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2016-09-14
話者としての一人称複数
話者を一人称複数にすると何かがうまく行く。楽。
客観性を装って話者を隠すより正直。細部を捨てることで大筋が明瞭になる。

11月8日、我々は真珠湾を攻撃した。
その年、我々は関ヶ原で激突した。
我々の船は浦賀水道に差し掛かった。(七福漂流記
等。

どうせ、あいつもこいつもたいした違いはない。そういう認識。

1909年、我々はフランスの新聞で「未来派創立宣言」を発表した。
1912年、我々はミラノで「未来派文学の技術的宣言」を発表した。
1914年、我々はサラエボの一発をきっかけに大がかりな殺し合いをはじめた。第1次世界大戦。
1916年2月8日午後6時、我々は「ダダ」という語を発見した。戦争がなければダダは存在しなかった。
1916年、我々はチューリヒで最初のダダ宣言である「アンチピリン氏の宣言」を発表した。一説に、この宣言は革命家レーニンが書いた。このころレーニンもチューリヒにいたことからの憶説。
1917年、我々はロシアでロマノフ王朝を滅ぼし、ソヴィエト連邦を樹立した。
1918年、我々は「ダダ宣言1918」を発表し、ダダは何も意味しないと宣言した。
1919年、我々はイタリアで未来派の思想を援用して「ファシスト宣言」を起稿、発表した。
1922年、我々は「ローマ進軍」を果たし、ファシスト政権を樹立した。
1824年、我々は「シュールレアリスム宣言」を発表した。

個人やグループの違いを無視すると、流れが見やすくなる。
同時代の出来事には同じ社会的・歴史的背景がある。当たり前だけど。
どれも我々がやったことなのだ。思想に浮かれたのも殺し合いも。

上の我々の歩みのうち、「ダダ宣言1918」が重要。
この宣言によってダダは多数に訴える力をなくした。
文学でも社会運動でも、多数の支持を得ようとしたら意味は必須。意味はないなどと言われたら、たいがいの人はしらける。
けれども、生き残ったのはダダ。運動としては終わっても精神として。
だだ(日本語)をこねる態度や精神。
「地蹈鞴(じだたら)」が訛って「じだんだ」、さらに略訛して「だだ」。