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2018-11-18
「歴史」の真実が嘘で、「神話」の嘘が真実であること
ジャン・コクトーの「ピカソI」から引用(佐藤朔訳)。
後半の「らくらくと」に注意。

『ピーター・パン』の作者、J・M・バリー氏が、ロンドンでデージー・アシュフォード嬢が九歳のときに書いた『若いお客さん』を紹介した。この本は僕たちをうっとりさせ、またおかしく吹きださせもした。アシュフォード嬢の巧まざるおかしさは、少々夢のおかしさに似ている。つまり彼女にはよく通じない会話をとおして、人間や物事でつくりあげた映像を、実物としてさしだしたり、また意味もよくわからない言葉や事実で、新しいメカニズムを組み立てることから起こる。
ここで『創造的進化』、精神分析学の作品、アインシュタインの著書などをらくらくと読みこなす超人を想像してみよう。彼は心の底から楽しむにちがいない。決定論、終末論、進化主義、精神分析学、相対性理論のなかに、僕たちがアシュフォード嬢の作品に発見する、同じようなきてれつさを見出すことであろう。

「超人を想像してみよう」と言っている。これらの哲学者や科学者の著書を「らくらくと読みこなす」としているのは、ふつうに頭のいい秀才の類ではなく、それを超えた超人のこと。「楽しいなあ、人間というやつはこんなことを考えてしまうのだ、しかも主張までしてしまうのだ」――と、そんな感じで超人らは楽しむにちがいない。

また、「つくり話がすぐれていること」と題してコクトー曰く(鷲見洋一訳)。

わたしの考えでは歴史学者より神話学者をとりたい。ギリシア神話というのは、うち込んでみると「歴史」のさまざまな歪曲や単純化などよりもずっと面白い。神話の嘘に現実は混ざっていないが、「歴史」は現実と嘘との混ざりものだからなのである。「歴史」の現実は嘘になるが、作り話の非現実は真実になる。神話に嘘はありえない。

で、超人ならざる我々は哲学者や科学者の書をどう読むべきか。
やはり楽しんで読むのがいい。
それらはどれも「僕たちがアシュフォード嬢の作品に発見する、同じようなきてれつさ」でいっぱいの創作物なのだから。