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2018-08-03
『歴史哲学テーゼ』を『春雨物語』で置き換える
ヴァルター・ベンヤミンの『歴史の概念について』(通称『歴史哲学テーゼ』)を上田秋成の『春雨物語』で置き換えること。
それで何が得られるか。
とりあえず、両書の理解が深められる。

上田秋成「海賊」のあらすじ。「海賊」は『春雨物語』中の一篇。
  1. 任地の土佐から都にかえる紀貫之の船に海賊が単身乗り込んでくる。「自分の質問に答えろ」と海賊は貫之に文学、歴史、政治にわたる論争を挑むが、一方的に自説を述べ終えると小舟に飛び移って去る。
  2. 都にもどった貫之の家に手紙が投げ込まれる。菅原道真について書いてあり、筆づかいは荒々しいが理路はととのっている。
  3. 手紙の追記。おまえの名は「つらゆき」ではなく「つらぬき」と読むべきものである。そんなことも知らないのは、歌はよんでも文(漢籍)を読まないからだ、しばらく歌をやめて文を読め、惜しい男よ。
  4. 貫之が友人にきいたところでは、海賊の正体は文室秋津であろうという。学識は広いが放蕩乱行のため追放され今は海賊となって暴れまわっている、と。
「海賊」はフィクション。秋成の用語で言えば、寓言そらごと
物語だけがフィクションなのではない。論も説も史もすべてフィクションである。これが『春雨物語』を書いた秋成の立場。

「海賊」の後書きに言う。

これはわれ欺かれてまた人をあざむくなり。筆、人を刺す。また人にささるれども相ともに血を見ず。

『春雨物語』全体の前書きでは次のとおり。「ふみ」とあるのは正史の意。

物がたりざまのまねびはうひ事なり。されど、おのが世の山がつめきたるには、何をかかたり出でん。
むかしこのころの事ども人に欺かれしを、我またいつわりとしらで人をあざむく。よしやよし、そらごとかたりつづけてふみとおしいただかする人もあればとて、物いひつづくれば、なほ春さめはふるふる。

物語のようなものを書くのははじめての経験である。それにしても、山人のごとき自分が何を語り出すことになるのか。
昔のことや近頃のことどもで人に騙されているが、自分もまた偽りと気づかずに人を欺く。まあ、いいか、そら言を語って正史として尊ばせる人もいるのだから、とつぶやいていると、なおも春雨の降りつづくことよ。

ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』を、この前書きを持つ『春雨物語』で置き換えることができる。
まず、置き換えを可能とする両者の共通点のうち最も重要なこと。
ベンヤミンはテーゼ I において、自らの拠って立つ歴史的唯物論が詐術──ベンヤミンの用語では「神学」──であることを認めている。E・A・ポーの短編「メルツェルの将棋指し」などで知られるチェスの自動人形を喩えに使って曰く、

実際には、その中にはせむしの小人が座っていた。このせむしの小人はチェスの名手で、紐で人形の手を操っていたのだ。この装置に対応するものを、哲学において思い描くことができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっている。この人形は誰とでもらくらくと渡り合うことができるのだ。今日では周知のように小さくて醜く、そうでなくとも人目に姿をさらすことのできない神学を、この人形が自分のために働かせるときは。(山口裕之訳『ベンヤミン・アンソロジー』)

歴史的唯物論はつねに勝つ。なぜなら、それは神学だから。
思想家も哲学者も、ふつうはそのような言い方をしない。疑いようのない確実な基盤に立って、綿密に論理を積み重ねた結果が我が理論である、という構えを誰もが取る。
ベンヤミンはその逆をやった。自分の基盤の信頼性を否定してどんな得があるのか──という問題ではない。神話的だから神話だと言ったまで。いや、得はあるだろう。基盤の信頼性の欠如を明らかにすることによる、メタレベルでの信頼性の獲得。
参照: 無敵の弁証法 - Magazine Oi!

『春雨物語』は自らを寓言そらごととした。
『歴史哲学テーゼ』も自身の根拠を冒頭で否定。
思想書でも文学作品でもふつうは行われないことだが、両書はともにその冒頭で自らの根拠の虚構性を表明している。
このテーマ、続く。