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2018-05-16
河童は旅の人に姿を変えていることが一番多い。
ひさしぶりの小説。
一昨夜は井上ひさしの『新釈 遠野物語』を10数ページ。
昨夜は同じく数ページ。

「河童はそのままの姿形では決して人前にあらわれません。ですから姿を見たことはありませんがね、きっと河童です。昔からこの辺では『キーキー声は河童の渡り』というんですよ」

と木賃宿の主人が言う。

主人の話によると、山中では猿やきじに化けていることが多いので、ここでも見分けはつかないのだそうである。しかも彼らは姿形を変えるだけではなく、その大きさも自由に変える術を心得ており、馬蹄ばていの跡に雨が降って出来た小さな水溜みずたまりにも千匹ぐらい隠れていることがあるという。そんな話をしてから主人は最後に「とにかく河童は旅の人に姿を変えていることが一番多いというのが、この橋野に昔から伝わっているいいつたえなのですよ」と言いながら、ぼくをいぶかしそうにじろじろと眺めた。

もしかすると今年はじめて読む小説かもしれない。
調べもの的に再読した小説が何本かあるが、純然な楽しみとしてはこれが最初だろう。それはともかく、小説はいい。書き手の自由が読み手の自由をうながす、とでもいうか。
作者の無責任な──小説を商品として成り立たせる責任のことは別として──妄想が、読者の精神をほぐすのか。
というわけで、宿の主人から疑われたらしい「わたし」──小説中の「ぼく」ではなく、その小説を読んでいる「わたし」──は、これからどうなるのか。いや、「ぼく」でも「わたし」でも良さそうだが──小説を読むということは、そういうことだから──、閉鎖的な村落共同体にまぎれこんだ「ぼく/わたし」は、河童とまちがえられて村人らに襲われ、行方知れずの人物にでもなってしまうのか。それとも宿の主人がにらんだとおり、「ぼく/わたし」は旅人に化けた河童であって、これからその自覚を取りもどすところなのか。

調子に乗って加速したりせず、一日数ページのペースで『新釈 遠野物語』を読んでみようか。夢のなかで物語が先行したりすると楽しいが。