人間関係の問題――「鈴鹿山の巻」の場合
「大菩薩峠/百」の「鈴鹿山の巻」には、4人の人物が描かれている。
竜之助、お浜、郁太郎、島田虎之助の4人である。
おもな描写は、お浜から見た竜之助、彼らの住まい、それに竜之助の行為とそれに対する島田虎之助の反応にあてられていて、文字数では1000字ほど、文庫本にして2ページ足らず。
これだけの内容なのだが、登場人物の関係をきちんと(科学的に)記述しようとすると、検討しなければならないことが多い。
まず、竜之助とお浜は「夫婦」である。
これを個人の立場から見ると、竜之助にとってお浜は「妻」である。
お浜にとって竜之助は「夫」である。
男女の関係を双方向で対等に(対等の用語で)記述するなら、両者はたがいに「配偶者」であるということになる。
郁太郎は竜之助の「子」である。
また、お浜の「子」である。
また、竜之助=お浜という夫婦共同体の「子」である。
また、竜之助、お浜、郁太郎は「家族」を構成している。
個人の立場からいえば、郁太郎は家族共同体のメンバーである。竜之助、お浜も同じ。
人間関係を記述する場合、共同体の問題をどう扱うか。
親が息子を自分の「子」だと認識していても、息子は親子の縁を切ったつもりでいるかもしれない。
A 男が B 女を「妻」と認識していても、B 女は A 男を「夫」と見ていないかもしれない。
個人と共同体のあいだにはそういう問題もある。
「鈴鹿山の巻」で、お浜は竜之助を怖がっている。すくなくとも気味悪がっている。
こういう感情をどう表現すべきかという問題もある。
竜之助は島田虎之助にある感情を抱いている。
敵意というようなものであるらしい。また恐れてもいるらしい。
これらをどう用語化するか。「好意」、「悪意」、「敵意」など。
前巻の「甲源一刀流の巻」で、竜之助は剣術の若先生とされている。腕は立つのであろう。
島田虎之助も剣術の人である。
ならば両者は、剣術の技を競い合ったり、剣術というものに対して似た価値観を持つ「剣術界」のメンバーであるとも言える。
個人の立場から人間関係を記述すれば「好意」とか「悪意」とか、あるいは「敵」とか「味方」とかになるが、敵対する同士も同じ価値観を持った共同体のメンバーであったりする。
と、このように人間関係を整理しようとするだけで、もとの「鈴鹿山の巻」の文字数を超えてしまう。
人間関係は難しいのである。
人間関係を科学的に記述しようとしたら、とりあえず「共同体」に関する情報は捨てたほうがいいかもしれない。
たとえば、A が B を妻と認識していて、B が A を夫と認識していれば、そこから A と B は夫婦であるという関係を引き出すことができる。
関係を記述するには、とりあえず「関係情報」を捨てる。
「親子」とか「夫婦」とかの双方向的関係は捨て、「親」、「子」、「夫」、「妻」といった一方的関係だけを記述する。
課題: 人間関係の表現方法。人間関係データベース。
竜之助、お浜、郁太郎、島田虎之助の4人である。
おもな描写は、お浜から見た竜之助、彼らの住まい、それに竜之助の行為とそれに対する島田虎之助の反応にあてられていて、文字数では1000字ほど、文庫本にして2ページ足らず。
これだけの内容なのだが、登場人物の関係をきちんと(科学的に)記述しようとすると、検討しなければならないことが多い。
まず、竜之助とお浜は「夫婦」である。
これを個人の立場から見ると、竜之助にとってお浜は「妻」である。
お浜にとって竜之助は「夫」である。
男女の関係を双方向で対等に(対等の用語で)記述するなら、両者はたがいに「配偶者」であるということになる。
郁太郎は竜之助の「子」である。
また、お浜の「子」である。
また、竜之助=お浜という夫婦共同体の「子」である。
また、竜之助、お浜、郁太郎は「家族」を構成している。
個人の立場からいえば、郁太郎は家族共同体のメンバーである。竜之助、お浜も同じ。
人間関係を記述する場合、共同体の問題をどう扱うか。
親が息子を自分の「子」だと認識していても、息子は親子の縁を切ったつもりでいるかもしれない。
A 男が B 女を「妻」と認識していても、B 女は A 男を「夫」と見ていないかもしれない。
個人と共同体のあいだにはそういう問題もある。
「鈴鹿山の巻」で、お浜は竜之助を怖がっている。すくなくとも気味悪がっている。
こういう感情をどう表現すべきかという問題もある。
竜之助は島田虎之助にある感情を抱いている。
敵意というようなものであるらしい。また恐れてもいるらしい。
これらをどう用語化するか。「好意」、「悪意」、「敵意」など。
前巻の「甲源一刀流の巻」で、竜之助は剣術の若先生とされている。腕は立つのであろう。
島田虎之助も剣術の人である。
ならば両者は、剣術の技を競い合ったり、剣術というものに対して似た価値観を持つ「剣術界」のメンバーであるとも言える。
個人の立場から人間関係を記述すれば「好意」とか「悪意」とか、あるいは「敵」とか「味方」とかになるが、敵対する同士も同じ価値観を持った共同体のメンバーであったりする。
と、このように人間関係を整理しようとするだけで、もとの「鈴鹿山の巻」の文字数を超えてしまう。
人間関係は難しいのである。
人間関係を科学的に記述しようとしたら、とりあえず「共同体」に関する情報は捨てたほうがいいかもしれない。
たとえば、A が B を妻と認識していて、B が A を夫と認識していれば、そこから A と B は夫婦であるという関係を引き出すことができる。
関係を記述するには、とりあえず「関係情報」を捨てる。
「親子」とか「夫婦」とかの双方向的関係は捨て、「親」、「子」、「夫」、「妻」といった一方的関係だけを記述する。
課題: 人間関係の表現方法。人間関係データベース。