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2017-07-08
別人
顔が似ている。指紋も似ている。
けれども別人だという。
その別人が消えてしまった。

書き置きらしきもの。
私はことにこの町を愛した。
私はこの町のはずれをゆったりと流れる河を愛した。
私の見た男女は、すべて私に近しい者たちだった。
その他の人々も同様だった──私が予見するがごとくに、私を回想する他の人々。
時はやがて来るだろう。たとえ私がこの日この夜、ここに足を止めてしまうとしても。

悪がなんであるか知っているのは、お前たちばかりではない。
悪がなんであるかを知っていた彼は私だ。
私もまた自己矛盾という古い謎に迷い入ったのだった。

消えた別人には、友人、知人、家族がいて、かれらは別人の前方にいるらしい。
地理的前方ではなく、時間的前方。つまり、未来。
書き置き(らしきもの)の中で、別人は知人や家族の未来を予見する。
とはいっても、すでに彼らは未来にいて、別人は彼らの行動を知っているらしいから、予見というより、たんに現状(未来における現状)を述べているだけともいえる。
いっぽう、未来にいる友人、知人、家族らは、過去にとどまっている別人のことを回想している。
ということは、別人の存在は忘れられてはいないのだ。

書き置き(らしきもの)の文面から、別人がどこへ消えたのかわかる。
過去に消えたのである。
では、なぜ消えたのか。
「私もまた自己矛盾という古い謎に迷い入ったのだった」
これが答。別人は「古い謎」にとらわれている。
だが、「謎に迷い入った」というのは文飾。
古い謎にとらわれて、過去にとらえられ、時間に置いて行かれてしまったのだ。
あるいは、迷い残されたとでもいうか。
とにかく知人らに遅れてしまった。

わたしはその知人らといっしょに現在(別人にとっては未来)にいる。
そして消えた別人のことを回想している。
「お〜い」
と別人に呼びかけてみる。

別人はひとりだけ出発点の近くにとどまっている。

それでも知人らを追おうと別人は女装して走りだす。あるいは、男装を捨てて。

顔が似ている、指紋も似ている。
けれども別人だという。
「お〜い」
とまた呼んでみる。