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2016-11-16
ブルトンのおこぼれ
トポールは友人のフェルナンド・アラバールと連れ立って、シュルレアリストたちの集うカフェに列席したことがある。しかし、これは失望以外の何物でもない体験だった。カフェの上席ではアンドレ・ブルトンが絶対の権威として君臨しており、取り巻きがその顔色を窺うように追従している光景にいたたまれなくなったトポールは、こっそり席を立ち、二度と足を向けることがなかった。──ローラン・トポール『幻の下宿人』文庫版解説(宮川尚理)

人はなぜ取り巻くか。

ブルトンは手を使わずに自慰ができたと何かで読んだことがある。
長椅子に寝そべって、証言者の見てる前で性器を自立させて射精したという。
機会があれば、やって見せていたのかもしれない。

人は力のある者を取り巻く。

アンドレはいいやつだったとブコウスキーが書いている。アンドレ・ブルトンとは言ってない。たんにアンドレ。でもブルトンに見せかけてある。
アンドレが「おれ」のうちに来ている。
有名な詩人が滞在しているときいて、女たちが会いにくる。
アンドレはその女たちとやる。
アンドレが出かけた留守にも女がやってくる。「おれはアンドレではない」と言っても女は信じない。そこでアンドレのふりをして「おれ」が代わりにやらせてもらう。アンドレのおかげで女にありつけた。アンドレはいいやつだ、という結論。

これが教祖のそばにいることの利益。
教祖本人であるかのようにふるまって(あるいは、その権威を背負って)、おこぼれにありつく。

権威を取り巻く。教祖を取り巻く。ブルトンを取り巻く。芭蕉を取り巻く。漱石を取り巻く、イエスを取り巻く、孔子を取り巻く。芸能人を取り巻く。あがめる。神みたいに言う。そんなにありがたいのか、うれしいのか。自分なら教祖の100m圏内には近づかない。1km圏にも近づかない。遠くから見て、偉いやつだなあと感心はしても、近寄らない。教祖や権威を後光にして、いばったり、踊ったり、奇声をあげたりしてるのがエコールというもの。

あるとき江戸川乱歩が山田風太郎に言った。
「君はどうも剣呑なやつだ」
これは風太郎の証言。敬愛する乱歩をおもちゃにして遊んだ短編「伊賀の散歩者」にある。