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2015-12-09
佐幕派談義
入谷のあたりをぶらついていて、片岡直次郎に出会った。
お数寄屋坊主の河内山宗俊や市中のやくざ者とつるんで恐喝を働いている男である。通称は直侍(なおざむらい)。貧乏御家人だが、いちおう武家だからそう呼ばれている。
「直さんだね」と声をかけた。
「そうだが」
「幕府、つぶれちゃったよ。旗本、御家人がもう少ししっかりしてたらなあ」

知り合いでもないのに話しかける気になったのは、ネットでこんなツイートを見かけたから。
《開国・討幕・明治維新は、たかが現行憲法の押しつけどころではない。もっと巨大な押しつけである。何故、これに反対しないのか。アメリカの押しつけによる開国・討幕・維新反対。明治以後の政体打倒! 江戸幕府再興! と何故言わないのか。》──呉智英bot
そうなんだよな、日本は幕末・維新でやりそこなったかもしれない。やりそこなったのなら、河内山や直侍にも責任の一端はある。

「あんた、佐幕派なのか」と直侍がきいてきた。
まあ、そうだ。明治維新からこっち、右からも左からも維新は肯定されてきたが、呉智英先生とか、野口武彦先生とか、佐幕派の論客だって少数だが今もいる。ゴミみたいなものだが、自分も佐幕のうちだろう。
「おれを責めてるみたいだが、時代を外しちゃいねえか。責めるなら、おれたちの子や孫の世代だろうが」
と直侍は弁解めいたことを言った。
河内山や直侍がさかんに悪事をはたらいていた時代から明治維新まで半世紀ほどある。現代から見れば天保あたりは幕末だが、当時の江戸人に幕末なんていう意識はなかったろう。そう考えれば、直侍の言い分にも理がないわけではない。

「それにな」と直侍は別の弁解を持ちだした。「おれたちだって、世直しはやった」
女犯僧の懲罰がその世直しだったという。女を囲う、女を買う、檀家の女房や娘と密かに通じる。当時、そんな坊主がいくらもいた。河内山宗俊や片岡直次郎はそういう材料を探して恐喝した。美人局(つつもたせ)もやった。僧侶に女を世話しておいて、あとで脅すのである。
「だけど恐喝だろ。それを世直しというかね」
「いうさ。河内山の兄貴じゃねえが、悪に強きは善にもだ。悪のできねえやつに、たいした善はできねえ。そういうもんじゃねえのかい?」
「なるほど、悪人こそが善を行うと」
「それよ。わかってくれたか」
「手段は脅し、ゆすりでも、世直しはできたわけだ」
「それが──」と直次郎は言いよどんだ。「それがそうでもねえ。じつは、してやられた」
事実の有無にかかわらず、女犯を口実に寺を脅す者は、入れ墨の上、叩きの刑に処す──そういう法令が出されたのだという。
「女犯の有無にかかわらずってところがみそだ。つまり、坊主どもはこれまでどおりやりたい放題。だけどそれを懲らしめるのはけしからん。そういうことになったのよ」
直侍は腕をまくって見せた。
前科者であることを示す入れ墨が青黒く刻まれていた。
「どうしてそんなことに」
「ご政道に口出しできるかどうかだな。おれたちは数が少ねえ。それに、つるんで悪事をはたらいても、しょせん一匹狼のあつまりだ。ところが坊主連中は数もあれば力もあり、お上に食い込むつながりもある。ずる賢い連中だよ」

もう少し華々しい活躍はできなかったのか。そう思った。自分のがっかりした表情を見て取ったか、直侍はにやりと笑った。
「でかい山を踏んだ」
「でかい山?」
「そう、でかい山だ。水戸様から五百両ふんだくった」
「水戸様って」と自分はあきれた。「あの御三家の水戸か」
水戸家の下屋敷を舞台に大がかりな陰富(かげとみ)が行われていた。陰富とは公許を得ない違法な賭博である。それをたねに河内山らは水戸家を脅したのだという。
「その件で追われてる」と直さんは言った。「河内山の兄貴はとっ捕まったらしい」
近くで呼子笛が鳴った。捕手が迫っているのだ。
「いけねえ、じゃあ、またな」
そう言い残して直侍は目の前の寺の生け垣にもぐり込み、それきり姿を消した。うまく逃げおおせてくれればいいのだが。

あとで調べたら、河内山宗俊は牢死していた。毒殺だったらしい。取り調べ書類も残ってない。水戸家の不祥事はもみ消されたのだった。
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜はその水戸家から出た。同家の陰富一件が公に処分されていたら、家の評価が下落して、慶喜が将軍になれたかどうか。歴史は変わっていたかもしれない。無自覚であったにしろ、それに彼らの世直し云々は怪しいものだが、河内山らも惜しいところまでは迫ったのだった。

野口先生の本を読むと、これでもかこれでもかというくらい徳川慶喜のみっともなさをあげつらって口惜しがっている。その一方で、慶喜には徳川将軍を国家元首として日本を近代化するプログラムがあったともする。もし、そのような慶喜政権が生まれていたら、
《徹底して世俗的な国家権力を実現していたであろう。明治政府を待つまでもなく、産業革命も鉄道敷設も学校設置もちゃんとやっただろう。国家元首が元将軍だったら、「神聖ニシテ侵スヘカラス」はなかったであろう。この絵に描いたボタモチはしばし味わうに足りるのである。》──野口武彦「徳川慶喜のブリュメール十八日」
徳川慶喜にもチャンスはあった。惜しいところで駄目な選択をしてしまったのだ。

ふたたび直侍に会うことはなかった。直さんは、自身が水戸家の脅迫にかかわったかのような口ぶりだったが、事実ではなかったようだ。河内山の一味として逮捕はされたが江戸十里四方追放の微罪ですみ、その後十年ほど生き延びた。結局は悪事がやめられず、斬首されて終わったのだが。