2020.6.30 tue.
いやーマジでトロツキーの「プロレタリアート攻勢は不況局面において、むしろ弱まる」と言う言葉が頭から離れないっすわ。本質突きすぎてる。
そして自民政治は完璧にそれを対策してる。徹底的なまでに ――栗鼠室 on Twitter
トロツキーは読んだことがないが、この認識には同意。
敷衍すれば、民は痛めつけるほど従順となり、甘やかせばつけ上がる。
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香港の民主活動家、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)氏は30日、政治団体「デモシスト(香港衆志)」から脱退すると表明した。(…)ウォン氏は、香港国家安全維持法が成立すれば、まっさきにその標的になると述べていた。
ウォン氏はツイッターに「国際社会が今後も香港のために声を上げ、わずかに残されたわれわれの自由を守るため取り組みを強化することを願う」と投稿した。
他の民主活動家、羅冠聡(ネイサン・ロー)氏と周庭(アグネス・チョウ)氏もデモシストからの離脱を表明した。 ――香港の黄之鋒氏、民主派団体からの脱退表明 - ロイター
周庭の夫が香港入りという今朝の夢の妙なタイミング。事態をウォッチしていたわけではないのだが。
この件、6月16日の項を参照のこと。
2020.6.28 sun.
ウェグナーは『見かけ上の精神的因果関係の理論』の中で、「自分自身の思考を行為の原因であると解釈したときに、人は意識を伴った意志を経験する」と提唱しました。つまりこれは、意志の意識を伴う経験 は「彼らの考えと行為の間にある実際のどんな因果関係ともまったく関係がない」ということです。 ――『マインド・タイム』第4章「行為を促す意図」
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226事件は世間的には右翼思想によるものとされてますが、本質的には左翼色が濃くて貧困の救済を謳っていて、東北の窮状がその動機の一つになっていたことも象徴的ではないかと。 ――昭和のフクロウ(珍獣) on Twitter
なるほど、2.26事件の左翼色を見逃してたから、 佐藤信『ブランキ殺し上海の春(上海版)』の時代設定がもうひとつ消化できなかったわけか。
上海版の時代と場所の設定は次のとおり。
昭和11年(1936年)2月26日、2.26革命が勃発。
武装正規軍の蜂起に呼応して、陸軍少佐大友宮アマヒト親王(大正天皇第5皇子)は弘前の連隊を率いて革命軍の一翼を担い、事態を宮廷革命へと変貌させる。革命に成功するとアマヒトは天武2世を名乗って即位し、昭和の幕を11年で閉じて「飛鳥」に改元。
一方、中国大陸とアジアの情勢打開に苦慮するコミンテルンは、大陸における日本の軍事力と民族資本の蓄積に着目し、亡命地「満州国」で保護されたヒロヒト天皇を精神的支柱とする「大東亜人民共和国」の構想を1940年の大会で決定。この構想を中核として多くの抗日・独立運動が再編成され、徹底した皇民化教育受けた年少者たちによる「皇衛兵」組織が各地で発足する。
かくて飛鳥10年(1945年)8月15日、天武2世の大日本帝国敗戦の日、ここは大東亜人民共和国の未来の首都に擬せられる上海。――
2020.6.27 sat.
雷に長さのあること。
全長700キロ、巨大雷「メガフラッシュ」観測記録を更新 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
世界気象機関が、2018年10月31日にブラジルで観測された全長700キロの雷を、単一の雷として観測史上最長と認定したという。
上の写真は資料写真。2020年5月13日、ベトナム・ハノイの地平線に落ちた雷。
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M.I.A というラッパーが2008年にやった北米・メキシコツアー People vs. Money Tour のオープニング。
メッセージとして外山恒一の政見放送が流された。via しゅうHATE!! 𝖺.𝗄.𝖺 ℌ𝔄𝔗𝔈𝔐𝔄𝔑▱∵†🥑 on Twitter
VIDEO
関連情報:
People vs. Money Tour - Wikipedia
元難民ラッパーM.I.A.への勲章授与と美談報道から読む、揺れ続ける英王室の現在地(川崎大助) - 個人 - Yahoo!ニュース
2020.6.26 fri.
自発的な行為に繋がるプロセスは、行為を促す意識を伴った意志が現れるずっと前に脳で無意識に起動します 。これは、もし自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味します。 ――『マインド・タイム』第4章「行為を促す意図」
意志に基づくプロセスは、無意識に始まるという発見は、以下のような疑問を招きます。「その自発的な行為を実行する際に、意識を伴う意志には何か役割があるのでしょうか?」 ――同前
『マインド・タイム』山場。
無理が深まってく感じはある。やはり無理をしているのではないか。
私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。 ――同前
2020.6.25 thu.
もう少し一般化すると、暴言を吐いても許される聴衆を獲得することができたということですね。こう言うとネガティブに聞こえるかもしれないけど、実はこれがないと、言論人も文化人も、おそらく政治家ですら、何も活動できない。
暴言を吐いても許されるというのは、要は一人の人間として見られているということです。「発言の一部を切り取るとすごく過激に聞こえるけど、この人はこういう文脈で話しているんだから、違う文脈と結びつけて批判するのはおかしいよ」と言ってくれる人たちを一定数もつこと。 ――ゲンロンの10年(2):人文系メディアのゆくえ
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レーニン=キノコ説。
幻覚キノコがボリシェヴィキ革命の一因?:ソ連崩壊の前夜に世を騒がせた珍説 - ロシア・ビヨンド
解説を試訳しました。この映画の音楽を作った人がのちにレーニン=キノコ説をでっち上げて流通させたのと同じ人だという件は自分は重要だと思うのだが要検証だ ――山本桜子 on Twitter
2020.6.24 wed.
自由意志のジレンマというものがあるという。
もし決定論が真ならば、だれも自由意志をもたない。
もし非決定論が真ならば、だれも自由意志をもたない。
したがって、だれも自由意志をもたない。 ――ジョセフ・K・キャンベル『自由意志』による
自分としては自由意志はないと決めてある。
自由意志があろうとなかろうと、人や社会のあり方が変わるわけではないとも思う。
ということであれば、あまり精密な議論に付き合う必要はない。
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日本の秋の味覚とされるマツタケですが、現在、年間で1000トンほど流通しているうち、国産は4パーセントあるかないか、です。これは、驚くべき数字ではないでしょうか? ブータンなんかからも入ってきているんですが、量的にはわずかです。輸入品の6~7割が中国で、あとは米国やカナダなどから輸入されています。一言で説明すれば、『マツタケ』は、世界から日本にやってくるマツタケのサプライチェーンが、いかに偶発的に構築されてきたかをあきらかにした本です。しかし、この偶発性がものすごいんです。 ――フリーダムか、アナキーか──「潜在的コモンズ」の可能性──アナ・チン『マツタケ』をめぐって|赤嶺淳 × 辻陽介 | HAGAZINE
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台湾の漢民族は、戦前(主に明末清初)から台湾に居住している本省人と、国共内戦で敗れた蒋介石率いる国民党軍と共に台湾に移住した外省人に分かれる。本省人が台湾で85%を占めており、本省人は福建(閩南)系と客家系に分かれる。外省人13%、原住民2%(タイヤル、サイシャット、ツォウ、ブヌン、アミなど14民族)。 ――台湾 - Wikipedia
2020.6.23 tue.
ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』を半分ほど読む。
動作を起こそうとする意図の自覚がまったくないまま、脳の中で無意識に自発的な行為を起こすことができるのです。つまり、脳が無意識に自発的なプロセスを起動しているのです。 ――『マインド・タイム』P.109
この「自発的な」が後半でどう論じられるか。
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「……この挿話からは、たとえ自ら見聞体験し資料化したものでなくても、書物から抜き書きされたものであっても、他でもないこの自分という主体が関わって「読み」、かつ文字にして「書く」に際して文脈を構築してゆく限りにおいてそれはひとつのリアルなテキストとして現前化し得る……」 ――king-biscuit on Twitter
2020.6.22 mon.
映画番組「金曜ロードショー」の OP。80〜90年代のものという。
【EWI】Friday Night Fantasy 吹いてみた【Trumpet風】 - YouTube
実写部分は日本の海のようだが、メインのモチーフである右下の影絵は欧米の海水浴場からのイメージではないか。海辺の更衣室、あるいはバンガロー。
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東アジアでは千年前から美白信仰は存在していたこと(白人崇拝や人種差別とは無関係に)、そのいっぽうで容姿や身分による差別は根深く存在していたこと、千年を経てそうした価値観は過去のものになったと証拠を示して教えられる、それこそが古典の醍醐味のひとつです。 ――たられば on Twitter
2020.6.21 sun.
誕生時点の人の思考、感情、行為は、すべて遺伝子と胎内での学習と環境からの刺激で決定されている。
その後の思考、感情、行為は、誕生時に存在した基礎の上に構築される。
人が自らを変えようとする時、その変化の目的と方法はそれら自体が、遺伝子と過去の学習と現在の環境からの刺激によって決まる。人がなり得る状態は、人がすでにそうである状態によって決定されている。
ランダムな要因を加えてみても、自由意志を授けたことにはならない。「ランダムな振る舞い」は「自由意志」ではない。
(参考: ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』序文)
素直に考えるなら、第1、第2ステップあたりで自由意志の有無についての判断はくだせるだろう、自由意志は存在しない、と。第4ステップまで進めば、結論はすでに確定といっていい。
それでも多くの人は自由意志の存在にこだわるだろう。
「人間は自由です。自由でなければなりません」
いや、そんなふうに言い切れるのは、「自由」と「自由意志」を混同してるから。
人間が自由であるとしても、それは自由意志によってではない。
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シュレーディンガーの『生命とは何か』は、巻末に至ってそれまでの脈絡をふいに打ち切り、「人間は自由である」と言い出す奇怪な書。その部分だけで言えばトンデモ本。
自分が読んだのは岩波新書だったが、文庫版のあとがきで訳者が自身の性体験(結婚)を持ち出して何か言ってるらしい。読むべし。
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ウェブなしでは何もできない。いや、ウェブというより、HTML か。
たとえば上のオーディオ。Twitter で流れてきたのだが、自分の Twitter や Tumblr でリブログしても、それもすぐ流れてしまうだろう。
Web というより HTML、人には呼んでもらえなくても、自分のブログに埋め込んでおけば再会の可能性は高い。
2020.6.20 sat.
2020.6.19 fri.
2020.6.18 thu.
『ピーター・パン』の作者、J・M・バリー氏が、ロンドンでデージー・アシュフォード嬢が九歳のときに書いた『若いお客さん』を紹介した。この本は僕たちをうっとりさせ、またおかしく吹きださせもした。アシュフォード嬢の巧まざるおかしさは、少々夢のおかしさに似ている。つまり彼女にはよく通じない会話をとおして、人間や物事でつくりあげた映像を、実物としてさしだしたり、また意味もよくわからない言葉や事実で、新しいメカニズムを組み立てることから起こる。
ここで『創造的進化』、精神分析学の作品、アインシュタインの著書などをらくらくと読みこなす超人を想像してみよう。彼は心の底から楽しむにちがいない。決定論、終末論、進化主義、精神分析学、相対性理論のなかに、僕たちがアシュフォード嬢の作品に発見する、同じようなきてれつさを見出すことであろう。 ――ジャン・コクトー「ピカソI」(佐藤朔訳)
わたしの考えでは歴史学者より神話学者をとりたい。ギリシア神話というのは、うち込んでみると「歴史」のさまざまな歪曲や単純化などよりもずっと面白い。神話の嘘に現実は混ざっていないが、「歴史」は現実と嘘との混ざりものだからなのである。「歴史」の現実は嘘になるが、作り話の非現実は真実になる。神話に嘘はありえない。 ――コクトー「つくり話がすぐれていること」(鷲見洋一訳)
パリが解放された夜のこと、ジャン・コクトーはパレ=ロワイヤルの友人の家でラジオに聴きいった。ラジオの声は哲学者のジャック・マリタン。彼はニューヨークのスタジオからパリにいるフランス人の現状を語っていた。
マタリンが描き出す光景はわたしたちの本当の姿とは似ていなかった。マリタンはわたしたちの姿を美化して、わたしたちにまでそれを信じ込ませようとしていた。そしてマリタンは正しかったのだ。ニューヨークはあれよあれよという間に歴史的真実をわたしたちの真実と入れかえてしまった。バスチーユ奪取についても同じである。あれは語り伝えられているほどのものではないし(チュイルリー宮占領に比べればたいしたことではない)、だいいちルイ十六世にしたところで、いずれギロチン大通りになるアラゴ大通り近くの、現在はメシャン街があるあたりで兎狩をしていて、そんなことは知らなかったのだ。それなのにわたしたちは性懲りもなくバスチーユ奪取を祝いつづけている。 ――「作り話がすぐれていること」
コクトーの自由意志論。
自由意志というものはない。それなのに、あるかに見えてしまうのは何故か。
人間は、自由に選択するのだと思っているが、それは、人間が自分勝手にばらばらにした選択肢のあいだで迷うからである。それらの選択肢は一体をなすものなのだ。右に行くべきか、左に行くべきか。どちらでも同じことなのだ。二つの道は、互いに合致しているのに、意地悪いことに矛盾しているように見えるのである。そのために人間は、実は正しくもないし間違ってもいないのに、正しいだろうか、間違っているだろうかと自問する。また、自由でないのに、相反する方向の一方を選ぶように見えるのだ。 ――「目に見えないものについて」(高山鉄男訳)
選択肢があるように見える。
あるように見えるから選ぼうとする。または選ぶ。または迷って選べない。
それらの経験が自由意志の幻影を呼び起こす。
自由も自由意志もないのに、あるかのように思い込む。
2020.6.17 wed.
尊敬すべきものは三つしかない。、すなわち、
僧侶、軍人、詩人。知ること、殺すこと、創造すること。
それ以外の人間は、人頭税を課し、賦役を課すための人間。厩につなぐための、すなわち、いわゆる職業に従事するための人間だ。 ――ボードレール「赤裸の心」(矢内原伊作訳)
フランクリンが嫌いなら、たんに「フランクリンのごとき卑劣漢」と言えばいい。
彼が卑劣であることを証明する必要はない。
必要なのは証明ではなく描写、あるいは提示の仕方。
主な人物たちは、倦怠と憂愁 ( メランコリー ) の境に達したドン・ジュアン 、――その家僕の長 、あるいは差配人 、(…)冷たくて、分別があり平凡で、絶えず美徳と経済のことばかり口にしている人物。好んでこの二つの観念を結びつける。――フランクリン流の知性みたいなものをもっている。フランクリンのような卑劣漢。没落する貴族階級にやがて取って代る、未来のブルジョワジーだ。 ――ボードレール「ドン・ジュアンの最期」(阿部良雄訳)
ここにはフランクリンが卑劣漢であることの証明はなく、どのように卑劣かの直接の描写もないが、彼が卑劣な人物であることは伝わってくる。
2020.6.16 tue.
清 (…)今の香港の民主化運動の若者の中で暴力闘争路線の連中って、基本的に香港民族主義者で、しかもレイシスト なんですよ。「中国人は死ね」とかフツーに云う連中なんだ。
そもそも香港の運動家たちは、〝支那〟って云うんです。調べてみたら案の上、日本から逆輸入された言葉だった。もともと中国人も香港人も〝支那〟って言葉はそんなに使ってなくて、日本で侮蔑的な文脈で使われるようになってたのを、香港の運動家たちが逆輸入して使うようになったんです。(…)
沢村 香港の民主化運動の取材を始めた時点では、清さんもべつに中共支持ってわけではなかったでしょ?
清 もちろん今でも中共なんか支持してませんし、〝民主化運動支持〟ですよ。
沢村 ところが実際に現場に行ってみたら……。
清 だんだん〝オカしいぞ?〟って。しかも中国語を習い始めて、彼らが云ったり書いたりしてる内容がおおよそ分かるようになってくると、ますますオレが思ってたのと全然違う ことが分かってきて、こいつら単なるレイシストじゃん、と(笑)。
外山 やっぱアレだな。日本でも香港でも、要は人民がイカン よ(笑)。 ――コロナ問題の第一人者!? 清義明氏に訊く 2020.05.07(その3)|外山恒一|note
2020.6.15 mon.
ほんとうの実業家が金を儲けるのは、その金でなにかを購入し、享受するためではないし、光輝ある暮らしをするためでもない。実業家は、自分のためにも、家族のためにも働かない。儲けた金は投資するためのものである。これを増殖以外の目的で使ってはならない。 ――ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳)
わたしは、無数の豚の群れの真ん中で潰される夢を見ている農夫たちを思い描くことができる。同じようにアメリカに住む富裕者たちが飢え始め、法外な資本のもとで貧しくなる様子を想像できる。「雌豚の比喩」はこの奇妙な錯誤を図解するものだ。資本(capital)という語そのものが、その語源からして、移動し、生産するもっとも素朴な富、すなわち頭(capita)で構成された群れを指し示している。 ――同前
バタイユはウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の論旨と結論を受け容れている。
結論の是非は措くとして、『プロテスタンティズム――』の論旨はどうなのか。怪しげなのだが。
2020.6.14 sun.
レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』(原題: Something Wicked This Way comes)は、二人の少年の前に避雷針売りの男が現れるところからはじまる。
登場の仕方から考えると、この避雷針売こそ邪悪な何者か(something wicked)を象徴あるいは体現する人物でなければならないのだが、その後のストーリー展開のなかで何かの役割を果たしたり重要な意味を担ったりすることは全くない。たまに、邪悪な一味によって小人に姿を変えられた人物として言及されるだけ。
すなわち当初の構想どおりには描ききれなかった人物。かりに被害者として構想されていたとしても、造形をあきらめてしまった点では同じ。
避雷針売りの世間的イメージからすれば、『何かが――』の避雷針売も詐欺師的人物として構想されたと見たい。
アメリカの避雷針売り、日本の竿竹屋。
従来より、自動車で巡回販売しているため販売者について知ることができず、購入後に商品の不具合に気が付いても苦情を言ったり交換したりして貰えないなどの問題があった。また、客のほうから販売者を呼び止める形式のため、クーリングオフ制度が適用されず消費者保護の点での問題もある。近年では、安価な値段を提示し購入を呼びかけるものの、客が実際に声を掛けると法外な価格での購入を迫る恐喝まがいの事案が各地で多発するなど、社会問題となっている。 ――竿竹商法 - Wikipedia
2020.6.13 sat.
これからの――ポスト・パンデミックの――世界は、今まで目に見えなかった、あるいは、たんに見えないというだけの理由で無視されてきた地球上の生命存在たちがけなげに自己主張する時代が到来すると思います。生命体という有機物が細胞膜を距てて嬉々として交感し合っているのです。 ――わがポスト・パンデミック――烏化佯仙(うかしょうせん) - 野口武彦 公式サイト
政治や社会に腹を立てずに済ますには。
どうせ人類はいつか滅びる。
その前に自分も死ぬ、たぶん人類の滅亡よりずっと前に。
そうと知ったら
みなし児も
帰化した人もせぬ人も
旅のお方も
輪になって踊れ
国家に国家元首の要る(居る)訳。
佐藤 (…)フランス革命の後の国家というのはどのような形になったかについて、ヘーゲルの発想で重要なのは、僕はやはり「受肉」だと思います。観念が具体的な形を取る。結局は、一時期、ヘーゲル自身もナポレオンを「世界精神」と誤認したわけですね。必ず何らかの形で人の形を取らないといけない。この問題があるわけですよね。
的場 君主という形を取る。
佐藤 それは君主であっても、共同的な支配体制であっても、基本は一緒だと思うのです。誰かを指導者に想定して、具体的な人格にそれが体現するということであれば。
的場 プロイセン国王がプロテスタント的なものの代表者として存在している。 ――的場明弘・佐藤優『復権するマルクス』
2020.6.9 tue.
パンデミックの教訓は、次のパンデミックのためにとっておこう。CPは、緊急事態宣言やロックダウンと同様に、緊急事態をしのぐためのルールでしかない。このタブーは平時には「有害」である。それは対話を、関係を、そして物語を毀損するからだ。たとえあなたがCP的世界を意外なほど快適であると感じていたとしても、CPそのものはポストコロナの日常においては有害な価値規範となりうる。 ――コロナ・ピューリタニズムの懸念|斎藤環(精神科医)|note
2020.6.8 mon.
2020.6.7 sun.
2020.6.6 sat.
2020.6.5 fri.
何人かの血迷った兄弟たちが、印刷機を打ち壊した。諸君は〈革命〉の道具を破壊することになる。(…)他の労働者たちが抗議した。中でも「作業場」紙の執筆者たちが。 ――ボードレール「サリュ・ピュブリック」(阿部良雄訳)
暦とは歴史的意識の記念碑 ( モニュメント ) であるが、ヨーロッパではこの百年来、そういった歴史意識のほんのわずかな痕跡ももはや残されていないように思われる。七月革命の時にはまだ、こういった歴史意識がそれにふさわしい現れ方をした偶発事が生じていたものだった。戦闘が行なわれた最初の日の晩がやってきたとき、パリのいくつかの場所で、お互いに無関係に、しかも同時に、塔の時計に向けて発砲するという出来事があった。 ――ベンヤミン「歴史の概念について」(山口裕之訳)
物そのもの機能より、それらの象徴するものに目がいったのだろう。
ボードレールの報告は2月革命(1848年)の折。
ベンヤミンが述べているのは7月革命(1830年)時の出来事。
2020.6.4 thu.
冷たくて、分別があり平凡で、絶えず美徳と経済のことばかり口にしている人物。好んでこの二つの観念を結びつける。――フランクリン流の知性みたいなものをもっている。フランクリンのような卑劣漢。没落する貴族階級にやがて取って代る、未来のブルジョワジーだ。 ――ボードレール「ドン・ジュアンの最期」(阿部良雄訳)
フランクリンのような卑劣漢!!
「ドン・ジュアンの最期」はオペラ台本の草案。台本は書かれずに終わったらしい。上の引用部分はドン・ジュアンの家僕長あるいは差配人の人物設定。
この差配人は(…)主人の事業を管理しているうちに産を成したのであり、主人が自らの差配人に対しまた金に対し明らさまに示す侮蔑のゆえに、彼は主人を忌み嫌っている。 ――同前
マックス・ウェーバーの書に読者が見出す慰め。
勤勉は善である。その勤勉が資本主義をつくった。したがって資本主義は善である。だからわたしは悪くない。
2020.6.3 wed.
国民経済学は、就業していない労働者、その労働関係の外部にいる限りでの労働人間を認めない。泥棒、詐欺師、乞食、失業者、飢えている労働人間、窮乏した犯罪的な労働人間、これらは国民経済学にとっては 実存せず、ただ他の者の目にたいしてだけ、すなわち医者、裁判官、墓掘人、乞食狩り巡査などの目にたいしてだけ実存する者ども であり、国民経済学の領域外にいる亡霊たちである。 ――城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』
ルンペン・プロレタリアート――マルクスの喉に刺さった魚の骨。
『経済学・哲学草稿』を雌型として、『三文オペラ』がそれに対応する雄型であること - Magazine Oi!
BOOKOFF に、なぜか岩波文庫のレーニン『唯物論と経験批判論』中・下があって、110円 × 2 = 220円で入手。「なぜか」というのは、2〜3年前に古書市で上を買ってあったから。これにて上・中・下の全巻がそろう。
古書市といえばやはり同じころ、50円コーナーに大月書店版の『資本論』があり、端本でも50円なら読んでみるかと手に取ると、ほかにも『資本論』があって拾い集めると1〜5巻の全巻そろい。50円 × 5 = 250円のハードカバー美本、たぶん『マルクス=エンゲルス全集』から切り出した同一版。問題は、いつかこれらを読むことがあるのだろうか。
その日、札幌での「こまどり姉妹、とその時代」というイベントのトークセッション、こまどり姉妹ご本人を前にしての公開聞き書きという趣向で、民俗学者の赤坂憲雄さんと共に朝倉さんもお呼びしていた。
それが一週間ほど前から連絡がとれなくなり、当日も待てど暮らせど姿なし。いや、実は朝倉喬司さん、このところ行方不明でして、きっと北上の途中、函館か青森あたりのあやしげな界隈でまた沈没してんだと思います、と舞台からは詫びの口上、客席もドッと笑って許してくれる一幕。それが、ああ、ほんとに逝っちゃってたとは。 ――追悼・朝倉喬司 - king-biscuit WORKS
そういうことがあったのか。
こまどり姉妹を囲んでのトークが札幌で予定されていたことは、ネットの情報で知っていた。朝倉が出るというので続報を待っていたら、来なかったとの報。二、三日して死が伝えられた。
2020.6.2 tue.
2020.6.1 mon.
ニーチェの限りなく孤独な詩情――と、キリコは言っている。
躁状態が基調みたいなニーチェのどこからそれほどの詩情が引き出せるのかと思うのだが、ともかく感じるところがあったのだろう。キリコのいわゆる「形而上絵画」は、その詩情に触発されて描きはじめられたものという。
この新しさとは、情調にもとづく奇怪な、奥深い、神秘的で、限りなく孤独な詩情なのである。……この詩情は、私に言わせれば、秋の午後の情調にもとづいている。その頃には、空はきよらかで、かげは、夏のあいだよりも長くのびるようになっている。太陽が低くなりはじめているからだ。この異常な感覚は、イタリアの町々や、ジェノヴァやニースなどという地中海沿岸の町々で味わうことが出来る。(もちろんそのためには、私が持っているような、例外的な能力を持つというしあわせを与えられていなければならないが) ――『キリコ回想録』(粟津則雄『思考する眼』による)
秋の、ある午後の謎