oi-quot no.6

[2020.8.1 - 2020.8.31]

2020.8.31 mon. #posttruth link

客観的事実といえる情報よりも感情に訴えかける情報の方が強く世論を動かしていくような情勢、世の流れを指す表現。英語では post-truth age(ポスト真実の時代)のように形容詞として用いられる。 ――ポストトゥルース(ポストしんじつ)とは何? Weblio辞書

真実が暴かれるや否や、嘘をついた側は糾弾され、釈明に追われるのが、これまでは普通だった。しかし昨今では嘘の証拠を突きつけられても、嘘をついた当人は全く動ずることなく、それによって支持者を失うこともない。 ――ポスト・トゥルースを突き抜ける新しい哲学の挑戦(浅沼 光樹) | 現代新書 | 講談社(1/5)

全ての人間はフィクションを生きている。人間はフィクションを通して現実に触れている。フィクションが認識を規定し、フィクションが人間を規定している。世界とはフィクションを通して触れられた現実の名であり、時代とは、変わり続ける世界≒フィクションの、ある特定の瞬間に与えられた名のことである。 ――樋口恭介『すべて名もなき未来』

「歴史」の現実は嘘になるが、作り話の非現実は真実になる。神話に嘘はありえない。 ――ジャン・コクトー「つくり話がすぐれていること」(鷲見洋一訳)

むかしこのころの事ども人に欺かれしを、我またいつわりとしらで人をあざむく。よしやよし、そらごとかたりつづけてふみとおしいただかする人もあればとて、物いひつづくれば、なほ春さめはふるふる。 ――上田秋成『春雨物語』序文

秋成を論じて野口武彦が言うには、

もし正史が偽史を抱えこんでいるのだったら、それに接するに疑史の態度をもってし、さらにそれに対置する戯史をもってしてもいっこうにかまわないではないか。どうせ歴史は落丁だらけである。だとしたら、歴史の意図的な乱丁をもってそれと拮抗してどこが悪いというのか。歴史の頁をいったんばらばらにしてまた綴じ直すのに、何の問題があるというのか。 ――野口武彦「歴史の落丁と物語の乱丁」(『秋成幻戯』所収)

フィクションの意義について考えること。
虚をもって実を撃つ言論の有効性を右翼は心得ている。

2020.8.30 sun. link

よくわかんねえけど。デストロイ・キャピタリズム、おれも列に並ぶか。 ――横浜アソビル『バンクシー展』へ行くのこと - 関内関外日記
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マルクスの思想の出発点に、ユダヤと商業に対する嫌悪がある。

ユダヤ教の現世的基礎は何か? 実際的な欲求、私利である。
ユダヤ人の世俗的な祭祀は何か? あくどい商売である。彼の世俗的な神は何か? 貨幣である。 ――マルクス「ユダヤ人問題によせて」(城塚登訳)

感情は誤りにくい。マルクスの社会・経済理論が誤っているとしても、この嫌悪は信じていい。言うまでもないが、マルクスの言った内容が信頼できるというのではなく、それを言ったマルクスの感情――ユダヤと商売に対する嫌悪――は信じられるということ。

2020.8.29 sat. link

プロレタリアートであれブルジョワジーであれ、諸階級を、そして歴史を横断してあらゆる時空に出現するという意味で「階級-外(hors-classe)」にある「ルンペンプロレタリアート」というこの融通無碍な〈科学的虚構(science-fiction)〉のごとき仕掛けが、逆に「階級」(また「貧困層」および「富裕層」)の規定を可能にし、「進歩」や「必然」と呼ばれる歴史法則をめぐる知(科学)を支えているのではないか。プロレタリアートにせよブルジョワジーにせよ、そうした「階級」は「ルンペンプロレタリアート」という仮想された零座標からの距たりにおいて対位法的または反照的に析出されるのだとすれば? そもそも「歴史には法則があり、科学的に把握可能である」という確信を支えるのは「ルンペンプロレタリアート」ではないか。そしてマルクスもまた、賃労働者を雇って紡績工場を経営していたエンゲルスに寄食して資本制の仕組みの解明に没頭した「ルンペンプロレタリアート」のひとりではなかったか。 ――松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス』

この論、ジャック・ランシエールの「手品によって消された革命」(『哲学者と彼の貧者たち』所収)によるとのこと。
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昔は、妖怪と幽霊は同じカテゴリーで、特段の区別がなかったらしい。昨日の会議で知ったのは、昔は妖怪と幽霊に加えて変質者や殺人鬼、ある種の病人も同じ区分で、つまり妖怪というジャンルには人間そのものも含まれていたようなのだ。
(ぬりかべとお菊さんと大久保清が、全部一括りということ) ――三一十四四二三 on Twitter
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考えごとをするために、朝歩いていると、植物が絡んだ「簡易小便器」が道端に落ちている。連想したのが「朝顔やつるべ取られてもらひ水」…井戸に朝顔が咲いて水が飲めないこともあれば、小便器を取られて立ちションしたりする…今日見た景色。 ――Jun Hirabayashi (平林 純) on Twitter

2020.8.28 fri. link

2020.8.27 thu. link

2020.8.26 wed. link

台湾のひまわり学運を支持する柄谷の姿勢は、儒教を構成原理とする「中華帝国の原理」を肯定する最近の言論活動とどう考えても相互に矛盾をきたすはずだ。例えば、『現代思想』2014年3月号(特集:「いまなぜ儒教か」)の丸川哲史との対談で柄谷は、むしろ丸川と非常に近い立場から中国的な、ネーション=国家=資本とは異質な、「儒教」を核とする中華帝国的な秩序を全面的に肯定する発言を行っている。つまり、柄谷の一連の発言を虚心に読む限り、政治的に中国を擁護し、台湾ナショナリズムを批判する丸川との対話では中国の帝国的秩序を肯定し、一方中国に批判的な台湾知識人との対話ではヒマワリ学運を持ち上げる発言を行うという、どう考えても「二枚舌」としか言いようのない言論を展開しているわけだ。
これを、単に柄谷が節操のない奴だ、ということで片づけることは簡単だろう。だが、僕は問題の根はもう少し深いと思っている。 ――台湾のひまわり運動と柄谷行人の「無節操」、あるいは実体化される「アジア」 - 梶ピエールのブログ

関連: 8月19日記事

巡りあわせか、柄谷関連の記事が多い。次も。

権力なき共生はいかに可能か。マルセル・モースに端を発し、ポランニーを経由して、柄谷行人の交換様式論にいたる流れを追い、マルクス、ワルラスらの理論的探求、グレーバー、J・C・スコットらの実践的展望を援用しつつ、贈与のモラルを内包した交換様式の実現に来たるべき社会の構成原理を見出す。モースをアナキズムの文脈へと置きなおし、『贈与論』のアクチュアルな可能性を明らかにして変革への道筋を描き出す、渾身の書下し。 ――可能なるアナキズム─マルセル・モースと贈与のモラル 山田広昭(著/文) - インスクリプト | 版元ドットコム

2020.8.25 tue. link

2020.8.24 mon. link

もろもろの経済学者たちの本を見ると、あるページには、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから労働者はそれを資本家に感謝すべきだ、と書いてあり、次のページには、労働者は一〇時間ではなく今後は一五時間働いてこの感謝を表さなければならない、と書いてあるのである。労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである。 ――『資本論』1-p.340

「労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分」とは、労働者が自身の生活費をかせぐために行う労働の部分。

引用は大月書店刊『マルクス=エンゲルス全集』の紙型を流用した5冊本『資本論』(1968年)から。ただし「1-p.340」としたページ番号は原著のディーツ社版の巻数とページ番号。このほうが他の版の読者にも通じやすそうなので、今後の引用も同様とする。
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L. de Koningh Aqueduto das Águas Livres - Aqueduto das Águas Livres - Wikimedia Commons
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小林信彦『合言葉はオヨヨ』に出てくる香港警察の刑事は、ことあるごとにポケットから『毛沢東語録』を取り出して音読する。行動指針にしているのだという。(関連記事

2020.8.23 sun. link

主な人物たちは、倦怠と憂愁メランコリーの境に達したドン・ジュアン、――その家僕の長あるいは差配人、レポレロとかスガナレルとかいうのとは違うものにしたいが、冷たくて、分別があり平凡で、絶えず美徳と経済のことばかり口にしている人物。好んでこの二つの観念を結びつける。――フランクリン流の知性みたいなものをもっている。フランクリンのような卑劣漢。没落する貴族階級にやがて取って代る、未来のブルジョワジーだ。 ――ボードレール「ドン・ジュアンの最期」(阿部良雄訳)

ここで卑劣な人物とされているのはドン・ジュアンの家僕長。
フランクリンの名は比較のため持ち出されただけ。
とはいえ、フランクリンの重みを見逃してはいけない。
フランクリンのごとき卑劣漢という喩えを他の卑劣漢に適用すると、

  フランクリンに劣らぬ卑劣漢A
  フランクリンほど卑劣ではない卑劣漢B
  フランクリンの倍は卑劣な卑劣漢C

など、卑劣さの程度をフランクリンを規準にして表わすことができる。
なぜそんなことが可能になるか。ボードレールのいうフランクリンとはベンジャミン・フランクリンのことだが、そのフランクリンが事実として卑劣漢だからである。フランクリンこそ典型的卑劣漢であり、典型ゆえにフランクリンは卑劣の規準として機能する。――いや、そのように思わせるのが「フランクリンのごとき卑劣漢」というレトリックの効果で、表向きはドン・ジュアンの家僕長を非難しながら、ボードレールの矛先は実在のフランクリンに向けられている。ただしボードレールは、フランクリンが卑劣であることの裏付けを述べるつもりはないだろう。そんなことをするまでもなく、フランクリンが卑劣な人物であることは誰もが知る事実なのだから。

ボードレールはほとんど読んだことがない。
フランクリンはまったく読んだことがない。
にもかかわらず、ボードレールの教唆に乗ってフランクリンを貶めたい気持ちがある。

2020.8.22 sat. link

2020.8.21 fri. link

2020.8.20 thu. link

#文章術
クィックリー夫人 - Wikipedia

マダム・クイックリーは『ヘンリー四世』他いくつかのシェイクスピア劇で居酒屋の女主人として出てくる人物。上の図では、下部中央で hostes(おかみ)と書かれているのがそれ。
シェイクスピア劇から人物や台詞を召喚して比喩などに使うのはマルクスの文章術。マダム・クイックリーの名は『資本論』の開巻まもない第1篇第1章で出てくる。

伊坂幸太郎『マリアビートル』の殺し屋は、きかんしゃトーマスの台詞を暗記していて、機会あるごとに警句などとして持ち出す。
おなじく『グラスホッパー』の殺し屋は、古典の文庫本を背広の内ポケットに入れていて、殺しの前に読みふけったりする。殺し屋は小説と呼べるものはそれ以外読んだことがなく、壊れると買い替えて今が5冊目という。まもなく殺されることになっている被害者がその背文字を見て、タイトルを逆さに読むと『つばみつ』になるのだと教える。

2020.8.19 wed. link

台湾の政治に影響を与えうる日本の思想家という文脈で柄谷行人が話題になっている。
2014年のひまわり運動に柄谷が共感を示したころからの評価らしく、すでに旧聞的なことのようだが、最近の東洋経済オンラインでオードリー・タンが柄谷の影響を語ったことで再浮上してきたものか。

- 台湾の超天才「唐鳳」が語るデジタル教育の本懐 | 東洋経済education×ICT | 東洋経済オンライン
- 台湾デジタル大臣「唐鳳」を育てた教えと環境 | 東洋経済education×ICT | 東洋経済オンライン

オードリー・タン(唐鳳)は蔡英文政権の無任所閣僚。
- 唐鳳 - Wikipedia

もしかして、オードリー・タンのオードリーって「鳳」の日本語読みか?

柄谷は中国について、「周辺国のことは、あからさまに敵対しない限りほうっておく無難な帝国」といった見方をしてたはずだが、今はどう考えてるのか。

2020.8.18 tue. link

マルクスの商品論では、商品の価値は生産に費やされた労働の量によるとされる。
この労働価値論を岩井克人の『貨幣論』は否定する。
否定の手順は次のとおり。

まず、マルクスが
  20エレのリンネル=1着の上着
という等式から出発して貨幣の誕生に行きついた過程をそのままたどってみる。
すると最終段階で論理に飛躍のあることがわかる。
その飛躍を岩井の考えたモデルで埋めると貨幣の存在理由が変わる。貨幣は貨幣であるゆえに貨幣であるという理由に変わるのであり、このモデルでは貨幣は自身の存在理由を必要としない。
マルクスの論証では、最後に貨幣の地位を占めるものは何らかの商品――マルクスの論では金銀――でなければならないが、このような貨幣商品論は岩井のモデルでは無用で、したがって論理の過程を一貫して支えてきた商品の労働価値論も無用になる。
このように、無用のものとされることで労働価値論が否定される(*)。
否定作業の仕上げとして岩井は、マルクス『経済学批判』の一節「鋳貨 価値の章標」やそれを要約した『資本論』の記述において、マルクスがその論理的徹底性のゆえに自身の意図を踏み越えてしまったことを指摘する。いわく、

「本物」とその「代わり」とを厳密に区別することによって光りかがやく金塊や砂金に「本物」の貨幣としての地位を確保しようとする「価値記号論」のこころみが、まさにその首尾一貫性ゆえに価値形態論の論理装置を作動させ、金の「代わり」でしかないはずの鋳貨や紙幣がそれ自体「本物」の貨幣として流通しているという結果をみちびいてしまうという逆説である。マルクスのすべての出発点であった労働価値論は、マルクスの意図に反してマルクス自身の手によって葬りさられてしまう運命にあるのである。 ――岩井『貨幣論』p.116

労働価値説の呪術めいた命題が不審で、『資本論』をどう読むか迷っていたが、『貨幣論』のおかげで労働価値説を受け入れなくて良いことがわかる。
『貨幣論』の論理を肯定的にトレースしながら読めば、目標の『資本論』第1部第1篇は通過できそう。

(*)呪術的命題を論理で正面から否定するのは難しい、または不可能。その命題が無用であることをもって、否定したとする。

2020.8.17 mon. link

自然は真空をきらい、人間は空虚をきらう。貨幣商品説も貨幣法制説も、結局、貨幣という存在の中核にある空虚に耐えることができずに、それをなんらかの実体で埋めつくそうとするこころみにすぎない。「神話の目的」とは、本来的に解決不可能な「矛盾を克服してしまうための論理的なモデルを提供することである」と、どこかでレヴィ=ストロースは書いている。貨幣商品節も貨幣法制説も、まさにこの意味での「神話」にほかならなかったのである。 ――岩井克人『貨幣論』p.106

ページ番号は、ちくま学芸文庫(1998年)。今後の引用も同じ。
経済学者はそうしたし、人もそうしたということ。
人は事物の――あるいは自らの――根拠の不在を、なんらかの思弁で埋めようとする。

われわれは、何か説明をつけずにはいられない気持ちと、胸苦しい不安に駆られて、実存の意味を否応なしに探し求めようとしているのであるが、おそらくこれは遺産として受け継いだものなのであろう。この胸苦しい不安こそ、すべての神話、すべての宗教、すべての哲学、そして科学そのものを創造したのである。 ――ジャック・モノー『偶然と必然』(渡辺格・村上光彦訳)

「遺産として」とは、人類の誕生以来の進化の結果としての意。

2020.8.16 sun. link

個々の商品は、まず貨幣と交換されるために商品世界に参入し、貨幣と交換される瞬間にその商品性を実現し、そして貨幣と交換されおわったときから消費や生産に使用されるために商品世界から退出しはじめる。(ここでは、中古品の再販は無視しておこう。)それは、いささか逆説的に、じぶんたちの世界であるべき商品世界全体の立場からは、そのたんなる一時的な客人という意味での客体にすぎない。 ――岩井克人『貨幣論』p.64

『資本論』の入門書をあれこれ眺めてるが、適当なのがない。
解説書というわけではないが、この『貨幣論』に手引きしてもらえるかもしれない。
最初の一、二章が通過できない自分には向いてそう。
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数学者のイーゴリ・タム(25)が、ロシア・ウクライナ内戦で敵兵に捕まる。自分は数学者だと説明したところ、「マクローリン級数を第n項で割ったときの余りが何か答えられなければ銃殺する」と言われ、震えながら正解を答えて解放される。敵兵が誰かは不明。 =百年前新聞社 (1920/08/15) ――百年前新聞 on Twitter

ガモフ著作" My World Line"は脚色が多く、「タムの思い出(1995)」によれば、「タムは解くことができなかった」「タムが敵兵に、解いて欲しい、と言うと」「敵兵は、もう解き方を忘れてしまった、私が大学を中退してからもう3年目になるんだ、と答えた」…とのこと。 ――Jun Hirabayashi (平林 純) on Twitter

プガチョーフは、ヴォルガの岸ぞいに逃走した。そこでかれは、天文学者ローヴィツに出会った。そして、かれは一体なにものであるかとたずね、ローヴィツが天体の運行を観測していると聞くと、「なるべく星に近いところに」吊るしてやれと、命じたものである。その地にいた助手のイノホーツェフは、逃亡に成功したのだった。 ――プーシキン『プガチョーフ叛乱史』(草鹿外吉訳)

2020.8.15 sat. link

車の間をすり抜けて走ります。
全員が略奪者です。
ものすごい数の人です。
アメリカ・イリノイ州のシカゴで大規模な略奪が発生しました。
全員が略奪者です。
全員が略奪者です。
全員が?
全員がものすごい数の人です。

2020.8.14 fri. link


9日夜、アメリカ・イリノイ州のシカゴで大規模な略奪が発生しました。車の間をすり抜けて走る、ものすごい数の人。全員が略奪者です。 ――日テレNEWS24

シカゴ警察によると、数百人の暴徒がダウンタウンの繁華街に車で乗り付け、大手百貨店メーシーズなど店舗数十軒の窓やドアを破り、商品を持ち去った。警官に向けた発砲事件が発生したほか、民間人2人が撃たれ病院に運ばれた。10日昼(日本時間11日未明)の時点で死者は出ていない。
事件を受けて閉鎖したダウンタウンへの交通は10日午前8時に再開したが、10日夜に再び閉鎖する。 ――日本経済新聞

暴動のきっかけは、銃を持った男(20)と警官らの撃ち合いだったようだ。警察は9日午後2時半ごろに通報を受けて出動。男は逃げながら発砲し、警官らが撃ち返した銃弾で負傷した。病院へ運ばれたが命に別条はないとされる。警官3人が経過観察のために搬送された。ブラウン氏によると、男には強盗や家庭内暴力など4件の犯罪歴があった。 ――CNN.co.jp

シカゴでは今年、凶悪犯罪が急増している。今月2日現在で殺人事件450件(昨年同期比55%増)、銃撃事件1804件(同48%増)が起きている。 ――読売新聞オンライン
――――

民衆であるおれが記憶することを知るとき、民衆であるおれが昨日の教訓を活かし、去年おれから奪ったのは誰か、おれを馬鹿扱いしたのは誰かということをもはや忘れなくなったとき――そのときにこそ世界じゅうでこの「民衆」という名を、嘲りのまじった声で、または遠回しの軽蔑をふくんだ微笑をもって、口にする者はなくなるだろう。

暴徒――群衆――大衆――はそのときこそ到来するだろう。 ――カール・サンドバーグ「おれは民衆だ、暴徒だ」(安藤一郎訳『シカゴ詩集』)

2020.8.13 thu. link

ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、その価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。 ――『資本論』p.52

同様のことを証明のないまましつこく繰り返すのが不審だったが、このことはマルクスにとって前提であり出発点。万有引力の法則を、ニュートンは証明したのではなく発見した。それと同じく、マルクスにとって「商品の価値の大きさは費やされた労働の量による」は、子供でもわかる自明の法則だったということ。
常識的なことを知るのに手間取ってしまうのが独学の難点だが、まあ仕方ない。
問題は、この法則が自明には見えない者として、進むか引くか。
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シカゴの跳ね橋。

Vi Nguyen on Twitter

Tony Chuck 🇺🇸on Twitter

Ill Will Editions on Twitter

2020.8.12 wed.

金価値がどのように変動しようと、さまざまな金量はつねに互いに同じ価値関係にある。金価値が1000%下落したとしても、12オンスの金は相変わらず1オンスの金の12倍の価値をもっているであろう。 ――『資本論』第1部第1篇第3章第1節

マルクスには数理の感覚が欠けている。
金の価格が1000%下落するとは、最初の価格が1グラム5000円の場合、下落後は1グラムがマイナス4万5000円になる。
つまり下落後の価格で金を1グラム買うと、金のほかに4万5000円のカネが付いてくる。
この1000%が誤記だったとは考えにくい。この文脈で妥当な下落率は10%からせいぜい50%まで。100%以上でも論理は通るが、例としては馬鹿げてる。

2020.8.11 tue.

金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的な化身である。 ――『資本論』第1部第1篇第2章

マルクスの呪物信仰が込められた箇所。人々の呪物信仰ではなく、マルクスの呪物信仰。
美しすぎる命題は体系の急所である。そこをつつくと体系が崩れる。
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hklemontea on Twitter

清義明 on Twitter

「27年ぶん」とは、一国二制度が維持される約束だった2047年まで、まだ27年残っていたとの意。
「攬炒」については以下。
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潮語從來難找對應翻譯,「攬炒」較相近的英文是suicide attack(自殺式攻擊)或to cut off your nose to spite your face(切掉自己個鼻去毀掉自己面容),I might lose, but I’ll take you down with me或I die, we both die!,都是「攬炒」的醜惡邏輯思維。 ――「虎」學英語——抹黑 攬炒 爆seed | 頭條日報

//成語「玉石俱焚」,基本上等於香港抗爭潮中的一個潮語:攬炒。
玉石俱焚有 mutual destruction 兩敗俱傷之意,當然不可以直譯做 jade and stone burning together,用英文道來,是指 something must be done whatever happens, 有為達目的不擇手段、不惜一切代價的意思:at any cost、at all costs、whatever the cost。 ――Claudia Mo/毛孟靜 - #用英文講「#攬炒」#明報 英文 English | 毛孟靜... | Facebook

「自殺式攻擊」、「玉石俱焚」とあり、感じはわかる。
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包子的加速主義 on Twitter
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1848年の「自由貿易問題についての演説」と題する演説におけるカール・マルクスを含め、多くの哲学者が明らかに加速主義的態度を表明している。

しかし、総じて、今日の保護貿易制度は保守的である一方で、自由貿易制度は破壊的です。自由貿易制度は古い国民を解体し、プロレタリアートとブルジョアジー間の敵対心を極限まで押し進めます。一言で言えば、自由貿易制度は社会革命を促進するのです。この革命的な意味においてのみ、みなさん、私は自由貿易を支持して投票するのです。

同様に、フリードリヒ・ニーチェも次のように述べている。「ヨーロッパ人の平準化プロセスは、咎められるべきではない素晴らしいプロセスだ。これはむしろ加速されるべきである…」。この言明はしばしば、ドゥルーズ=ガタリにならって、「プロセスを加速する」命令だと解釈される。 ――加速主義 - Wikipedia

2020.8.10 mon.

天使の練習帳を手入れ。神学の項の書き換え、他。
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今のアメリカで起きているデモの暴力に関する報道を見て驚いている日本人は多いと思いますが、この情報も見て下さい。ミネアポリスで暴力を起こしている人の多くは別の州から来ている「暴力観光者」白人優越主義者団体のメンバーのようで、これをきっかけに悪いいたずらをしているようです。 ――ロッシェル・カップ @JICRochelle · 5月31日

私は今日新しい言葉を知りました:accelerationist ――ロッシェル・カップ @JICRochelle · 5月31日

Accelerationists についてもっと深く知りたいのであれば、これを参考にして下さい。コロナ禍を使ってカオスを作って、それをきっかけに白人優越主義国家を作りたがっているようです。とても怖いです。 ――ロッシェル・カップ @JICRochelle · 5月31日

加速主義(かそくしゅぎ、英語: accelerationism)とは、政治・社会理論において、根本的な社会的変革を生み出すために現行の資本主義システムを拡大すべきであるという考え ――加速主義 - Wikipedia

7月3日、4日、12日の項(oi-quot 2020.7.1 - 2020.7.31)に加速主義の記事あり。

2020.8.9 sun.

彼の商品は、彼にとっては直接的使用価値をもっていない。もしそれをもっているなら、彼はその商品を市場にもってゆかないであろう。彼の商品は、他人にとって使用価値をもっている。彼にとっては、それは、直接にはただ、交換価値の担い手でありしたがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである。それだからこそ、彼はその商品を、自分を満足させる使用価値をもつ商品とひきかえに、手放そうとするのである。すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。 ――『資本論』第1部第1篇第2章「交換過程」(大月書店『資本論』第1巻第1分冊、1968年)

彼とは、商品の所持者のこと。
上の引用箇所をつづめて言えば、商品とは不用品である。

以下はマルクスと関係なく。――
商品交換においては、とくに交換される商品の一方が金銭である場合、その交換が等価交換の了解があって行なわれたとしても、じっさいは不等価交換であろう。なぜなら交換される商品の一方は不用品であるのだから。
このことは、われわれの日常体験からはうなずける。
100円の商品を買って、100円を払う。
時給1000円の労働をして、1000円をもらう。
いずれの場合も、カネを受け取った側がカネを払った側に礼を言う。
小売店での売買なら、店員が客に「ありがとうございます」と謝意を表明する。
労働の場合は、雇われた側が雇った側に礼を言う。昔と違って現金ではなく銀行振込だったりするから、必ずしも授受のおりに礼を言ったり頭を下げたりするわけではないが、雇用関係を通じて雇用者を上とし被雇用者を下とする身分関係が、労働の内容にかかわりのない場面でも維持される。

まとめていえば、商品や労働より金銭が尊い。
それゆえ、商品や労働を売った側は、加えて辞儀や敬意を添えなければならない。
上で見た日常と需給バランスが逆転して、購入者側が感謝を述べたり下手に出たりすることになっても、不等価交換であることは変わらない。要は、交換は一般に不等価交換である。

2020.8.8 sat.

2020.8.7 fri.

もし商品がものが言えるとすれば、商品はこう言うであろう。われわれの使用価値は人間の関心をひくかもしれない。使用価値は物としてのわれわれにそなわっているものではない。だが、物としてのわれわれにそなわっているのはわれわれの価値である。われわれ自身の商品物としての交わりがそのことを証明している。われわれはただ交換価値として互いに関係しあうだけだ。 ――マルクス「商品の呪術的性格とその秘密」(『資本論』第1巻第1分冊、大月書店、1968年)

商品にものを言わせるのは文章術としては許される擬人化だが、商品同士の接触を通じて価値が定まるとする後半の記述は無難な擬人化ではない。商品どうしが自身でかかわりあうかのような擬人化は、じっさいの当事者である売り手と買い手の姿を隠してしまう。言い換えれば、市場から人間を消してしまう。
人の姿の見当たらない市場でたがいの真価を探り合う商品と商品――これはマルクスが同じセクションで論じている幻影劇(ファンタスマゴリア)そのものではないか(8月2日記事参照)。
マルクスがこの幻影劇を外側から科学者の目で分析しているのならいいのだが、むしろ彼は演出者――それも自覚せざる演出者――として関わっているかに見える。テーブルが踊りだすとか逆立ちするなどの修辞を好む資質は、科学者より文学者のそれだろう。

2020.8.6 thu.

2020.8.5 wed.

2020.8.4 tue.

一昨日(8月2日)の宿題。
『資本論』の原註に、中国とテーブルが踊りはじめたとある件。
これらが踊りだした背景と目的は、
とされているが、諸版の編注などをあわせると、具体的には次のようなことであったらしい。

1848年から49年にかけてヨーロッパで労働者・民衆勢力が起こした革命はすべて敗北した。原註がいう「全世界が静止している」状態とはこの敗北後のヨーロッパを指し、勇気づけられるべき「他の者たち」とは敗北で意気をくじかれたヨーロッパの民衆をいう。
また、勇気づけるべく中国が踊りだしたとは、1851年に勃発した太平天国の乱を指し、キリスト教を奉じたこの民衆反乱がヨーロッパの民衆をなぐさめたとマルクスが解したことになる。宗教反乱でもあり農民主体の乱でもある太平天国は、資本主義の発達を前提とするマルクスの革命理論とは折り合わないが、それでも一定の評価は与えたのであろう。
テーブルを持ち出したのは、当時のヨーロッパの貴族やブルジョアのあいだで、テーブルを囲んでおこなう降霊術が流行ったことを踏まえたもの。
卓踊術(Tischrücken)と呼ばれたこの降霊術では、テーブルが動いたり傾いたりすることをもって心霊現象の発生としたが、マルクスはこれを『資本論』の巻頭から説いてきた商品論と結びつけ、商品として市場の置かれたテーブルは他のすべての商品に対し逆立ちして狂態を演ずるのであり、卓踊術のテーブルが踊りだすことなどは比較にもならないとした。
マルクスの商品論では、任意の商品は(したがってテーブルも)、他のすべて(les autres)の商品の価値基準となることができる。論証の過程で、他の商品によって価値を示される受け身の立場で登場するテーブルが、後には他のすべての商品の価値を示す能動的な存在になりうることをマルクスは「逆立ち」と表現した。

Tischrücken n テーブルターニング〔心霊現象〕――三修社『新現代独和辞典』
日本でいうコックリさん(Wikipedia
英語では、table turning、table tipping など(Wikipedia

Table tipping and turning - Author Kim Cleary

『資本論』第1巻第1篇第1章第4節「商品の呪物的性格とその秘密」、ていねいに読もうと思う。
人々を元気づけようと中国とテーブルが踊りだすとの原註をまたいで、
「だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこない」
とマルクスは述べているが、ここで読者の反応は別れるはず。一方は「なるほど」とうなずき、他方は「商品の神秘な性格? 何でしたっけ、それは?」と。

2020.8.3 mon.

2020.8.2 sun.

商品形態とその労働生産物の価値との関係は、物理的性格やそれによる物どうしの関係などとはまったく関係がない。この場合に物どうしが人間に対してとる関係はファンタスマゴリアの形をとり、しかもそれは人間に特有な社会関係以外の何物でもない。ということは、これに似た例を見つけようとすると、宗教世界のファンタジーに逃避するしかない。そこでは人間の頭が作り出したものが独自の生命を与えられ、お互いどうしの間でも、また人間との間でも独立した姿に見えてくるからだ。商品の世界においても、人間の手になる生産物はそのように見えてくる。わたしはそれをフェティシズムと名付ける。フェティシズムは、労働生産物が商品として作られるや、ただちにその労働生産物に付着してしまう。だから商品生産から切り離すことができない。 ――マルクス『資本論』第1巻第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密」、ただし四方田犬彦『マルクスの三つの顔』から孫引き

訳文のファンタスマゴリア、ファンタジー、フェティシズムは、それぞれ従来の訳では幻影(ファンタスマゴリア)、夢幻境(ファンタジー)、物神崇拝(フェティシズム)など。
ファンタスマゴリア(ドイツ語、英語)またはファンタスマゴリー(フランス語)とは、幻灯機にその他装置や役者の実演を組み合わせた見世物。18世紀末にフランスではじまり、19世紀を通じて行なわれた。

Histoire des Projections Lumineuses » Archives du Blog » Projection de SPECTRES VIVANTS et de FANTOMES au théâtre

商品がこの幻影劇(ファンタスマゴリア)を演じることになる前段を、マルクスは上の引用箇所の少し前で次のように述べている。

商品はその属性によって人間の欲望を満足させるとか、人間の労働がその属性を生産物として獲得するものだという立場から考えてみるならば、商品にはいささかも神秘的なところはない。人間が活動して自然の素材を役に立つように作り変える。これは真昼のように明らかなことだ。たとえば材木からテーブルを作る場合、その形態は変化する。とはいえテーブルが木であり、普通に感覚できるものである事実に変わりはない。ところがテーブルが商品として現れるとなると、感覚的でありかつ超感覚的なものへと変化してしまう。テーブルはもはや床に脚で立っているばかりか、他のすべての商品に対し、逆さまになって頭で立つようになる。それからその頭で狂態を披露する。その不思議に比べれば、テーブルが踊りはじめるなど、高が知れている。
(註)中国とテーブルは、他の全世界が静止しているように見えたとき、踊り始めた。「他の者たちを勇気付けるため」pour encourager les autres ということが想起される。 ――同前、同じく四方田訳

2020.8.1 sat.

これ衝撃だったんだけど、普通同じ大きさの物なら遠くにあるほど小さく見えるよね?でも宇宙ではある距離を超えると逆に遠くにあるほど大きく見えるんだって!宇宙が膨張してるから、遠くの銀河から届く光ほど広がって、見かけ上大きくなるそう。遠近法を破ってくる宇宙スゲェ…――石松拓人🛰 on Twitter


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そいつはまちがいなく人間で、ペダルをこぐ四輪車にはピアノ、フルセットのドラム、フレンチ・ホルンをはじめとする管楽器ひとそろいが載っていた。聞くがいい、こいつはあらゆるドラムを圧するドラム、ホルンから突き出してくるホルンだ! さまざまな楽器がハリネズミのように突き出していた。男は首からギターとウクレレとバンジョーをぶらさげ、バイオリンを顎の下にはさんでいた。こいつは田舎の三文歌うたいだが、きみたち地球人のやつとは違う。 ――R. A. ラファティ『地球礁』(柳下毅一郎訳)