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2018-05-02
魂、及びその不死性の起原
夢の中で私が私について述べているとする。
その場合、「私は──」として言及される私と、「私が──」として言及される私とでは、言及される側の私の現れ方が違う。

私自身が「私は──」と私に言及するとき、言及する私と言及される私はひとつに重なっていて、両者のあいだに何の乖離もない。ひとつに重なっているとは、たとえば「私は駅前を歩いている」と私が言うとき、私は私の内部にいて駅前の光景──駅ビルやバスターミナル、あるいは行き交う人々の姿など──をながめているが、その視野のうちに私自身の姿はないということ。この点で、「私が──」で言及される私と異なる。
「私が──」という言い方で──すなわち「私が駅前を歩いている」と私が言うとき──、その観察を述べている私の視野には、駅前のあれこれとともに私自身の姿が入っている。つまり、観察者の私は私の行動だけでなく私の存在をも語っているわけだが、このとき、言及する側の私と言及される側の私はまったくの同一人物だろうか。
いちおうは同一人物と考えられる。なにしろ、ほかでもない私によって私だと認められているのだから、同一人物でないはずはない。けれども、それでは私の視界の中で駅ビルに沿った通りを右から左に向かって歩いている私が、観察者の私と無関係に行動していることをどう考えたらいいか。
やはり別人なのではないか。
私の視野の中を右から左へ歩いている私は、私の指示によって歩いているのだろうか。ならば、そのような私は私とは別人のはずである。指示する者と指示される者は当然別々の存在であろうから。
それとも私の視野の中の私は、私の意志とはかかわりなく勝手に歩いているのだろうか。それならば、やはりそのような私は観察者である私とはあきらかに別の私である。私から離れた場所にいて、私とは独立した意志で動いている人物なのだから。

この後者、すなわち私自身によって目撃され、「私が──」と第三者的に言及される私が、じつは魂と呼ばれるものの起原であるらしい。また、魂の不死性の起原でもあるらしい。というのは、

非常に古い時代から──そのころ人々はまだ自分自身の身体の構造についてまったく無知だったので、夢の中にあらわれる人の姿に示唆されて、かれらの思考や感覚はかれらの肉体の働らきではなくて、この肉体のうちに住んでいて、人が死ぬときその肉体から去っていく、特殊な魂というものの働らきであると考えるようになったのであるが──このような時代から人々は、この魂と外部の世界との関係について頭をなやまさざるをえなかった。

とエンゲルスも言っていて(引用は松村一人訳『フォイエルバッハ論』から)、この「夢の中にあらわれる人」は、夢見る側の人の意図とかかわりなく勝手に行動しているどころか、夢見る側の人の思考や感覚はこの夢の中の人の働きなのだという。そして、この夢の中にあらわれる人の姿こそ、魂という着想の起原であると。

もし魂が人が死ぬとき肉体からはなれて生きつづけるとすれば、魂にその上さらに特別な死を考えだす理由はなかった。このようにして魂の不死という観念が生まれたのであるが、このことは、人類の発展のこの段階では、人々には慰めとは思われず、さからいがたい運命と思われ、ギリシャ人において見られるように、しばしば積極的な不幸と思われていた。一般に人々が個人の魂の不死という退屈な想像をもつようになったのは、宗教的な慰めの要求からではなく、同じく一般的な無知のために、一度認めた魂というものを、肉体の死後どうとりあつかったらいいか当惑した結果である。

この説のとおりだとすれば、魂の不死性はかなり安直に着想されたことになる。
私の肉体が死んだあと私はどうなるのか。それを考えるだけでも悩ましいのに、さらに加えて私の中の別の私──魂──のその後のことまで考えるとなると、問題は複雑になるばかり。だったら、とりあえず死ぬのは私なのだから、魂については不死としておけば問題の複雑化は避けられる。
こうして魂の不死性が得られたら、次のステップとして、私自身のようでもあり私とは別人でもあるような私の中の人物を、それは私であると決めてしまえば、「私=魂は不滅」という結論が導かれる。エンゲルスは「宗教的な慰めの要求からではなく」としているが、それが思いつかれた経緯とかかわりなく、魂の不滅という結論は「宗教的な慰め」に使える。