to top page
2020-02-13
小説中の人物が北を目指すこと
精神分析医と患者の対話。

「さあ、ためらっちゃいけない。すぐ答えて。そのふつふつ湧いてくる望みってのはいったい何だね」
「北の岸へ行くことなんです。そしてそこへ到着のめじるしを立てることなんです」
「北の岸へ行くにはどうすればいいのかな?」
「そこが問題なんですよ。北岸のありかは私にもごく大ざっぱにしかわからないんです。時にはニューギニアの東端部沖のダントルカストー諸島を北に抜け、トロブリアンド諸島を通り過ぎたところにあるようにも思え、時にははるかモルッカ海峡のタラウドへ行く途中にあるようにも…… ――R・A・ラファティ「彼岸の影」(井上央訳『子供たちの午後』)

具体的な目的地などの制約がない場合、小説中の人物は北を目指すことが多い。
われわれの日常的に見てきた地図が北向きだからではないか。
カーナビが示す前方は、実際にその車が進む方向であって、北や南に向きが固定されているわけではない。印刷物の地図を使う際も、現実行動をともなう場合は、地図を回転させて眺めたりする。
けれども、実際の行動から離れて想像の中で旅をする時、われわれはなんとなく北に向かってしまう。地図で北が上方になっているからに違いない。

われわれの何とはなしのイメージの中で、前方と北方が重なっている。

前にニック・ケイヴの『神の御使い』に関して同じことを書いたはずだが、ログを調べても出てこない。書いたけどその後削除したのか。もともと書いてなかったのか。