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2016-09-15
恋い焦がれてます、わたし
運河を張り巡らした田舎町。あちこちに跳ね橋。
男が小さなブティックの前に差しかかる。
ショーウインドウの灯はすでに落ちて、店の中は暗い。
ふと見上げると、大きく開いた二階の窓から女が上半身を見せ、両腕を夜空に向けて伸ばしている。
「恋い焦がれてます、わたし」
そんなポーズに見える。
白くふくよかな腕が淡い月光を浴びて、ぼんやり光っている。
でも、誰に恋い焦がれているのか。
どこのしあわせ者に彼女の恋は向けられているのか。
いや、そんな者がいるとは限らない。特定の誰かではなく、相手のいない仮の恋心。
むしろ、そういうものではないか。
「それなら」
と男は思う。
「その相手は自分であってもいい。特定の相手がいないのなら、とりあえず自分にも資格はある」
店のドアに手をかけると、鍵はかかっていない。
店に入り、二階への階段をたどる。
はじめの二、三段は足音を忍ばせ、思い直して足音をたてながら登る。
足音を消して不意打ちを食わせても、いいことは何もない。話をしたいだけなのだ。
話をしたいだけ? そうなのか。
「あなたの恋の相手として、わたしも候補の一人に入れてください」
と紳士めかして頼みこむのか。
部屋のドアが細く開いている。
「こんばんは」
声をかけ、返事のないまま部屋に入る。
一人用のベッド、大きめのクローゼット、小型のタンス。一人暮らしの部屋のようだ。
だが、女の姿はない。
隣の部屋をのぞいても、やはりいない。
開け放たれた窓から夜気が流れこんでくる。
運ばれてくる花のかおりに誘われて、男は窓辺に近づく。
「ああ、そうだったのか」
と男はようやく思い当たる。

窓の外は今たけなわの春の夢。
運河を流れてきた小舟が跳ね橋の下を過ぎて行く。
「恋い焦がれてます、わたし」
そんなポーズに見える。
舟の上で女が空に向けて腕を差し伸べている。