2021.8.18 wed. url
レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』(原題: Something Wicked This Way Comes)は、二人の少年の前に避雷針売りの男が現れるところからはじまる。
男は少年の一人に奇妙な形の避雷針を与え、ひどい雷が近づいているから今すぐこれを家の屋根に立てるようにと言って立ち去る。
登場の仕方から見て、この避雷針売りこそ邪悪な何者か(something wicked)を象徴あるいは体現する人物でなければならないのだが、その後のストーリー展開のなかで何かの役割を果たしたり重要な意味を担ったりすることは全くない。邪悪な一味によって小人に姿を変えられた人物として、たまに言及されるだけ。
当初の構想どおりには描ききれなかった人物。それがこの避雷針売りの男ではないか。かりに被害者として構想されていたとしても、造形しきれなかった点では同じ。
ハーマン・メルヴィルの短編「避雷針売りの男」(1854)では、語り手の家にやってきた避雷針売りが語り手に避雷針の効能を論難され、暴力沙汰にまでなって追い出されるが、その後も近隣をめぐって避雷針商売を続ける。
マーク・トウェインの「経済学」(1879)は、語り手が論文執筆でうわのそらになっているのにつけ込み、600本もの避雷針を屋敷に取り付けてしまう避雷針売りの話。
19世紀なかばから20世紀はじめのアメリカで、避雷針ビジネスが盛んだったこと。
そのなかで詐欺的商法も横行したこと。
1880年代、ネブラスカ州で避雷針の詐欺的販売が横行との記事、ネットにあり。
1886年、ケンタッキー州で避雷針販売人にライセンスの取得を義務付け。
21世紀の今も避雷針詐欺が続いていること。
Scammed Couple Warns of Lightning Rod Salesman
避雷針売りの世間的イメージからすれば、『何かが道をやってくる』の避雷針売りも詐欺師的人物として構想されたと見たい。
創元SF文庫でも『何かが道を――』の表紙イラストが異様な避雷針らしきものの図であること。これも物語冒頭における避雷針売りの存在感に触発されたものだろう。
2021.8.17 tue. url
・路上で現金を渡して現行犯逮捕される。日本橋の蕎麦屋の前。
・投票を呼びかける報酬として運動員に1日あたり1万数千円を支払うことなどを約束。公職選挙法違反の買収の疑い。
・映画「くも漫。」は漫画「くも漫。」の映画化。2017年公開。漫画「くも漫。」は風俗店でくも膜下出血を発症した作者自身の闘病生活を描く実録漫画。
・猫の大量消滅、川にかかる謎の郵便ポスト、虹を吹き出すクジラ。
・あいにくストックホルムは三日続きの雨。真夏のはずなのに長袖でも肌寒い。だが、天候とプロジェクト進行は必ずしも同期しない。古ぼけたビルの屋根裏部屋でインプロセッション。
・票のとりまとめなどの選挙運動をすることの報酬としてビール券を配布。
2021.8.16 mon. url
セパ両リーグの MVP の表彰があり、出かける。
セの MVP 受賞者は私。
プロ野球の MVP なのだから社会的なニュースバリューはあるだろうが、自分にとっては脇筋のテーマで、本筋の夢は以前よく見ていた死刑執行の夢。
死刑執行の夢の基本形。
私は何かの罪で(何の罪かはいつも不明)死刑の判決を受け、執行日まで自宅で待機している。
執行日になると出頭して絞首されかかる。または逃亡をはかる。
これまでで最も具体的だった夢。
町内会の役員だという男がアパートにやってきて、執行日だから出頭するようにと言う。
一人で出かける。
池袋サンシャインシティの南側の公園にいくと、家庭用の井戸ぐらいの大きさの穴が掘ってあり、古い戸板がかぶせてある。四囲に細い丸木の柱が立ててあり、簡単な屋根が乗っている。
天井から輪状に結んだロープが下がっている。
私が戸板の上に乗ってロープの輪に首を差し入れると、戸板がはずれて私が穴に落ちる仕掛け。ロープが締まりかかったところで目がさめる。
この間、公園に人影はなく、死刑執行の人員などもいない。
公園の脇に、「池袋ウエストゲートパーク」のロケで使われた果物屋の建物が残っている。
今朝の夢。
死刑執行から心臓病の最終処置へと設定が変わっているが、自分が死ぬ運命にあることは同じ。
病院の廊下を歩いていくと、夜勤明けの看護師たちがむこうからやってくる。中学生くらいの年頃の女の子たち。
「がんばれよ」みたいな感じで声をかける私。
疲れ切っているのか、女の子たちは口をもぐもぐさせるだけ。
私は歩きながら、医師との対面を想定して模擬問答をしている。
医師が今から最終処置にかかりたいと言う。
処置の内容はわからないが、たぶん筋弛緩剤でも打つことになるのだろう。
私は今朝まだ妻の顔を見ていない。
処置は妻と話をしてからにしたいと私は言うつもりでいる。
そこまで考えて、急にばからしくなる。
そうまでして従順に死ぬことはないではないか。そう思いついて、廊下の途中から引き返してくる。
受動から能動へ。生き方が変わろうとしてるのか。
――――
via ノルウェー Håkon Kornstad Trio より新譜 "For You Alone" : タダならぬ音楽三昧
2021.8.15 sun. url
詩人にしてガンファイター、不動産投資家でもあるキム・カーソンズの回想。
「バン!」という銃声につづいて、
幻の銃……つかもうとするがつかめない……重すぎ……早すぎ……容易すぎて……射精する三人の目撃者 ――ウィリアム・バロウズ『デッド・ロード』(飯田隆昭訳)
回想だから事実とは異なる。
その事実が二つある。
事実Aは、1899年9月17日にコロラド州ボールダーの共同墓地で行われたキム・カーソンズと連邦保安官マイク・チェイスの決闘。彼らは相打ちで死ぬ。
この事実は新聞によって報じられた。
事実Bは、同じ1899年9月17日に同じ共同墓地で行われた決闘。この決闘では、キム・カーソンズがマイク・チェイスを倒す。
幻の銃……つかもうとするがつかめない……
へなへなと倒れ込むマイク。
三人の立会人が、
「イッツ、オンリー、ア、ペーパー、ムーン……」
と歌うのにあわせて、キムは紙の月を銃で撃ち抜く。
父親を装った男たちがステージに上がってきて、
「おまえは宇宙を破壊するのか?」
と制止するが、キムは無視して空にも穴をあける。
目撃者のメカニカルな反応がいい。
ロボットみたいにいっせいに勃起して射精する三人の目撃者。
あるいは、先端にむすんだ紐でヒョイと陰茎を釣り上げられる操り人形のようで。
ガンファイターを志すキムは、気に入らない相手なら即座に撃ち殺し、気に入った相手ならセックス(ホモ)を繰り返して仲間を増やし、アメリカ各地に拠点をつくる。マンハッタンにも勢力を築いたキムは、イギリス、フランス、アラブ、さらにアフリカの密林、南極大陸に工作を広げ、地球を飛び出し金星にまで渡って活動をつづける。
やがて時間をさかのぼりはじめるキム。
1899年9月16日、キムはコロラド州ボールダーにステージを移す。
不安を誘うデジャ・ヴュ……ささやく南の風に乗る怒りのきらめき……
そして、1899年9月17日、場所も同じボールダーの共同墓地でキムとマイクの決闘……。
事実Aまたは事実Bにもどる。またはもどらない。
『デッド・ロード』は矛盾する二つの事実を併置して書きはじめられた。
正、反、合、いずれ作者は止揚させるつもりだったのか。それなら弁証法と言えるのだが。
ただし『デッド・ロード』のストーリーは回帰する。
「バン! おまえは死んだ」
マイクは胸をかきむしり、前のめりになって倒れた。子供の遊びのようだった。
「何をしやがる――」誰かがキムの背中を激しく叩くと、キムは吐き出すようにしていった。背中を叩かれるのが我慢ならなかったのだ。キムは振り向いて怒りの声を発しようとするが……口の中に血が溢れ……振り向けない……空は暗くなり、消えた。
回帰する弁証法。もどってしまうのだから、進歩はない。
弁証法を回帰させるとは、嫌がらせでやったことか。あるいは何も考えてなかったか。
2021.8.14 sat. url
南北がその白鳥の歌ともなるべき作品のテーマに、将門劇を選んだ行為は、きわめて意味あることに思える。京都帝政の収奪に敵対して、関東帝国の設立を企図した平親皇将門の政治行動は、まさに江戸っ子の庶民感情に叶うものであった。それは二重の意味において庶民によって支えられた。一つは関西政権の東国支配を奪還して樹立された江戸政権への期待感、もう一つは、徳川幕府によって現実に示された一家経営主義政策への庶民の反発と不信の表出としての解放者将門への帰依の念であった。 ――武智鉄二「悪・惨劇・想像力――南北の根本思想形成の過程について――」
南北の白鳥の歌(絶筆)とは『金幣猿島郡』。
近松門左衛門の絶筆『関八州繋馬』も平将門にかかわる劇であること。
二大劇作家の絶筆がともに将門劇であったことの意。
ただし後者は反乱鎮圧劇に終わった。この点が『関八州繋馬』に対する南北の最大の不満、と武智。
2021.8.13 fri. url
銀白色、パール波、氷河石、その他すべての空の色
そこにいるのは誰? 私ことは猿の冬
そこにいるのは誰? 私ことは猿の冬|mataji|note
2021.8.11 wed. url
人間が人間について考えること。
人間の物理的仕組みを研究するのは可能としても、我思う故に我有りとか、人間存在がどうとか、人間が人間について――言い換えれば自己について――考えるのは、原理的に無理なのではないか。
ダイダロスが自分の設計した迷路に幽閉される話。哲学や哲学者の喩えに使える。
人間とは何か、自己とは何か、自分はどんなわけや目的があってここにいるのかとか、つい考えたくなったり考えたりする人がいて、中にはとことん考え抜く者もいて、後世まで名を残す哲学者とかはそれだろう。
とことん考え抜いた産物としての哲学書には、少数ではあっても強く引かれる読者がいて、その読者らは同じ迷路に踏み込むことになるだろう。あるいは、脇道へ別の迷路を掘り進むことになるだろう。思うに、どの岐路をたどってもその先は行方の知れない迷路ばかり、あるいは行き詰まりなのだが。
ダイダロスは脱出に成功する。
ただし、迷路をたどって出口をみつけたのではなく、翼を自作して迷宮の窓から飛び出したのであり、いわば迷路ゲームのルールに違反しての脱出。
おまけに息子は死なせてしまったし。
2021.8.10 tue. url
はじめて聞いた。via 七尾旅人 on Twitter
このバックを借りたら、なんでも歌えそう。
ビーグル号の航海の途中で訪れた町のことも、ナポレオン三世時代のパリのことも。
〽朝早く起きて、二時には、美しい静かなカストロの町についた。老町長はわれわれのこの前の訪問後死去したので、あるチロエ人が(……) ――ダーウィン『ビーグル号航海記』中、岩波文庫p.184)
〽ところが、このように書いてきて、序文も末尾というところで調子ががらりと変る。「読者よ、今や私のことはすみからすみまでご存知だ。以上が私の正体だ、いやむしろ三ヵ月前の(……)――横張誠『芸術と策謀のパリ』p.63
いや、ページ番号まで記録しなくてもよかったか。
たまたま開いたページの目に入った箇所を歌ってみたら歌えたのだから、ほかの箇所でも同じだろう。
――――
ジョセフ・コンラッドの作品の中に、ジャングル、水、天気に関する素晴らしい描写がある。なぜ、熱帯を舞台にした小説の背景としてそのまま使わないのか? 台本は誰それ、描写と背景フッテージはコンラッド、そして、もちろん、他人の作品から誰か人物を誘拐してくることもできるし、ちがう場面設定におくこともできる。絵、文章、音楽、映画のあらゆるものを使うことができる。『ユリシーズ』のモリー・ブルームの独白を取り出して、ヒロインに与えたまえ。どうせしょっちゅう行われていることだ……ロミオとジュリエットが何回引張りだされていることか? ……『若い恋人たち』でカリーエは四千万ドル儲けた。だから、もっとオープンになって、自由に盗もぅ。 ――ウィリアム・バロウズ「泥棒」(山形浩生訳)
――――
道楽もたいていやりつくして
最後に地面へ飛ぶのだが
大火の晩に、 たびたび劇場へでかけては
いろいろいろな見世物を、 かたっぱしから見てきたお陰か
天高く何があろうと
おなじ側のおなじ曲乗り
天高く何があろうと|mataji|note
2021.8.9 mon. url
以上は素描である――と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最終段落に至って著者ウェーバーは述べ、残された課題をいくつもあげた上で、最後の最後に次のように付け加える。
プロテスタンティズムの禁欲それ自体が逆に、その生成過程においても、その特質についても社会的文化的条件の総体、とりわけ経済的条件によって深く影響されているということも明らかにしていかねばならないだろう。 ――大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
宗教改革の経済的要因は『プロテスタンティズムの――』が終始避けてきたテーマ。
最後とはいえ持ち出したのは誠実な姿勢にも見えるが、真意はわからない。本気で追究すると命取りになる急所だから避けてきたのではないか。
2021.8.8 sun. url
心のバックパックに詰め込めば詰め込むほど身軽になって何処へでも行けるような気がしてくる、そんな本をお届けしたいと思っている古本メインの本屋です.めっちゃ狭い! ――バックパックブックス(@backpackbooks29) • Instagram写真と動画
のんびり働いて、ほそぼそ生きる。そういう生活スタイルに合う仕事は少ない。路上本屋とか成り立って、リコーダーの練習なんかしながら店番して、のんきに暮らせるといいのだが。
枡野浩一の注文でできたというオカモチ本棚
川舟の本屋
2021.8.7 sat. url
「資本主義精神」は宗教改革の一定の影響の結末としてのみ発生しえたとか、また、経済制度としての資本主義は宗教改革の産物だなどというような馬鹿げた教条的テーゼを、決して主張したりしてはならない。資本主義的経営の重要な形態のあるものが宗教改革よりもはるかに古いという周知の事実だけからでもそうした空論の成り立ちえないことがわかるだろう。 ――マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)
「馬鹿げた教条的テーゼ」そのままではないとしても、それに近いことを主張するのが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の目的ではないだろうか。資本主義の発展にプロテスタンティズムの果たしたささやかな役割を述べる程度のことが目的だとしたら、『プロテスタンティズムの――』は浩瀚にすぎる。
この書の各所でウェーバーが言うには、これは素描である、輪郭にすぎない、ある程度明らかにしたい、詳論はできない、等々。他人目には分厚く見える『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だが、まだ本人は書き足りていないらしい。
ということは、彼に増補のための無限の時間と労力を与えたら、『プロテスタンティズムの――』は彼の否定する「馬鹿げた教条的テーゼ」の書にどこまでも近づいていくのではないか。
人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく「営利機械」として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想は、生活の上に冷ややかな圧力をもってのしかかっている。財産が大きければ大きいほど――もし禁欲的な生活態度がこの試練に堪えるならば――神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならぬという責任感もますます重きを加える。こうした生活様式は、その起源についてみれば、近代資本主義の精神の多数の構成要素と同じく、一つ一つの根は中世まで溯るが、しかし禁欲的プロテスタンティズムにいたって、はじめて、自己の一貫した倫理的基礎を見出したのである。それが資本主義の発展に対してどんな意義をもったかは極めて明瞭だ。 ――同前
要約すれば、禁欲的プロテスタンティズムを経たから今日の資本主義がある。
2021.8.6 fri. url
僕にとって戦争とは(……)反対したり推進したりイデオロギーによってコントロール出来るものなどではなく、ある日突如として不条理にやってきては否応なく巻き込まれる悪夢的な存在で、一度始まってしまったらとにかく命がけで動き回る以外にすることは何もなく、とにかく自然に収束するまではそれが続く。その間には膨大な意志と遂行、その頓挫と混乱が無秩序に繰り返され、死ぬか致命的な負傷を負うか、もしくはかすり傷ひとつなく済む。そういうものだ。戦争はいつか来るだろうが、それがいつで、どうなるかなんて誰にも解らない。 ――菊地成孔「DCPRGに関する二番目の企画書……計画の50%」(2000年10月)
社会や政治を制御不能は環境とみなすこと。天気と同様の、ままならない自然条件と見ること。
現実政治なんて、おれがどうにかできるわけではないし。
戦争も同じ。おれが始めるわけでも終わらせるわけでもない。
そういうアンチポリティクスの姿勢に、うなずきつつ読んだのだったが。――
いつもの如く、氏の文章は甘美な毒のように筆者の体に染み入ってくる。この感覚は、氏の著作でしか得難いものである。だが、それも本書の前半までだ。菊地氏のドナルド・トランプに対する言及の仕方には、氏に特有であったレトリカルなアイロニーも冷笑もない(ように見える)。それが筆者をたじろがせ、緊張させる。 ――木澤佐登志の書評 『次の東京オリンピックが来てしまう前に』(菊地成孔 著) | SUB-ROSA(2021年3月)
2021.8.3 tue. url
冷たくて、分別があり平凡で、絶えず美徳と経済のことばかり口にしている人物。好んでこの二つの観念を結びつける。――フランクリン流の知性みたいなものをもっている。フランクリンのような卑劣漢。 ――ボードレール「ドン・ジュアンの最期」(阿部良雄訳)
公平は無用であること。
――――
文章作法。
論文中の台詞。ex.「ばかじゃないの」
はじめ何者の台詞かわからない。
主体のないまま台詞だけが繰り返され、しだいに存在感を増す。
誰だ、そいつは?
2021.8.1 sun. url
できるもんならやってみろ
できるもんならやってみろ
毎日ひでえことは言ったが
飲めや
そちらにつかつか歩みよって
そうだろう、先生は叫んだってよ
宝さがしに行かなきゃならねえ
新宝島: このぼうやだろ 、船長シルバーはそう言ったんだぞ|mataji|note
誰にどう歌わせるか。