無敵の弁証法
セルゲイ・エイゼンシュテイン「映画形式の弁証法的考察」(佐々木能理男編訳『映画の弁証法』所収)冒頭の一節。
事物の弁証法的体系が
頭脳のなかへ
抽象的な創造活動のなかへ
思惟の過程のなかへ
投影されて、生ずるのが
弁証法的な思惟方法であり
弁証法的唯物論であり
哲学である
頭脳のなかへ
抽象的な創造活動のなかへ
思惟の過程のなかへ
投影されて、生ずるのが
弁証法的な思惟方法であり
弁証法的唯物論であり
哲学である
簡潔な表現なので、それだけ唯物弁証法(弁証法的唯物論)の無理が露わ。
論旨をさらに整理すると、
結論: 弁証法的思惟方法あるいは弁証法的唯物論は正しい思惟方法である。
証明: この思惟方法は事物の弁証法的体系を脳内に投影したものであるから。
ということになるが、この論理は二重に破綻している。
ひとつには、外部の事物が脳内に正確に「投影」されるなどとは、唯物弁証法以外の何者によっても保証されていないから。さらに根本的には、事物の体系が弁証法的であるとは、(ここでは省略されているが)ほかならぬ唯物弁証法による主張であり、上の論法ではその唯物弁証法を根拠として唯物弁証法が正当化されている。いわば、おれおれ証明。
自分のルールで戦えば無敵──これがおれおれ証明の目指すところで、自説の正当性を同じ自説で証明できるなら、これほど確実な勝負はない。
唯物弁証法が無敵であることは、ポーの小説「メルツェルの将棋差し」などで知られる自動人形を材料にして、ヴァルター・ベンヤミンも述べている。
トルコ風の衣装をまとい、水煙管をくわえたこの人形は、大きなテーブルの上に据えられた盤でチェスを指す。鏡を用いた仕掛けによって、テーブルの中にはなにもないように見せかけてあるが、
実際には、その中にはせむしの小人が座っていた。このせむしの小人はチェスの名手で、紐で人形の手を操っていたのだ。この装置に対応するものを、哲学において思い描くことができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっている。この人形は誰とでもらくらくと渡り合うことができるのだ。今日では周知のように小さくて醜く、そうでなくとも人目に姿をさらすことのできない神学を、この人形が自分のために働かせるときは。
引用は山口裕之訳『ベンヤミン・アンソロジー』から。「歴史的唯物論」とあるのは、唯物弁証法の歴史理論としての側面。信奉者にとっては科学であるはずの歴史的唯物論が、じつは神学に支えられていることをベンヤミンは自覚していた。