宇宙犬ミランダ
小惑星ミランダが地球に近づいてくる。
地球に衝突するか否かは不確定。衝突しなければ、地球の引力で加速されて一気に遠ざかり、次に地球に接近するのは530年後という。そんな将来までミランダが存在するかわからないから、事実上ただ一度の遭遇になるだろう。
ミランダの形状は犬に似ている。第一発見者がミランダという女性形の名前を付けたが、地球に近づくにつれて大きな睾丸が目立ってきて、最近は牡に見立てられている。
牡なのにミランダ 牡なのにミランダ
遠い遥かな宇宙から
地球を踏み潰しに 地球をぶっ壊しに
宇宙から来た 宇宙犬ミランダ
そんな歌が、科学的事実を無視して世界中で流行中。人々はミランダの到来を楽しみにしている。
しゃべってるのはお笑いコンビの横井山。
「こんちわ、横井です。おれが監督やります」
「で、おれが音楽監督。井山です」
二人はミランダの歌のヒットに目をつけて映画化を目論んでいる。横井が脚本・監督、井山が音楽・音響という分担。資金をクラウドファンディングで集めようと、ネットやラジオでさかんにプロモーションを続けている。
神楽坂の神社で狛犬を撮影したりスケッチしたりする三人組。東京理科女子大の学生である。
理科女からこの神社まで歩いて10分ほどの距離。神楽坂をぶらついていて立ち寄ることもあるから、彼女らは狛犬を見慣れているが、その狛犬がミランダにそっくりと一人が言い出して、皆で調べに来たところだという。宇宙研サイトのミランダ画像と比べると、たしかにそっくり。という以上に、まったく同じものに見える。何が起きているのか。
「やばいな」と脚本・監督の横井。
「何がやばいのよ」と音楽・音響の井山。
「妄想だと言ってるぜ」
「べつにいいだろう、妄想で。もともとミランダの歌ってのがフィクションだし、それに乗って作る映画もフィクションだ。もとの宇宙犬が妄想だとしたって、かまうことはないだろう」
「そういうことではない」と横井。
「どういうことだよ」と井山。
「いいか、あの学者はミランダ現象が妄想だと言ってる」
「言ってるな。だからどうした」
「なんか、このごろ変だと思わないか。俺たちのことだけど」
「俺たちがどうかしたか」
「した。どうかしてる」と横井。「ラジオの出番が多すぎる。いくら出演料無しでいいからって、こんなにラジオに出られるっておかしいと思わないか。前だったら、こちらからカネ払っても出してもらえなかったぞ」
「ありがたいと思ってる。おかげさまで忙しい」
「そういうことじゃねえよ。今やってるトークだって変だ。50時間の連続トークだぞ。俺たちクラスの芸人に50時間の割り当てって長すぎると思わないか」
「言われてみりゃ、長いな」と井山はライブの経過時間をたしかめる。「すげえ! もう30時間越えてる」
「変だよな」
「だから、何がよ」
「おまえ、30時間のトークがこなせるほどタフか。そんなに粘り強いか」
「映画を作るという夢があるからな。いつもの仕事とは気の入れようがちがう。俺だって粘るときは粘る」
「その粘りがおかしい」
「俺が粘っちゃおかしいか」
「おかしい。おまえほど粘りのないやつはいない。お笑いのネタを考える時だってそうだ。俺がうんうんうなって頭をしぼってるのに、おまえは平気で居眠りをしてる。それでも相方か。ほかのやつらに出番を横取りされた時だってそう。へらへら笑って、ご愁傷さまとか。なんだよ、ご愁傷さまって。自分のことをご愁傷なんて言うか」
「言わないか」
「言わねえよ。とにかくだな、人一倍粘りのきかないおまえが30時間も粘った。どう考えたっておかしい」
「なんだよ、線て」
「きっぱり一線を画す」
「おい、それって、もしかしてコンビ解消とかか」
「いや、解消はない」
「だよな。コンビ解消したら仕事が来なくなっちゃう」
「そんなことじゃない。いいか、あの学者は、ミランダ現象は妄想だと言ってる。ミランダだけが妄想なのではない。ミランダにつながるすべてが妄想なんだ。ということはだな、俺たちが今やってるトークも妄想ってことだぞ」
「へっ、ほんとかよ」
「ミランダにかかわるものはすべて妄想、そう言ってんだよ。トークが妄想ですめばいいが、俺たち横井山の存在が妄想だったらどうなる?」
「どうなるって? コンビが妄想ってことか?」
「そのとおり。ありもしないコンビは解消できない。解消はないって言ったのはそういうことだ」
「解消はなしか。それなら安心だ」
「いいよ、もう。おまえは一人で安心してろ」
踊りながら歌っているのは、テクノポップスの Hogans。神楽坂の神社にいた三人組である。
牡なのにミランダ 牡なのにミランダ
わくわくびくびく 毎日わくびく
遠い遥かな宇宙から
宇宙犬ミランダがやってくる
毎日が絶望 毎日が希望
希望と絶望の板ばさみ アハハ
板にはさまれてパチン アハハ
青春がパチン 希望がパチン 絶望もパチン
やだもう ミランダ
噛みつかないでよ 痛いわよ
触らないでよ くすぐったいわよ
脅かさないでよ おだてないでよ
もうすぐ まもなく 遠い遥かな旅の果て
宇宙犬ミランダがやってくる
Hogans はデビュー即ブレイク中。理科女出身ということも話題を盛り上げている。
「勢いがある」とテレビを見ながら音楽・音響の井山が言う。
「あるな」と横井は気のない返事。
映画監督になる夢がつぶれて横井は落ち込んでいる。世界中でミランダを材料にした歌やドラマや小説が売れているのに。「くそっ、毛が生えろ」とわめく。何にむかってわめいたのか、わからないまま「くそっ」と繰り返す。
「人間は勢いだよなあ。それに比べておまえときたら──」と相方に嫌味を言いかけるが途中でやめる。井山のせいにしたところで、資金集めの希望がつながるわけではない。
「いいなあ、Hogans」といっぽうの井山。こちらはまったくめげてない。「俺たち、Hogans のファン第一号だよな」
そうだったのか? 俺たちが最初の Hogans ファンなのか? 横井はここしばらくの出来事を思い出そうとするが、記憶がとぎれとぎれでつながらない。
天文学の見通しも外れた。すでに知られているように、小惑星ミランダは地球に衝突せず、彼方に飛び去ることもなく、地球を周回する衛星軌道に乗った。
エンディングは「やだもうミランダ、やだもうミランダ」のリフレインをバックに神楽坂散歩といった感じの映像。
そして狛犬のアップ。ミランダと同様、狛犬の睾丸も大きい。
地球に衝突するか否かは不確定。衝突しなければ、地球の引力で加速されて一気に遠ざかり、次に地球に接近するのは530年後という。そんな将来までミランダが存在するかわからないから、事実上ただ一度の遭遇になるだろう。
ミランダの形状は犬に似ている。第一発見者がミランダという女性形の名前を付けたが、地球に近づくにつれて大きな睾丸が目立ってきて、最近は牡に見立てられている。
*
宇宙犬ミランダの歌。牡なのにミランダ 牡なのにミランダ
遠い遥かな宇宙から
地球を踏み潰しに 地球をぶっ壊しに
宇宙から来た 宇宙犬ミランダ
そんな歌が、科学的事実を無視して世界中で流行中。人々はミランダの到来を楽しみにしている。
*
インターネットの動画配信サイトでトーク番組のライブ中継。しゃべってるのはお笑いコンビの横井山。
「こんちわ、横井です。おれが監督やります」
「で、おれが音楽監督。井山です」
二人はミランダの歌のヒットに目をつけて映画化を目論んでいる。横井が脚本・監督、井山が音楽・音響という分担。資金をクラウドファンディングで集めようと、ネットやラジオでさかんにプロモーションを続けている。
*
別のライブ中継。神楽坂の神社で狛犬を撮影したりスケッチしたりする三人組。東京理科女子大の学生である。
理科女からこの神社まで歩いて10分ほどの距離。神楽坂をぶらついていて立ち寄ることもあるから、彼女らは狛犬を見慣れているが、その狛犬がミランダにそっくりと一人が言い出して、皆で調べに来たところだという。宇宙研サイトのミランダ画像と比べると、たしかにそっくり。という以上に、まったく同じものに見える。何が起きているのか。
*
宇宙犬ミランダは集団妄想の産物だとする説を心理学者が発表する。「ミランダ現象」は身体の特定部位への強い関心ないしは執着から生まれたもので、じつはイメージに過ぎないという。*
横井山のトーク。「やばいな」と脚本・監督の横井。
「何がやばいのよ」と音楽・音響の井山。
「妄想だと言ってるぜ」
「べつにいいだろう、妄想で。もともとミランダの歌ってのがフィクションだし、それに乗って作る映画もフィクションだ。もとの宇宙犬が妄想だとしたって、かまうことはないだろう」
「そういうことではない」と横井。
「どういうことだよ」と井山。
「いいか、あの学者はミランダ現象が妄想だと言ってる」
「言ってるな。だからどうした」
「なんか、このごろ変だと思わないか。俺たちのことだけど」
「俺たちがどうかしたか」
「した。どうかしてる」と横井。「ラジオの出番が多すぎる。いくら出演料無しでいいからって、こんなにラジオに出られるっておかしいと思わないか。前だったら、こちらからカネ払っても出してもらえなかったぞ」
「ありがたいと思ってる。おかげさまで忙しい」
「そういうことじゃねえよ。今やってるトークだって変だ。50時間の連続トークだぞ。俺たちクラスの芸人に50時間の割り当てって長すぎると思わないか」
「言われてみりゃ、長いな」と井山はライブの経過時間をたしかめる。「すげえ! もう30時間越えてる」
「変だよな」
「だから、何がよ」
「おまえ、30時間のトークがこなせるほどタフか。そんなに粘り強いか」
「映画を作るという夢があるからな。いつもの仕事とは気の入れようがちがう。俺だって粘るときは粘る」
「その粘りがおかしい」
「俺が粘っちゃおかしいか」
「おかしい。おまえほど粘りのないやつはいない。お笑いのネタを考える時だってそうだ。俺がうんうんうなって頭をしぼってるのに、おまえは平気で居眠りをしてる。それでも相方か。ほかのやつらに出番を横取りされた時だってそう。へらへら笑って、ご愁傷さまとか。なんだよ、ご愁傷さまって。自分のことをご愁傷なんて言うか」
「言わないか」
「言わねえよ。とにかくだな、人一倍粘りのきかないおまえが30時間も粘った。どう考えたっておかしい」
*
「ご覧のとおり」と心理学者が言う。心理学者もトークを見ている。「横井山のお二人も、事態の異常に気づきかかってます。いや、井山さんのほうはまだかな」*
「線を引かなくちゃいけない」と横井が言う。「なんだよ、線て」
「きっぱり一線を画す」
「おい、それって、もしかしてコンビ解消とかか」
「いや、解消はない」
「だよな。コンビ解消したら仕事が来なくなっちゃう」
「そんなことじゃない。いいか、あの学者は、ミランダ現象は妄想だと言ってる。ミランダだけが妄想なのではない。ミランダにつながるすべてが妄想なんだ。ということはだな、俺たちが今やってるトークも妄想ってことだぞ」
「へっ、ほんとかよ」
「ミランダにかかわるものはすべて妄想、そう言ってんだよ。トークが妄想ですめばいいが、俺たち横井山の存在が妄想だったらどうなる?」
「どうなるって? コンビが妄想ってことか?」
「そのとおり。ありもしないコンビは解消できない。解消はないって言ったのはそういうことだ」
「解消はなしか。それなら安心だ」
「いいよ、もう。おまえは一人で安心してろ」
*
「やはり井山さんは理解してないようですな」と心理学者。「監督の横井さんもおかしい。彼の言う一線とは、妄想と妄想でないものを彼らの都合にあわせて切り分けるということのようですが、そんなことができますかどうか。横井さんの理解も身勝手なもので科学的とは言えません」*
宇宙犬ミランダの歌が流れる。踊りながら歌っているのは、テクノポップスの Hogans。神楽坂の神社にいた三人組である。
牡なのにミランダ 牡なのにミランダ
わくわくびくびく 毎日わくびく
遠い遥かな宇宙から
宇宙犬ミランダがやってくる
毎日が絶望 毎日が希望
希望と絶望の板ばさみ アハハ
板にはさまれてパチン アハハ
青春がパチン 希望がパチン 絶望もパチン
やだもう ミランダ
噛みつかないでよ 痛いわよ
触らないでよ くすぐったいわよ
脅かさないでよ おだてないでよ
もうすぐ まもなく 遠い遥かな旅の果て
宇宙犬ミランダがやってくる
Hogans はデビュー即ブレイク中。理科女出身ということも話題を盛り上げている。
「勢いがある」とテレビを見ながら音楽・音響の井山が言う。
「あるな」と横井は気のない返事。
映画監督になる夢がつぶれて横井は落ち込んでいる。世界中でミランダを材料にした歌やドラマや小説が売れているのに。「くそっ、毛が生えろ」とわめく。何にむかってわめいたのか、わからないまま「くそっ」と繰り返す。
「人間は勢いだよなあ。それに比べておまえときたら──」と相方に嫌味を言いかけるが途中でやめる。井山のせいにしたところで、資金集めの希望がつながるわけではない。
「いいなあ、Hogans」といっぽうの井山。こちらはまったくめげてない。「俺たち、Hogans のファン第一号だよな」
そうだったのか? 俺たちが最初の Hogans ファンなのか? 横井はここしばらくの出来事を思い出そうとするが、記憶がとぎれとぎれでつながらない。
*
ところで、心理学者の説は一般に受け入れられなかった。「すべて妄想である」などと言われては、人は困惑するしかない。天文学の見通しも外れた。すでに知られているように、小惑星ミランダは地球に衝突せず、彼方に飛び去ることもなく、地球を周回する衛星軌道に乗った。
エンディングは「やだもうミランダ、やだもうミランダ」のリフレインをバックに神楽坂散歩といった感じの映像。
そして狛犬のアップ。ミランダと同様、狛犬の睾丸も大きい。