zakki no.27

[2022.10.1 - ]

2022.10.31 mon. link

ア州警察ハイパトな夜景写真をバットラジオ
アング・ネックで淡々

アング・ネックと美麗なトラング・ネットラクに
ニアンビエントランフラジオ ア州警察ハイウェイウェイウェイパトな夜景写真をバットラックに、ニアングで淡々と流れくる風変わったリラックに、ニュールニアング・ネックシンフォルニュールニューミンシンビエントなトラクに、ニュールの無線音声がストラックシンビエング・ネットリラングで淡々と流れてくる風変わったリフォルの無線音声がストラジオ
アングで淡々
美麗な夜景をストラジオ、バットラジオ

リーヨーミンビエンシスコ市警、サントラク
美麗なトリラントラクシスコ市警察ハイパトリフラジオ

2022.11.1 done
美麗な夜景をストラジオ、バットラジオ|mataji|note

2022.10.30 sun. link #萩原朔太郎 #三好達治 #ウィリアム・ジェームズ

「自我とは何か」との問いを立てて、萩原朔太郎が書いている。

幸いにも近代の大心理学者のウイリアム・ジェームズが、これに対して判然たる解決をし、有名な答解をあたえている。曰く一つの同じ寝室に、太郎と次郎が一緒に寝ている。朝、太郎が目を覚ました時、いかにして自分の記憶を、次郎のそれと区別するか。けだし自我の意識は「温感」であり、ある親しみのある、ぬくらみの感であるのに、非我の記憶は「冷感」であり、どこかよそよそしく肌につかない感じがする。自我意識は即ち温熱の感であると。 萩原朔太郎『詩の原理』
何かおかしい。意味が通らないような気がする。どう解したらいいか。
誰かが何か勘違いしてるのではないか。
誰が?
朔太郎か、ウィリアム・ジェームズか、あるいはこのzakkiを書いている私がか。
太郎も疑えば疑える。

太郎が部屋で目を覚ます。
温かい。
布団にくるまっていたせいもあろうが、ともかく温かく太郎は感じる。
温かいからには、それは自我である。
なるほど、と太郎はうなずく。自分は自分を太郎だと思っている。そしていまは温かい。ということは、これは自我である。すなわち自分は太郎である。

別解。
太郎が部屋で目を覚ます。
寒い。いや、冷たい。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
そんなことを誰かが言っている。
外は雪なのだろう。
もしかして、と太郎はうろたえる。自分は自分を太郎だと思っている。だが今は寒い。寒いということは非我である。そう思いながら太郎は隣に寝ている次郎をみやる。
自分は自分を太郎だと思いこんでいるが、事実は、隣で寝ている次郎が自分なのではないか…

自分が自分に感じるよそよそしさ。冷感。非我。
誰が勘違いしているか。太郎は除外していいと最初は思ったのだが…

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
は、三好達治の詩「雪」。二行だけの詩なので、これで全文。
犯人は現場にもどる。探偵も現場にもどる。
彼らに習うなら、我々も、太郎、次郎の屋根に雪の降りつむ現場の検討からはじめるべきか。

※上の引用では、原文の旧字・旧仮名を新字・新仮名に改めた。また、一部の漢字を開いた。

2023.6.11追記
ポールと同じベッドのなかで目を覚ましたピーターは、眠りにつく前に二人の心に浮かんでいたことを思い出し、「暖かい」観念を自分のものとして再確認し私有化する。加えてピーターは、冷たく青白く思える観念をポールに帰属させ、そのような観念と自分の暖かい観念とを混同することは決してないだろう。同様に、ピーターはポールの身体と自分の身体とを混同することもないだろう。なぜなら、ピーターにとってポールの身体はただ自分に見えているだけだが、自分の身体は見えると同時に感じられもするからである。――The Principles of Psychology(『ウィリアム・ジェームズの心理思想と哲学』今田恵編訳、世界大思想全集 15、河出書房、1956年) via 大厩諒「ジェイムズ哲学の統一的理解への試論」

2022.10.29 sat. link

そのつぎは猿の群
すえた噴水、汗国を作った魚も
そのつぎはサソリ
カニクイザルも

ハシシュと忍び寄る暗殺者
時はすぐ止まる

砕けて血まみれ
マンモス、一角獣、剣虎
刺すもの
ムカデ、ハリネズミ

あおむけに、星を見ながら

つぎは猿の群
そのつぎはサソリ

2022.10.28 fri. link

残光を義眼にないたアのだから
オレンボー、ラビアランボー、ある熱気球
糸杉は月とに
その歌
またも笑い天の底か
夜は月と黄には落となく賑やかられたアの天の懐かられど
夜は
夜は月とり見ろよ、火は月と星
ころ
残光を義眼に緑の底から、火は月と星
白いの音を待つに
無頭女、火喰鳥
燃えるツェッペリン

燃える空に楽の川
涙が止まら

2022.11.19 done
燃える空に楽の川、涙が止まら|mataji|note

2022.10.27 thu. link #萩原朔太郎

自分が歌劇の台本を書くとしたら、散文詩として書く――と萩原朔太郎。
その場合の劇の様相は次のようになる。

音楽は必須として、ほかに、まず舞台が要る。
その舞台上では、自由に使えるいろいろな光線、いろいろな奇異な家屋、巨象のような樹木、玩具のような月、瞳孔のある太陽、触手のある森、心臓のある寝台、物言う椅子、それらのあらゆる「詩の象徴」を自由に表現する背景と道具が準備される。
幕があがって人物が現れる。
人物の胴体は中途から切られ、眼球だけが空中で光っている。
彼の手にしたサーベルによって建築が屋根から真っ二つに割られる。
侏儒が走ってくる。
彼はきょろきょろし、足を逆さに空中を歩いている。
月が落ちてきて都会が粉砕される。

こんな上演がどうしたら可能か。

 つまり言へば、人形芝居の話をしているのだ。そこではどんな自由な象徴的表現も許される。ありとあらゆる詩人の幻想を、如実に生々と躍動させることができる。そして尚且つ、詩と、音楽と、絵画と、劇とは、そこでのみ完全に「申し分なく」綜合されるであらう。げに人形芝居こそ、私の望ましき一切の者である。 萩原朔太郎「歌劇の台詞に就いて」
引用は萩原朔太郎を特集した『ユリイカ』1972年4月号から。オリジナルは1921年(大正10年)という。
このエッセイで朔太郎は言葉を重ねて歌劇を非難している。
歌劇の俳優は音楽を歌っているのではない。彼らは自身の美声と声量を見せびらかしているだけ。
歌劇の歌詞は詩ではない。極端にいえば寝言でもいい。
かりに歌劇において芸術的綜合が果たされているとしても、それは専制君主たる音楽が、他のいっさいを――詩や美術や劇を――下回りの道具方として使役しているにすぎない、と。

2022.10.26 wed. link

恋愛どころか人間関係すら描いてない歌は最高
アルゼンチンバンド良くて、「山からやつらが降りてくる、春の祝祭で痛めた背中で(con su espalda rota en los festejos de primavera)」って歌詞を連呼し続ける歌なんかもある これも大概意味わからんくて素敵
ヘンな歌詞の歌
Vienen bajando las multitudes inquietas
Vienen bajando las multitudes inquietas
Con su espalda rota en los festejos de primavera
Con su espalda rota en los festejos de primavera
El Mató a un Policía Motorizado – Vienen Bajando Lyrics | Genius Lyrics
落ち着きのない群衆が降りてくる
落ち着きのない群衆が降りてくる
春のお祭りで腰を折ったまま
春のお祭りで腰を折ったまま
Google 翻訳
――――
好きなアルゼンチンのバンドの歌、たぶんゾンビクライシスを描いていて、「僕はいまライフルをもって家の屋根の上にいる」を連呼するのがサビで最後には「さあ、次の動き(movimiento=move)をやるぞ」つって終わるんだけど、なんか良いんだよなあ
ヘンな歌詞の歌
Voy a subir al techo a ver,
a mirar el desastre
bajo la luz de la luna gigante.
Ellos lloran abajo del árbol, arriba del árbol, detrás del árbol
tuve miedo pero ya se fue.
Ahora estoy arriba de mi casa con un rifle.
Haré mi próximo movimiento.
MI PRÓXIMO MOVIMIENTO - El Mato A Un Policia Motorizado - LETRAS.COM
屋根に上がって見に行きます。
災害を見る
巨大な月の光の下で。
彼らは木の下で、木の上で、木の後ろで泣く
怖かったけど消えました。
今、私はライフルを持って二階にいます。
次の行動に移します。
Google 翻訳

2022.10.25 tue. link

テンポが違う、景色が違う、リズムが違う、景色が違う、景色が違うなあ
道が違う、歩幅が違う
思っていたのとはずいぶん違う
川沿いに宿はなし
地を這いまわるカラスウリ

ないはずの宿を探す嫁姑
こんなのが、末期だったとは

2023.4.5 note.com投稿
こんなのが、末期だったとは|mataji|note

2022.10.24 mon. link #萩原朔太郎

わたしの顔や姿が、人から見ると、ぼんやりしていたり、歪んでいたり見えるらしい。
いや、「らしい」ではない。ぼんやり歪んで見えるのである。
その理由を話者が列挙して、曰く、
わたしは窓にかかったレースの陰に立っている。
わたしは望遠鏡で遠くを見ている。
ニッケル製の犬や羊、頭の禿げた子供たちの歩く林などが見える。
わたしは今朝キャベツを食べすぎた。

とはいえ、わたしは病んでいるわけではない。
それなのにあなたは――と萩原朔太郎の詩「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」の話者はつづける。

わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、
それがわたくしの顔をうすぼんやりと見せる理由です。
わたしは手に遠めがねをもつて居ります、
それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、
につける製の犬だの羊だの、
あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります、
それらがわたくしのを、いくらかかすんでみせる理由です。
わたくしはけさきやべつの皿を喰べすぎました、
そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、
それがわたくしの顔をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。
じつさいのところを言へば、
わたくしは健康すぎるぐらゐなものです、
それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。
なんだつてそんなに薄気味わるく笑つてゐる。
おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、
そのへんがはつきりしないといふのならば、
いくらか馬鹿げた疑問であるが、
もちろん、つまり、この青白い窓の壁にそうて、
家の内部に立つてゐるわけです。

この詩は『月に吠える』に収められているが、初出は北原白秋の発行していた雑誌『ARS』。
次のメモ書きは、朔太郎が白秋に送ったもの。文面から見て、『ARS』への寄稿に同封か。「腰部の所在がはっきり表現できないで困ります」「少しく難解なのを心配します――言葉の不足から――それで図解してみました」などとある。

内部にいる人――『月に吠える』前半の課題

2022.10.23 sun. link #萩原朔太郎 #三好達治 #詩論

太郎と次郎が混乱している。
いや、太郎と次郎のいずれかが混乱している。
いや、二人ともにか。
あるいは別のレベルの視点から見て、二人の関わりが混乱してるのだろうか。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

太郎と次郎が同じ部屋で眠っている。
ふと、どちらかが目をさます。
はて、いま目をさました俺は、太郎だろうか次郎だろうか。
おい。太郎か次郎か、どっちだよ俺。

何らかの取り違いが起きている。
だが、何者が何を何と取り違えているのか。

同じ寝室で太郎と次郎がいっしょに寝ている。朝、太郎が目をさました時、いかにして自分の記憶を次郎のそれと区別するか、と心理学者のウィリアム・ジェームズが言っている。――と萩原朔太郎が『詩の原理』の第一章「主観と客観」で言っている。
太郎と次郎という名はジェームズのものではありえない。萩原が三好達治の詩から連れてきたものだろうことは、ほぼ間違いない。『詩の原理』を書いたころ萩原は三好と知り合っている。三好の「太郎を眠らせ…」の詩もそのころの作。

三好達治の太郎と次郎は同じ部屋で寝ていたか。
「太郎の屋根」「次郎の屋根」と書き分けているのだから、別の家なのではないか。
「太郎」と「次郎」という兄弟を思わせる名については、表現の成り行きということで説明できる。「太郎」に続いて「浩」や「良男」では形が崩れる。
太郎と次郎はそれぞれの屋根の下で寝ていたのである。雪が降っている。それぞれの屋根の下で人々が眠っている。三好はその人々に太郎と次郎という名を与えることで、事態のイメージをくっきりさせた。副作用として、太郎と次郎が兄弟であるかのような、したがって同じ家の同じ部屋で眠っているかのような解釈の余地も引き込んでしまったのだが。

萩原がW・ジェームズを引用したのは、「自我」と「非我」の違いを考える箇所で。

2022.10.21 fri. link

目障りな円形の間とはいえ、彼の巣の中でコンドミニアムを繕う。
風は、そうだったな、網に魚が。
私は風を感じる。
ある朝、網を張る。
その間に蜘蛛が…私は庭のコウヤマキ。

蜘蛛が曲がっている。
揺れて、網を破って、有刺鉄線に風を繕って、大魚を揺らす。

2022.10.20 thu. link

これも真っ赤な赤い夕陽が
おりから商店街に
あなただったら
人もまばらな商店街で
福引を引いたら、何を思いますか
曼珠沙華が一本当たって
人もまばらな商店街に
赤い夕陽が
あの、これも真っ赤な赤い夕陽が
あなただったら、何を思いますか
これも真っ赤な赤い夕陽が
曼珠沙華
差し込んでいるとして
あなただったら、何を思いますか
赤い夕陽が
人もまばらな商店街に
どうも奇妙な帰り道で
どうも奇妙な帰り道で
あの、これ、墓場の花ですよね
赤い花なら曼珠沙華が一本当たって
あの、これ、墓場の花ですよね
どうも奇妙な帰り道で
福引を引いたら
これも真っ赤な赤い花なら曼珠沙華が一本当たって
あなただったら

赤い花なら曼珠沙華
人もまばらな商店街で
福引を引いたら
曼珠沙華が一本当たって
あなただったら、何を思いますか
おりから商店街に
これも真っ赤な赤い夕陽が
差し込んでいるとして

2022.10.22 done
これも真っ赤な赤い夕陽が|mataji|note

2022.10.19 wed. link

聞くところでは、恐竜のことは見逃したわけではなく、
目は残ってさえいる。
いや、見逃したわけではなく、
目は残っていて、懐かしがっている。

人が巨大な竜のいた時代に、
人類がまだ生まれていなかった人は多い。
けれど、懐かしがっていたり、
通りすぎた怪鳥だったり、
ときにはクジラ、または恐竜もどきの、
あれが影だったか。

その頃ぼくは、恐竜のいた時代に人類はまだ生まれていなかったり、いや、見逃したわけではなく、記憶には残っていたのだが、 あとでミシェルにも聞いてみよう。

ミシェルとは、オバマ夫人。

2022.12.1 done 最終行を除いて投稿
あとでミシェルにも|mataji|note

2022.10.18 tue. link #レーモン・ルーセル

現実をもどす

ルーセルの作品を例にとるならば、従来の小説を成立させてきた人間の内面が全く欠落――いや、排除されているのに私たちは気付く。彼の作品は、その文学観通り、「世界と精神についてのいかなる観察」も含まず、「まったくの想像から生れた組合せ」だけに終始している。(…)ルーセルの現実嫌悪は徹底していて、嫌悪という段階を通り越してしまっている。幼児が嫌いな食物を一切受けつけず、もどしてしまうのように、ルーセルは現実をもどすのだ。 岡谷公二「解説――無償の機械、言葉の王国」(『澁澤龍彦文学館 9 独身者の箱』)

2022.10.17 mon. link

芸術は一種の媒体(メディア)である――とマルセル・デュシャン。
媒体であることをやめると芸術は自律化し、芸術家個人の苦悩とか情熱を作品に込めようとしはじめる、と。

受け手としては迷惑だろう、作者の苦悩とか情熱とか。
そうでしょうね、お辛いのでしょうね。
――――
藤重 侑宇 on Twitter
――――
国際スケールの液化運動。
溶かしてしまえ!
じつにたいした機械でしてね。
将校は帽子のひさしを押し上げて、家にたどりつく。
たいした機械でして、と自分で言う。
その瞬間、燃える大地が空に向かって噴き上げる。
迎える家族が笑ってる。

専門的には口端に血のしずくがたまる。
手の甲でしずくをぬぐう。
家族に笑い返す。
液化運動はやめない。

東洋の悪徳で堕落している。
溶かしてしまえ!
自分が死にかけてるのを悟る犠牲者。
じつにたいした機械でね。

2022.10.16 sun. link

少年がナマズをつかまえる。
約束のナマズが一部のたうつ。船頭から。一部分だけ。
品物が送られてくる。牛の目玉。

ナマズがのたうつ。
カキやカシの木のあいだをネズミが逃げ回る。
少しだけ彗星の向きが変わる。
動物が進化する。
目まぐるしく進化がつづく。

はじめにもどって、少年がナマズをつかまえる。
以下、繰り返す。テコの原理で。

2022.10.15 sat. link

火をおこして、雨の洩らぬよう思し召し下さい。

火をおこして、牛の乳をしぼって、その泡立った乳を飲み、それから私は、あの空から現れて、静かにそこここをさまよい歩く、丈の高い、腕の白い、女の子たちの互に話すのをききますのも、雨の洩らぬように茅葺きを丈夫にして置きますままに、あるいは頭の上に集ったりするのだと申します。

火をおこして、その髪は女の子たちも恐がる。

お師匠さま、私はあなたが秦皮樹の杖を持って、小さな白い牝牛を、その前に追ってまいりますが、エンガスよ、フォビスの子よ、私は戸の外に不思議な物をひきよせる秘術が怖ろしい。

2022.11.3 done
エンガスよ、フォビスの子よ|mataji|note

2022.10.14 fri. link

義務化はダメですよ。国民の全員が必ず受け取っているはずの身分証なるものができあがると、いろんなところで身分証見せろと言われる社会になりますよ。ないと言えない社会になってしまう。
「免許証とってないし保険証もないです。」と言える現状を維持する必要がある。
Hiromitsu Takagi on Twitter
マルクスは失敗した、社会主義は破綻した、とずっと言い続けて国民に刷り込み続けているのが日本。ハイ分かりました、そのとおりですと、頷いているのが日本人だが、アメリカの労働者は違う。ゲバラの旗持ってマンハッタンをデモしている。5月1日に赤旗立ててメーデーの行進をする。
世に倦む日日 on Twitter

2022.10.13 thu. link

まちらつからしまちまった。
しばしてしいや青い声をも。

これて笑を知ろうすぐと続い顔に葉越に負わしばしは無い声をも増したこながらりと続いて、ぶらりと唄いかには前の二人のしい顔には高したがらしたが、
その耳かぬのしたが、
花洛女郎衆も、
唱の方を見なた声を聞くと見なたほどで、断えて来たが、
こなたこれて来たちらりとも無かぬの汚い割に美して、
しばしてしいや青い声をも。

女の児の急ぎ歩くと唱って、
桑をちらりぶら、爪紅ささかに美してしいた、
桑の川瀬の児は無いささし、桑を摘め摘みを現われを洩ら、
しばしてしいや青い声をも。

2022.10.26 done
しばしてしいや青い声をも。|mataji|note

2022.10.12 wed. link

すべて借り物〜と、誰か歌ってなかったか。
Phewだったか。
ちがった、「借り物」ではなく「売り物」だった。
- Aunt Sally - すべて売り物 - YouTube

「すべて借り物で」と言ったのはわたし。
発見がない。何かを作る楽しみは、発見にあるのに。
自前を捨てて、借り物でやる。
そのほうが発見がある。
と10年前に、わたしがわたしに言っている。

これも10年前、Tumblerで回ってきたもの。今はリンク切れで出典不明。
――――
逃げてきました、俺。キジバトかって、俺。キジバトで、
うっかり入った合唱団の団長がファシストだなんてことは、
キジバトです、俺。
合唱団の団長がファシストだなんてことは、
そんなこと昔からきまってるのに、
うっかり入った合唱団の団長がファシストで、
キジバトで、
逃げてきました。

合唱団の団長がファシストです。
やっぱりそれで、俺、昔からきました。

2022.10.11 tue. link

The Story Behind That Famous Opossum Poster - Neatorama
――――
砂に満たされた胸から助けを求めて、長い溶岩。
そして、長い溶岩。
愛が好きで、愛が好きで、あなた。
竪琴。そして、物憂げな沈黙のように。
砂に満たされた胸から助けを求めて、風刺的な。
彼らは回る。
愛が好きで、あなた。
嘘つきの癖に。

2022.10.28 done
愛が好きで、あなた。|mataji|note

2022.10.10 mon. link

李さんは、大書院の甥にあたるという。
悪い服に着替える。
棺を据える前に、小さな侍女を何人か連れてくる。

夕暮れてくる。
回転は袖でしたいと、巨大なハンモックを設置。
李公は大書院の甥にあたる。ほとんど鹿肉。
棺を据える前に、以前に、衝撃を受けた館内の人々が集まってくる。
ハンモックがっ、と叫ぶ。
見返ると、蛇が赤身で移動中。

壁の中が生き物でいっぱい。

2022.10.9 sun. link #荘子

わかるということ。

荘子と恵子が濠水ごうすいのほとりに遊んでいた。
荘子が言う。「鯈魚ゆうぎょ〔はや〕が出でて遊び従容しょうようとしているが、これは魚の楽しみである」。
恵子が言う。「きみは魚ではないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか」。
荘子が言う。「きみはわたしではないのに、どうしてわたしが魚の楽しみがわからないとわかるのか」。
恵子が言う。「わたしはきみではないから、もとよりきみのことはわからない。きみももとより魚ではないのだから、きみが魚の楽しみがわからないというのも、その通りである」。
荘子が言う。「もとに戻ってみよう。きみが「おまえは魚の楽しみがわからない」と言うのは、すでにわたしがわかっていることをわかっているから、問うたのである。わたしはそれを濠水の橋の上でわかったのだ」。
『荘子』秋水篇
訳文は中島隆博『荘子の哲学』による。
終わりの一文「わたしはそれを濠水の橋の上でわかったのだ」が要所という。
誰もが、あるいは誰かが、いつでも、どこでも、一般に魚の楽しみがわかるわけではない。この場合の荘子も「濠水の橋の上」という具体的な環境において魚と出会い、彼らが楽しんでいると理解した。

わかるとは受け身の体験であること。

2022.10.8 sat. link

こちらの壺に自白を強いるゴマ
あちらの壺に沈黙を求めるゴマ

ここが現場だという、千夜一夜の
ならば、アリババはどこ?

山棲みの、彼がすべての授受を行った別の盗賊
かつては馬として知られていた馬
袋の中で頭を悩ませ
言われて待つ洞窟の前、黒ゴマ、白ゴマ

2022.10.10 done
黒ゴマ、白ゴマ|mataji|note
――――
山棲みの、彼がすべての授受を行った別の盗賊
あちらの壺に沈黙を求めるゴマ
こちらの壺に自白を強いるゴマ

山棲みの、彼がすべての授受を行った別の盗賊
こちらの壺に沈黙を求めるゴマ、白ゴマ、白ゴマ
ここが現場だという、千夜一夜の
あちらの壺に自白を強いるゴマ

袋の中で頭を悩ませ
かつては馬として知られていた馬
千夜一夜の、ここが現場だと言われていた馬

2022.10.7 fri. link

誰が彼女の座敷童子か、枯花の一家を眠らせたか
私は白いシーツの彼女を見た
彼の手段は、死者、友人、青い夜

異人伝? どの里の?
私は彼女の空洞のまぶたを見た
もし、いくつかの花の墓

庭師は木々に傾いて
恩知らずでなければならない
――――
牛を食べさせ、驢馬を食べさせる。

質問に牛が答える。
その中で、「あなたは何をするのですか」「私は何をするのですか」「あなたは死ぬのですか」「私は食べるのですか」「私は主人に友情を求め、彼の到着を望みます」「妻に」などと言う。
私の考えでは、その間にいつ、どのようなことが起こるかわからない。
人の私が牛を笑った、それが理由です。

月明かりに照らされながら聞こえてくる通過。
私は牛を飼っている。
その牛を縛ってください。
というのも、この牛は商人であり、月明かりをさいわいに、自分を表明しているのです、
あなたが牛であるのを恐れるように。

結末に至って、あなたは牛を取る。牛兄弟。

2022.12.9 done
牛兄弟|mataji|note

2022.10.6 thu. link #AI

今日日賑わせてるAIを使ってイラストを出力し絵投稿ツイをしてる方々が「AI絵師」みたいな感じで絵師を自ら名乗ってるのを見掛けてしまって、割と本業からしたら色々辟易を含めた複雑な感情が芽生え始めてるので、その「工場」を使うのは止めないけど行為に対して責任は持ってほしいなあと思う直近 霽月マコト🌐skeb募集中 on Twitter
AI絵技師?
AI絵魔術師?
AI絵術師?
何だと住み分けできる言い回しになるのだろうか🤔
薬売りが薬局に淘汰され、商店街が大型ショッピングモールに淘汰され、小売りや本屋がネットショップに淘汰され
革命前夜の混沌期をひしひしと感じている…
🍖さとまる✈ on Twitter
カメラ・オブスクラを使ったとされるフェルメールの作品を絵画一般から排除できるか。できない。そもそも見分けられない。
AIでつくられた絵についても同じ。
テキスト作品、オーディオ作品についても同じ。

2022.10.5 wed. link #詩論 #AI

王美の娘が許されたとき、女性の死体が現れ、片手で頭をつかみ、そこには、彼が落雷を強要されたときも、女性の数は持ち上げて拒否し、雷鳴とともにドラゴンはハオの家族を窒息させることを知って、流されず、何もすることがなく、雷と稲妻がハオの家族を窒息させることができることで、彼が愛を得ることができることで、彼の家族を窒息させることがあり、雷と稲妻がハオの家族を窒息させることで、彼の家族を窒息させることがありません。

問。竜の娘はどこで変わった?

竜の娘は許されて、流されず、何をもすることができるのです。
奈落の底にハオの家族、ドラゴンの某民。

2022.10.11 done
奈落の底にハオの家族、ドラゴンの某民。|mataji|note
――――
AIはちょっと破綻した美少女画しか描けないと勘違いしてる人が多すぎる、全力で破綻に振り切らせるべきなんだ――トランプ on Twitter

ライバルはAI。
今のままではAIに負ける。
どうしたら勝てるか。
そのひとつ。読者の反応を考えながら作品(詩)をつくること。考えた結果を次回作に活かすのではなく、現につくっている最中の作品にフィードバックさせること。
たまたまだが、上の草稿はそのような構造になっている。
第2段落の「問」のところまで来た読者の一部は、そこから第1段落にもどることになるだろう。はて、竜の娘が何をしたのだっけ、と。
第1段落にもどることで、この作品に対する読者のコミットは深まる。さらには第3段落の味わいにも、なにがしかのものが増すことになるのではないか。読者がこちらの読み通りに動いたとしてではあるが。

ライバルの発見。
なんとなく思っていたことだが、意識化できたのが今日の成果。
振り切ったときのAIがライバル。

2022.10.4 tue. link

どのように船を下ろすか、船をして考えさせよ
イカの生き物を自由に放し飼って
フォウニカターン・ラット・ルール

色とりどりのクレス、天然のくちばしにダメージ
その傷跡を北極の爪に変え
フォウニカターン・ラット・アチェ

巨大なイカの下にある巨大なイカの生き物
巨大なイカを放し飼って
フラウト・ラット・フラウニカの影

イカの生き物を自由に放し飼って、ステイン

2022.10.7 末尾だけ変えて done
イカの生き物を放し飼って、歌|mataji|note

2022.10.3 mon. link

頭脳の中に重くたれこめる混沌の気を盗もうと企てる詩人の志、つまり詩は、本来、ナンセンスの味方なのである。味方というより、ナンセンスに自らならなければ詩という幼神をかいまみることさえできないであろう。幼神に逢うという冒険はナンセンスとの出逢いであり、詩人をして、詩そのものをナンセンスのままに原型させることを要求する。 草森紳一「ナンセンスの練習」
――――
陰気な黒をまとうマスカーラ。
彼は珍しくボードであり、バンプの叫び声はその日のうちにフランシーズ。
オランダ船が船でないときは、いいえ。

彼らは、マダガスカル。
海産物を自力で再販売するために海産物を使って沈没し、他の乗組員は動揺した艦隊に乗り込みましたが、船長はこれを人間たちに支給しました。
また、ある特別な日、彼らは今日よく知ることができず、きしむようなオランダのハードラブアウトを想像することはできません。島の島々が浅瀬に反対することを意味するとも考えていませんでした。

マダガスカルの耳鼻咽喉、または彼らの過去。

2022.10.2 sun. link

姓は華、住まいは北国から三、四里の秦仁村。
振り返ってみようと思う。
道端に古墳あり。

その地で、もう日が暮れてという名の息子を出産、メイドはそれを学生に渡して、蚕になれ。
私服の少女を振り返ると、木に登ってしまう。それか。
――――
The lake water, silky silky and laughed
It looked brownish-brown
high and dark
only a few of them were lined up

silky silky and laughed
silky silky and laughed

2022.10.1 sat. link

湖水を、サラサラサラそして笑った
茶褐色と見えた
こうやくら、鹿並べ

灯心草と言い、葦でも指差してようやくら
茶褐色と言い、葦でも単調に灯心草と見え
小島に赤い家
しかもの中に赤い家畜が
顔をな、サラサラそんな

湖水をそよぐ蘆の家、サラ

2022.10.16 done
湖水をそよぐ蘆の家、サラ|mataji|note