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[2020.5.8 - 2020.5.31]

2020.5.31 sun.

2020.5.30 sat.

2020.5.29 fri.

そのころ、ちゃんと「外に出ろ、自由でいろ」と言っていたのは僕の観測範囲では東浩紀と山形浩生くらいで、それもちょっと炎上気味だった。それからけっこうしてから外山恒一が「外出するだけで闘争になる」と、ユーモアあふれる発言をしてバズり、そこからなんとなく雰囲気が変わっていったという印象 ――樋口恭介『すべて名もなき未来』(晶文社)発売中 on Twitter

vs.

自分は怠惰というか保守的というか、寝てると起きたくないし、起きていると寝たくなくなる癖があって、大きな声じゃ言えないけど、今回も、せっかく世の中が動き出したってのに、今はむしろこのまま篭って自分の作品を作りを続けたくなっていて・・・もうちょい待ってってなっております。 ――大友良英 on Twitter

アメリカ全土で人種差別への抗議運動が広がる中、ケンタッキー州では同地のルイ16世の像の腕が抗議者に折られた。フランスでは、Twitter上でこの件への怒りのツイートが広がる中、冷静なツッコミが。
「俺たちは本物のあいつの首を切り落としたんだけど、忘れたのか?」

pic.twitter.com/pFjjqCarvD

— ファリードやす (@Yasu9412) May 29, 2020

2020.5.28 thu.

ディスクからこんなのが出てきた。
長いページキャプチャーの一部だが、ここが核。



ベンヤミンを科学的に解釈してはいけない。
文学として味わうもの。

関連記事:
今日の常識では天球の背後に機械はない。では天球がないとした場合、その向こうに何が見えるか。
たとえばオリオン座のあたりで天球が破れているとしたら――
天球の外側のこと - Magazine Oi!

ベンヤミンが「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」で詩的に述べたことを、科学的に言い直すと次のようになるのではないか。

事実はみずからを語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかと決めるのは歴史家なのです。(…)シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。(…)歴史家は必然的に選択的なものであります。歴史家の解釈から独立に客観的に存在する歴史的事実という堅い芯を信じるのは、前後顛倒の誤謬であります。しかし、この誤謬はなかなか除き去ることが出来ないものなのです。 ――E. H. カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳)

2020.5.27 wed.

銭湯が解体されててふたつの富士山が一望に・・ pic.twitter.com/LiyQVbNFix

— たま (@tama11304862) May 26, 2020

#ポストコロナ

「僕は忘れたくない」と、この小説家は言う。でも、ほぼまちがいなく忘れるだろう。2年もたてば忘れる。ぼくは年寄りだから、エイズが流行ったときに、エイズ後の文明だのいう駄文がたくさん登場したのをよく覚えている。もはや人間同士の密な接触はなくなり、盆栽やお茶会みたいなゆるい枯れた人間関係しかなくなるだろう、なんてことがマジで言われていた。リーマンショック/金融危機で、資本主義は崩壊して新しい世界秩序が、なんて話は腐るほど聞かされた。そして、この日本では「ポスト福島」談義がみんな記憶にまだ残っているはずだ。 ――コロナを前にしたインテリの自己矛盾|新・山形月報!|山形浩生|cakes(ケイクス)

近くを流れる宮川の水には、いろいろな小動物たちが、何の拘束もなく、嬉々として日に当たっています。もちろんマスクもしていませんし、外出禁止も休業も要請されていません。
昔、セミの羽化を観察したことがあります。今の情勢によく似ています。飴色をした蛹から成虫が抜け出し、後に形だけがいやに完備した抜け殻が残ります。現代世界もこれと同じでプレコロナの外層がポッカリ外れた後にはポストコロナの成虫がもう待機しているのではないか。カラスやカモやカメはみな何食わぬ顔でその日の予行演習をしているような気がして仕方ありません。 ――えやみ ときのけ 老いの春 - 野口武彦 公式サイト

Twitter でポストコロナを検索してみた。
ポストコロナにどう備えるか、どう生きるか、仕事にどう活かすか、どう利益を引き出すか、どの発想もポジティブな姿勢からのものばかりで、おもしろ味はない。
それがあるべき心構えというものなのだろうが…

2020.5.25 mon.

直助は江戸深川万年町冬木店の医師の中島隆碩(赤穂浪士の脱盟者・小山田庄左衛門と同一人物説あり)を下男奉公していた。享保5年(1720年)12月、中島に薬種の横領を暴かれ、翌年正月15日宿請人に引き渡され詮議されるはずであったが、中島ら一家を斬殺し、金を奪って逃亡した。
その後、権兵衛と変名し、麹町4丁目舂米屋大和屋喜兵衛の下男として住み込んでいたところ、中島を殺害した時に奪った刀を質入れしたことから事が露見し捕縛された。町奉行中山時春の吟味の上、享保6年(1721年)7月13日牢舎、23日引き回し、25日まで日本橋に曝し、26日鈴ヶ森の御仕置場で磔刑に処せられた。 ――直助権兵衛 - Wikipedia

直助が「お前も余っ程強悪だなア」というのに対し、「おぬしが仕草を見習ったのよ」と伊右衛門がこたえるのは敵役の名人幸四郎に対する当て込みであろう。(…)大坂本の「いろは仮名」は、ここで伊右衛門が「首が飛んでも動いてみせるワ」ということになっている。(近ごろは東京でも、このセリフだけはいうようになった)これは敵役の性格描写として、巧妙なセリフだと思う。 ――戸板康二「東海道四谷怪談」解説(『名作歌舞伎全集』第九巻)

伊右衛門は能動的な悪人ではない。状況の展開に追われて悪をなす受動的悪人であって、「首が飛んでも…」という台詞は伊右衛門の性格にふさわしくない。現にこの場面でも伊右衛門は「おまえのやり方を真似たのだ」と直助に言っている。受動的なのである。「首が飛んでも…」が生きてくるとすれば虚勢として演じられた場合だが、そうまでしてこの台詞をはめ込む必要はない。

2020.5.24 sun.

2020.5.23 sat.

2020.5.22 fri.

2020.5.21 thu.

2020.5.20 wed.

彗星の本体
N2O、NH3、CH4 などの氷が大部分
ざくざくした穴だらけの氷で、その間に金属の小粒が埋もれているものと考えられる
粒子の平均密度は 0.05g/cm3 で、相互に広い間隔をおいて存在し、彗星の核の95%は空所
粒子の大きさは 70km 以下、おそらく 1km 〜 数km 程度のものが多い
直径 1m 程度の粒子では太陽に近づくと蒸発してしまう
彗星は1回帰来するごとに質量の 1/200 を失う

彗星の起源
太陽系以外からと信ずべき理由はない
彗星の母群は太陽から数万天文単位の距離にあり、長径15万天文単位ほどの楕円軌道を描く
この距離は最近の恒星までの距離の約半分にあたり、太陽の勢力範囲の限界
この母群から太陽に近づいた彗星が惑星の近くに来ると、
その引力を受けて加速→双曲線軌道
その引力を受けて減速→短周期の楕円軌道
母群中の彗星の数は1000億個
母群中の彗星は太陽系が誕生した時の名残というよりは、星間物質から作られたと思われる
母群に新しい彗星の補充がないとしても、太陽系の彗星は数百億年間は存続する

鈴木敬信『天文学通論』(地人書館、昭和58年)を参考にした。
上の理解が科学的にどの程度妥当かはおいて、彗星の文学的イメージとしては悪くないと思う。

2020.5.19 tue.


木下智恵 on Twitter

「ブランキ殺し上海の春」の舞台、2017年10〜11月、ザ・スズナリ
戯曲の指定をよく映しているように見える。

舞台――目の細い格子状の、鉄製の簀子舞台、背景も同様に、一面、格子状の壁によって覆われている。その向うに、時おり時代がかったイルミネーション、あるいはネオンサインによる「MAISON de PRINTEMPS 春心酒家」の逆さ文字が浮かぶことがある。他に、一切の装飾物なし。舞台は基本的には、終幕まで変化しない。 ――佐藤信『ブランキ殺し上海の春(上海版)』

2020.5.18 mon.

デカルトの心身二元論に関するエリザベート王女の問い。
「思惟にほかならない魂は、物質にほかならない肉体にどう働きかけるのか。それができるとすれば、魂には一種の物質的延長が備わっていなくてはならないのでは」
これに対してデカルトは、
「そんなことに頭を使うのはよしなさい。精神を真面目くさった考究から解放して、素直に自然と親しむように」
以上、種村季弘「少女人形フランシーヌ」による。
王女の問いを言い直すと、精神の側にハンドルがないと身体をハンドリングすることができないのではないか。
デカルトの答えは生徒に急所をつかれた時の、教師の言い抜け、ないし屁理屈を思わせる。強く言うことで教師は生徒の反論を封じる。

2020.5.17 sun.

午前2時過ぎ、ハトの鳴き声で目をさます。
ベランダで、クークー鳴いてる。
居つかれてはこまるから、カーテンを勢いよくあけて脅したり、ガラス戸をあけて「シッ」と追ったりする。
姿は見えないが、近くで鳴きつづける。隣の部屋のベランダとか、上のフロアの感じ。
だけどこんな夜中に鳥がベランダまでやって来るか?
来ないのではないか。鳥目ともいうし。
そのうちに鳴き方が変わる。
声質は変わらないが拍子が変わる。どこかの部屋で木工でもやってるのではないか。夜中の集合住宅だから叩く作業は控えてるのだろうが、ヤスリをかける音とすれば、それらしくもある。






ダリの作品の多くは贋作で、ダリ自身もその制作に関わっていた ――サルバドール・ダリ伝記映画に「アメリカン・サイコ」メアリー・ハロン監督 : 映画ニュース - 映画.com

2020.5.16 sat.

夜の幽霊は死刑執行人の剣を見るとこわがると言われている。――もしも幽霊にカントの『純粋理性批判』をさし出したら、彼らはどんなにおどろくことであろう! この本はドイツで理神論の首をきった剣なのだ。 ――ハイネ『ドイツ宗教・哲学史考』(舟木重信訳、筑摩書房『世界文学体系78ハイネ』)

マクシミリアン・ロベスピエールをイマヌエル・カントと同列におくならば、それはロベスピエールに敬意を表しすぎることになる。サン・トノレ街の偉大な俗人マクシミリアン・ロベスピエールは、王制をうち倒すことになったときには、もちろん破壊的な憤怒の発作におそわれ、その次には国王の首をはねる癲癇になっておそろしくからだを痙攣させた。しかし話が至高の神についてのことになると、彼はすぐと癲癇の白い泡を口からふきとり、血みどろの両手を洗い、ぴかぴか光るボタンのついた青い色の晴れ着を着こみ、おまけに幅のひろい胸着に花束をさした。 ――同前

この二人は性来コーヒーや砂糖をはかり売りするように定められていた。ところが運命は彼らがほかのものをはかることを希望して、ロベスピエールの秤皿には国王をのせ、カントの秤皿には神をのせたのである。…… ――同前

2020.5.15 fri.

2020.5.14 thu.

2020.5.13 wed.

いつでもなお無害な観察者がいて、「直接的確実性」が存する、と信じられている。例えば、「われ思う」だの、或いは、ショーペンハウァーの迷信だった「われは欲する」だのがそれである。いわば、ここでは認識が純粋に、赤裸々にその対象を「物自体」として把握しえられ、主観の側からも対象の側からも偽造が生じないかのようである。しかし「直接的確実性」も「絶対的認識」や「物自体」も、同様にそれ自身のうちに《形容矛盾》を含んでいる。 ――ニーチェ『善悪の彼岸』16節(木場深定訳)

以前には、文法と文法上の主語とが信じられたと同じく、「霊魂」というものが信じられていた。「われ」は制約であり、「思う」は述語であり、制約されたものである、と言われた。――思うことは一つの活動であり、それには原因としての一つの主語が考えられなければならない。さて、驚くべき執拗さと狡智とをもって、この網から抜け出ることができないかが試みられた。――もしかすると、その逆が真なのではないか。「思う」が制約で、「われ」が制約されたものなのではないか。従って、「われ」と思うことそれ自体によって作られる一つの綜合なのではないか。 ――『善悪の彼岸』54節

このわたしがいて何かを認識しているのではない。
まず認識という出来事があり、その一環としてわたしが仮想的に出現する。そういう順序でわたしが存在する。
自分が眠っているときのことを考えてみればいい。そのときわたしはどこにも存在しない。
ただし、仮想的なわたしが宿る場としてのわたし――身体――は存在する。
わたしの身体がベッドで眠っている。
どこからか音が伝わってくる。遠い雷鳴でもいいし庭の虫の音でもいい。
それらの刺激と生理との交渉によってわたしが出現する。

「コギト」を「わたしは思う」と訳すのは訳しすぎ、と18世紀ドイツの科学者リヒテンベルク。

閃く(es blitzt)と言うのと同様、思う(es denkt)と言うべきであろう。コギトということは、惟う(Ich denke)と訳するや過大となる。を仮定し要請するのは実用上の必要にすぎないのである。 ――エルンスト・マッハ『感覚の分析』(須藤吾之助、廣松渉訳)による

「思う」の主語を「わたし」とするのは仮定的・便宜的なものにすぎないということ。
「わたし」が「思う」のではなく、「わたし」とは別の何者かが「思う」のである。
ドイツ語の es denkt をそのまま英語に置き換えると it thinks。「雨が降る」が it rains であるように、「思う」の場合も I think ではなく it thinks が実相であろう。――というのがリヒテンベルク、ニーチェ、マッハらの考え。

2020.5.12 tue.

何故にわれわれに何かしら関わりのあるこの世界が――虚構であってならないはずがあろうか。そしてその場合、「しかし虚構にはやはり創始者があるはずではないか」と問う者に対しては、――何故に? とはっきり答えたらよかろう。この「あるはずだ」ということも恐らくは虚構に属するはずのものではなかろうか。 ――ニーチェ『善悪の彼岸』(木場深定訳)34

せっかくの認識をポジティブな概念で無効にしてしまうのがニーチェの悪癖で、ここでも直後に「力への意志」を持ち出して、自説の価値をぶち壊しにする。
陽気にしていないと不安になってしまう精神のあり方。

わたしの思い出は過去にさかのぼった。そうだ! こどものころ、遠い遠い昔に、
――いつか、犬がこんなふうに吠えるのを、わたしは聞いた。毛をさかだて、頭をそらせ、身をふるわせて吠えたてる犬のすがたを見た。深夜の静寂のきわみには、犬も幽霊を信じるというが、
――わたしは憐れをもよおした。ちょうど満月が屋上に、死のように黙々とのぼっていた。そのしずかに動かない円盤のかがやき、――それが平たい屋根の上にあった。照らされたわが家はよその家のようだった、――
そのために、犬はあのとき恐怖にかられたのだ。犬は盗人ぬすびとと幽霊の存在を疑わないからである。 ――氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』第3部「幻影と謎」の章

ニーチェ思想の根幹概念とされる「永劫回帰」の導入部。
この味わい深いイメージも、つづく場面で、余人ならぬツァラトゥストラがポジティブに喚きたてて台無しにしてしまう。

2020.5.11 mon.

2020.5.10 sun.

宇宙に生命や人間が出現する確率は、事前にはほとんどゼロ。
そのことを枕にジャック・モノーが言うには、

われわれの当りクジはモンテ=カルロの賭博場であたったようなものである。そこで十億フランの当りを手にして呆然としている人間のように、われわれが自分自身の異様さにとまどっているとしても、なんら驚くにはあたらないのである。 ――渡辺格・村上光彦訳『偶然と必然』

そのとおりで、驚くにはあたらない。
とはいえ、うろたえたり戸惑ったりする者はいて、彼らが宗教や哲学を生んだ。
人間に存在理由などはない。ニーチェやサルトルはそのことを承知していたが、超人だの参加だのとポジティブなことを言い立てて、自分たちの認識の意義を薄めてしまった。

2020.5.10 sun. ラクダの夢

ラクダの夢を見ようとしたら
ラクダが夢に出てきてしまった
違うんだよ
俺が見たかったのは
俺がラクダであるとして
そのラクダが見る夢

電柱の陰に隠れようとしてるのか
ほら、そこの、もがいてる
ラクダよ、お前を責めてるわけではない

2020.5.9 sat.

民俗学者になって12年かと気づいた
いつから数えて12年か、12年前から数えてである
夢の中だから、そのへんの論理は行ったり来たりする
12年ものあいだ何を研究していたか
民俗学を研究していた
それなのに民俗とか民俗学とか何も思い出せない
アレワイサノサ
コチャエコチャエ
と、うろおぼえに歌ってると場面が変わって
その前は大学の構内のようなところだったのだが
今は九州の東海岸、鹿児島と宮崎の境あたり
背が高く骨太く肩が張っている
禁制を犯して上陸してきたキリシタン宣教師だろうか
とても自分とは思えない

夢から覚めて書いた夢の記録。2014年末。
時制が行ったり来たりする。
最後は主体も入れ替わる。いや、自分はこちらに自分のままでいて、そのほかに自分らしき人物が宣教師らしき様子で出てくるのだから、入れ替わりではなく二重化か。

過去記事を見直している。
主体の壊れたものの心地よさ。そういうのがある。
文章術や構成の巧拙といったものとは別。壊れていることが心地よい。
自由? なるほど、そうかもしれない。

2020.5.8 fri. 他人の家

他人の家の前に人が集まっていた。




かわりにコンサートのチケットをもらった。

2020.5.8 fri.

上海の街路を短い葬列がやってくる。
道ばたの老人が話しかける。
佐藤信『ブランキ殺し上海の春(ブランキ版)』、冒頭の一節。

老人 いつ?
── 一八八一年一月一日。午前九時十三分でした。
老人 なるほど。倒れてから五日間、とにかく生きてはいたというわけだな。
── 一度も意識は戻りませんでした。お医者さまの見立てでは脳溢血と……
老人 七十五年の生涯のうち四十年間を、牢獄に幽閉されて過した。最後の五日間は、とうとう自分の身体の中にとじ込められてしまった。パリ、イタリー大通り二十五番地。古い建物の六階の小部屋。ベッドで横になっていると、どこからか隙間風が吹き込んで来る。
── よくご存知で……
老人 墓碑銘は?
── 「ルイ=オーギュスト・ブランキ。一八〇五年から一八八一年。主人もなく、奴隷もなく」
老人 よし、行こう。行って、私にも墓に花をそなえさせてもらおう。
── 故人とは親しいおつき合いで?
老人 そう、終生の友……
── 失礼ですが、お名前を。
老人 私か? 私の名は、ルイ=オーギュスト・ブランキ。たったいま、上海に着いたところだ。

ブランキはフランスの革命家。トーロー要塞の監獄で書いた『天体による永遠』という冊子でブランキが言うには、宇宙は恒星系の集まりだが、恒星系を作っている元素(原子)は100元素しかない。無限の宇宙を構成する材料が有限種しかないのだから、宇宙は無限に反復しなければならない。すべての天体も、天体上の生物も無生物も、すべての存在物はこの永続性を分かち持っている。

地球も、こうした天体の一つである。したがって全人類は、その生涯の一瞬ごとに永遠である。トーロー要塞の土牢の中で今私が書いていることを、同じテーブルに向かい、同じペンを持ち、同じ服を着て、今と全く同じ状況の中で、かつて私は書いたのであり、未来永劫書くであろう。 ──浜本正文訳『天体による永遠』

だが、この永続性には重大な欠陥がある。
それは、進歩がないということ。
何もかもが俗悪きわまる再版であり、無益な繰り返しなのだ。
けれども──とブランキは付け加える。
進歩がないのは事実だが、それだけが事実なのではない。事実は一つではない。
今この牢獄で『天体による永遠』を書いている私はといえば、王政、帝政、共和制、私が生きたすべての政治体制下で危険人物と見なされ、犯罪者として投獄され、敗北に次ぐ敗北を重ねながら、あいかわらず同じことを繰り返しているのだが、嘆く必要はない。
なぜなら、この永続と反復にはつねに枝分かれが伴い、この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所でそうなっているのであり、すでに別の時空では別の私が革命を成功させているにちがいないのだから。

宇宙が無限であれば可能性も無限であり、ならば私の再生も信じていい。
現に、枝分かれしたブランキの一人である私が、
「名はブランキ。たったいま、上海に着いたところだ」
と名乗りをあげ、別のブランキの葬儀におもむこうとしているではないか。