱出不可能な要塞の一室に幽閉され、そこで生涯を終える覚悟も迫られたろうブランキにとって(実際にはトーロー要塞は最後の牢獄にはならなかったのだが)、自己を救い出すには非科学を承知の論理によるしかなかったのではないか。
以下で、「天文学」や「科学」を、「歴史」や「革命」で置き換えると、「彼ら」はブランキその人となる。

とにかく、彼らは、星空の最も美しい夜々にしばしば抜きんでて輝く、無害で、優美な被造物なのだ。もしも彼らがやって来て、罠にかかった筬鳥おさどりのように生け捕りにされるとしても、天文学もまた彼らと共に生け捕りにされるのであり、彼ら以上に脱出は困難なのだ。彼らこそまさに、科学上の悪夢である。他の天体に比べて何と対照的であることか! 対立する二つの極、あらゆるものを押しつぶす巨塊と重量のない存在、大きいものの極限と空無なるものの極限。

(引用は浜本正文訳『天体による永遠』から)
2019-07-27
悪天候が抒情をリリースすること
ボードレールにおける霧と雨。

ボードレールが抒情的表現の素材として初めて切り開いた対象のなかでも、一つのものがきわだっていると言えるだろう。すなわち悪天候である。 ――ベンヤミン『パサージュ論』

『パリの憂鬱』の詩人としてのボードレール。「なるほどこの詩の本質的な特徴の一つは、霧の中の倦怠アンニュイ、倦怠と霧(都市の霧)との混交である。一言でいえば、それは憂鬱である。」 ――ベンヤミン『パサージュ論』、ただしカッコ内は他書の引用

晩秋から、冬を越え、泥つぽい春先きまでの、
退屈な季節よ! 僕は君等を愛し、君等を賛美する者だ、
かうまでして君等は、僕の心と脳髄を、
霧の死布かけぎぬと雨の墓とで、包んで呉れるのだから。 ――ボードレール「霧と雨」

雨降り月、このまち全体に腹でも立つか、
かかへたかめを傾けて、近くの墓地の死者たちに
気ふさぎな寒さをそそぎ
霧立ちこめる場末には死の影どつとぶちまける。 ――ボードレール「憂鬱」

引用は、ベンヤミン『パサージュ論』第1巻(今村仁司、三島憲一他訳)、ボドレール『悪の華』(堀口大學訳)から。
2019-07-17
星座とは、互いに時間も空間も相異なるところに存在する星が、意想外のしかたで結びつくところに成立するもの
ベンヤミンの用語コンステラツィオン(Konstellation)は、普通に訳せば、「星座」、「配置」、「状況」など。とくにベンヤミンの意図らしきところを写そうとするなら、「星座的配置」など。
訳語のことはそれでいいとして、ベンヤミンがこの語に何を担わせたのか理解しかねていたのだが、次の説明がよさそう。

「過ぎ去ったものを史的探求によってこれとはっきり捉えるとは、同じひとつの瞬間において星座的布置(Konstellation)をなして出会うものを、過去のうちに認識することだ」というのが、ベンヤミンのスタンスである。星座とはいうまでもなく、互いに時間も空間も相異なるところに存在する星が、意想外のしかたで結びつくところに成立するものである。史的探求の現在と特定の過去とは、危機の瞬間において、この意味での星座的布置コンステラツィオーンをなして出会うのだ。

引用は鹿島徹編・評注『[新訳・評注]歴史の概念について』(2915年、未来社)から。書名からわかるとおり、ベンヤミン『歴史の概念について』(通称「歴史哲学テーゼ」)の訳注書で、訳書としては最後発か。注釈書としては、ベンヤミン自身による異稿をはじめ多岐にわたる異版を参照して字句レベルの批判を重ねた詳細なもの。
「互いに時間も空間も相異なるところに存在する星が、意想外のしかたで結びつくところに成立するもの」とあるのが眼目。とくに「時間も空間も相異なるところ」として、ベンヤミンが示そうとしたかと思われるものを立体化している。

オリオン座がじつは狩人オリオンの形を表していないこと、一般化すれば、それぞれの星座を構成する星々はその星座平面上でこそ正しい位置に置かれているように見えても、実際は何光年もあるいは何百光年もずれた場所に位置しているといったことを、「天球の外側のこと」と題して前に書いた。その時点では、ベンヤミンの星座コンステラツィオンのことは意識していなかったのだが、今後はその説明に使える。

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