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2019-02-03
雲と同じような自由と怠惰
喫煙は浪費の個人化と結びついている、とバタイユが言っている。
煙草をふかすのは、祝祭としておこなわれた古代の浪費に代わる個人的ないとなみなのだ、と。

喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から解放される。喫煙することで、人は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰を与えるのだ。 ――中山元訳『呪われた部分 有用性の限界』

空を見上げて、雲の行方を追ったりする。
「おーい、雲よ」と昔の詩人を真似たりする。
遠い浮雲を二人でぼんやりながめていた覚えがある。二人ではなく、ひとりだったかもしれないとも思う。あるいは、遠い浮雲をぼんやりながめた記憶など、そもそもなかったりもする。
とにかく喫煙にはそんな感覚がかすかに伴う。
バタイユの論脈と外れるが、祝祭に加わりたいかそれとも個人的な浪費で済ませるかと問われたら、自分なら後者を取る。万博や五輪の騒ぎをうれしがる者と鬱陶しくおもう者。

個人は喫煙において、その優雅さを示す。個人が煙草に吸われるのだと言ってもいいほどだ。喫煙すること、とくに自覚なしに行われるこの営みは、自己主張からもっとも遠く、すでにごく透明なものになっているのである。 ――同
2019-02-01
時の遊水地
アメリカで日本の80年代シティポップがはやってるという。

80年代へのノスタルジーといえばアメリカで日本の80年代シティポップが流行ってるという話もあって、面白いのがアメリカの若者は自国の消費し尽くされた過去の記憶にもはや純粋なノスタルジーを感じることができなくて代わりに他者の記憶にノスタルジーを求めてるという指摘 (kizawaman02さんのツイート

世界のあちこちのあれこれのカルチャーの場には、ところによって時間を滞留させる遊水地か溜め池のようなものがあり、よそでは消えたトレンドがそこでは長くとどまっている――というのがある。これもその例ではないか。
アメリカの動向も80年代の日本のポップスも知らないから、自分のアンテナに届く範囲での話だが、台湾では日本の古い歌謡曲がえんえんと歌い継がれている。

前にあげた「深情難捨」もその一つ。



同じメロディで歌詞の異なる「深情難忘」というのもある。
オリジナルは1938年(昭和13年)に東海林太郎の歌で発売された「上海の街角で」。
日本ではとっくに忘れ去られたこの曲が、台湾では何人もの歌手によって今も歌われている。アマチュアが歌ったり演奏したりするビデオも YouTube にある。
次のビデオも同じ曲だが、歌がはじまる前に二人の男性がこの曲について長い会話をかわしている。この曲が台湾でたいせつにされている現れと見た。



自分のことにもどると、テレビの懐メロ番組は見る気にならないのに、 YouTube で台湾版の日本歌謡をあさるのは心地よい。ド演歌に収斂してしまう前の昭和歌謡が、台湾の遊水地で保存されているのだという気がする。

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2019-01-26
正しくもないし間違ってもいないのに
自由意志というものはない。それなのに、あるかに見えてしまうのは何故か。
ジャン・コクトー『知られざる者の日記』のうち「目に見えないものについて」の一節。高山鉄男訳。

人間は、自由に選択するのだと思っているが、それは、人間が自分勝手にばらばらにした選択肢のあいだで迷うからである。それらの選択肢は一体をなすものなのだ。右に行くべきか、左に行くべきか。どちらでも同じことなのだ。二つの道は、互いに合致しているのに、意地悪いことに矛盾しているように見えるのである。そのために人間は、実は正しくもないし間違ってもいないのに、正しいだろうか、間違っているだろうかと自問する。また、自由でないのに、相反する方向の一方を選ぶように見えるのだ。

選択肢があるように見える。
あるように見えるから選ぼうとする。または選ぶ。または迷って選べない。
それらの経験が自由意志の幻影を呼び起こす。
自由も自由意志もないのに、あるかのように思い込む。

コクトーによる自由意志の定義。

自由意志とは、結びつき合い、互いに組み込まれ合い、一体となった反対物同士の無限の共存である。

コクトーは言ってないが、人間は自由である。
人間は自由を喜び、不自由を嫌い、自由を求めて動き回る。その限りにおいて人間は自由。
2019-01-24
ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』の頃
ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963年)の一節。宇野利泰訳。

「誤解しているわ」と、彼女はいった。「まるっきり誤解よ。わたし、神なんか信じない」
「では、なにを信じている?」
「歴史」
 かれは一瞬、おどろいて、彼女を見た。そしてそれから、笑いだした。
「リズ、おどろいたよ。まさかきみがコミュニストとは」

歴史が信仰の対象となっている。

マルクス主義の歴史理論では、すべての歴史は階級闘争の歴史。
マルクスらは自身の時代(19世紀・中後期)をその最終局面にあると見て、プロレタリアート(労働者階級)とブルジョアジー(資本家階級)の戦いにおいてプロレタリアートが勝利するとした。その後はプロレタリアート独裁の体制を経て、支配階級が被支配階級を支配するための道具である国家(これもマルクス主義による国家観)は消滅する、と。

「歴史を信じる」とは、マルクス主義の歴史理論を奉じ、プロレタリアートの側にあって戦うこと。

胴が長く、脚も長く、ぶざまといってよいほど長身の女だった。背をひくく見せるために、かかとのないバレー靴をはいている。顔立ちもからだとおなじことで、造作が大きすぎることから、不器量と美しさのあいだをさまよっている。年はおそらく二十二か三。ユダヤ種だ。

『寒い国から帰ってきたスパイ』の主人公リーマスは、職業安定所の紹介で図書館に仕事を得て職員のリズと知り合い、やがて愛し合うようになる。
リーマスは西側の諜報機関員。
リズは社会主義運動の末端にいる活動員。平凡で非力だが、善良な。
リズを諜報活動の小道具に仕立てる工作が、リーマスもリズも知らないところで西側機関によって進められる。それを察した東側の諜報機関も動き出す。東西双方の機関に操られる二人が迎える結末は?

革命運動は(右であろうと、左であろうと)、宗教と同じ。
預言者が社会の変革を予言する。
予言はなかなか実現しない。
すると救世主があらわれて、予言を実現すべく人々を煽動する。
この時点でじつは予言は外れているのだが、革命家がそれを認めることはない。
マルクス主義の革命においては、マルクス、エンゲルスが預言者と救世主を兼ねたが、救世主としては成果をあげるに至らず、役割はレーニン、スターリンに引き継がれた。

『寒い国から帰ってきたスパイ』の急所は2箇所。
ミクロには、はじめに引いたリズのプロフィール。立場は違ってもリーマスのプロフィールでもある。
マクロには、東から西への脱出行の結末。これが大状況。
2019-01-20
この老人が死んだ時はモウ息が絶えていたのです

この壁の底は、その間ずっとはるかに贅沢です。 あなたがクラブのレベルを越えるとすぐに、逃げる多くの人はあなたが無限に向かって逃げる計画があることをあなたに思い出させるために来ます。 したがって、ベースからトップへ、そしてトップからボトムへと進む視線は、理解できない飛行機のひねりのビジョンを受けなければなりません。 この茶色のバンドは、複数の人には胴体に見えます。 私たちはおそらく、計画の方向性と色や絵の遊びの間のこの対立のおかげです。 頂上では、ほぼ一様な色の平らな領域が平らで規則的な茶色の帯で交差しているように見えますが、基部では、異なる回避の収束は無限大に向かって同じバンドを導きます。

[原文]
Le bas de ce mur est, quant à lui, beaucoup plus loquace. Dès que vous franchissez le niveau du gourdin, plusieurs fuyantes, viennent vous rappeler que vous avez là un plan fuyant vers l'infini. Ainsi, votre regard passant de la base au sommet et du sommet à la base aura à subir la vision d'une torsion incompréhensible d'un plan. Cette bande marron paraîtra torse à plus d'un. Nous sommes sans doute redevable de ce conflit des orientations d'un plan au jeu des couleurs et du dessin. Alors qu'au sommet, un aplat de couleur quasi uniforme semble traversé par une bande d'un marron uni et régulier, à la base, la convergence des différentes fuyantes entraîne cette même bande vers l'infini.

和訳は Google 翻訳による。
自力で考察したり創作したものより、machine aided な産物のほうがずっとおもしろい。
しかも生産性は数百倍。
というわけで、以下旧作だが――

やめねえけりゃこの家を立ち上がろうと
ややあって独言のように明るく
その沢井の道場に姿をみつめておりましたが
新坂から鶯谷へかかる辺り
裏街道ときてはただ茫たる武蔵野の原で
竜之助は冷やかに笑って立ち
伊勢守は幕府の重臣じゃ
引き続きキャッキャと啼いて
前後の敵を一時に斬り落としても
柳の葉の繁みを破って敵の裏に出くわすことは珍らしく
おう、このお娘さんに裸になってもらって
何とか殿様をこっちのものにするのさ
主人はびっくりして
この険しい道で人間にお線香を上げると
先方の名乗りを受けた運命を自分の膝に立てていたのは
いま二階からちらと見合った少女
島田虎之助を突き出したのは以前の軽佻
粗暴はその話を別のお方にお帰りでございましょう
お前様こそエラク早起きで
この老人が死んだ時はモウ息が絶えていたのです (大菩薩峠・抄

墓碑銘ではあるまいか。
最初の記事が machine aided で、かつ墓碑銘。できすぎな気もするが、
この老人が死んだ時はモウ息が絶えていたのだ、と。
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