トンデモな弁証法
弁証法と称するものの一部にトンデモなのがあるのではない。
近代以降の弁証法はすべてトンデモ。
エンゲルスによるヘーゲル弁証法のスケッチ。
引用は松村一人訳『フォイエルバッハ論』から。
どこか知らないところに──とエンゲルスは繰り返している──「絶対概念」というものがあって、その「概念」が弁証法に従って自己発展する。やがて自分自身にまで発展した「概念」は自己を外化する。その産物が「自然」(事物)である。これらの過程は人間の頭脳とは独立して進行し……
いや、ちょっと待ってもらいたい。概念が勝手に自己展開するなどと、ヘーゲルはほんとうにそんな説を唱えていたのか。エンゲルスがヘーゲルを不当に貶めているのではないか。
そう思って参考書をいくつか当たってみた。
疑惑は外れて、どうやらエンゲルスの不当な言いがかりというわけではない。
ヘーゲル自身が『精神現象学』のなかで次のようにいっているという。ただし、加藤尚武責任編集『哲学の歴史 7 理性の劇場』から孫引き。
人間が頭で考えて証明すべきはずのものが、命題自身の運動によって結果にたどりついてしまう。しかもこの運動だけが「現実的に思弁的なもの」なのだ、と。さらにまた、この運動を言い表すことだけが「思弁的な叙述」なのである、と。
先に「無敵の弁証法」を書いた時点では、弁証法というものを思弁の術として理解していたのだが、そんな素朴なものでも、生やさしいものでもなかった。あるときは人間の脳内で働き、けれどもそれは副作用的なもので、おもには外部の個々の事物に宿り、さらに外部世界全体にも宿り、また命題という抽象的なものにも宿って、それらを内部から駆動するというのだから、途方もない。
次の引用は今村仁司・座小田豊編『知の教科書 ヘーゲル』から。
ここでも「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」として存在するもの全ての活動原理であることが言われ、同時に「学的認識の魂」として認識主体であるとも述べられている。唯物弁証法(「無敵の弁証法」参照)を待つまでもなく、すでにヘーゲルの段階で弁証法は万能なのだ。
その唯物弁証法について、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』で次のように言っている。
せっかく「現実の事物」と「絶対的概念」を切り離しておきながら、すぐまた「われわれの頭脳のうちにある概念」を「現実の事物」と結びつけてしまったのはどういうわけか。「概念」が「事物」の映像であるとしても、その映像が事物を正しく写し取っているなどとは、何者によっても保証されていない。
人間の頭脳は物質だから物理の法則に従って動き、その限りでは正しく動くが、だからといって撮影装置――すなわち認識装置――として正しく働くわけではない。できそこないの機械だろうと壊れた機械だろうと物理法則には従うのと同様、頭脳も物理法則に従うまでである。そのことを無視し、頭脳は認識装置として正しく働くとする無根拠な前提によって、唯物弁証法は科学を自称している。
近代以降の弁証法はすべてトンデモ。
エンゲルスによるヘーゲル弁証法のスケッチ。
ヘーゲルにおいては弁証法とは概念の自己発展である。絶対的概念が永遠の昔から──どこにかわからないが──存在し、それはまた現存する全世界の本来の生きた魂でもある。それは、『論理学』に詳しく取りあつかわれている、そして絶対的概念のうちにすべて含まれている、すべての全段階を通って、自分自身にまで発展する。それからこの絶対的概念は、自然に転化することによって自己を「外化」し、この自然のうちでは、それは自己を意識することなしに、自然必然性の姿をとって、新しい発展をし、最後に人間のうちで再び自己意識に達する。この自己意識は再び歴史のなかで粗野な形態から脱却し、ついにヘーゲル哲学のうちで再び完全に自分自身に帰る。
ヘーゲルにおいては、自然と歴史のうちに現われる弁証法的発展、すなわち、あらゆる曲折をもった運動と一時的な後退を通じてつらぬかれている、より低いものからより高いものへの進展の因果的関連は、永遠の昔から、どこでか知らないが、とにかくあらゆる思考する人間の頭脳から独立に進行している概念の自己発展の模写にすぎない。
引用は松村一人訳『フォイエルバッハ論』から。
どこか知らないところに──とエンゲルスは繰り返している──「絶対概念」というものがあって、その「概念」が弁証法に従って自己発展する。やがて自分自身にまで発展した「概念」は自己を外化する。その産物が「自然」(事物)である。これらの過程は人間の頭脳とは独立して進行し……
いや、ちょっと待ってもらいたい。概念が勝手に自己展開するなどと、ヘーゲルはほんとうにそんな説を唱えていたのか。エンゲルスがヘーゲルを不当に貶めているのではないか。
そう思って参考書をいくつか当たってみた。
疑惑は外れて、どうやらエンゲルスの不当な言いがかりというわけではない。
ヘーゲル自身が『精神現象学』のなかで次のようにいっているという。ただし、加藤尚武責任編集『哲学の歴史 7 理性の劇場』から孫引き。
この運動は普通は証明が果たすべきはずであったものを形づくっている。この運動こそ命題自身の弁証法的運動である。この運動だけが現実的に思弁的なものである。この運動を言い表すことだけが思弁的な叙述である。
人間が頭で考えて証明すべきはずのものが、命題自身の運動によって結果にたどりついてしまう。しかもこの運動だけが「現実的に思弁的なもの」なのだ、と。さらにまた、この運動を言い表すことだけが「思弁的な叙述」なのである、と。
先に「無敵の弁証法」を書いた時点では、弁証法というものを思弁の術として理解していたのだが、そんな素朴なものでも、生やさしいものでもなかった。あるときは人間の脳内で働き、けれどもそれは副作用的なもので、おもには外部の個々の事物に宿り、さらに外部世界全体にも宿り、また命題という抽象的なものにも宿って、それらを内部から駆動するというのだから、途方もない。
次の引用は今村仁司・座小田豊編『知の教科書 ヘーゲル』から。
弁証法という言葉はヘーゲルの著作や講義のなかにさほど登場するわけではない。しかし、弁証法はヘーゲル的な理性と観念論の立場と密接に結びついていて、ヘーゲル哲学にとってきわめて重要な意味をもっている。弁証法とは「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」であり、「あらゆる真の学的認識の魂」である。弁証法は単なる主観的な論理でも学問的認識方法でもなく、同時に存在するものの理法でもある。
ここでも「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理」として存在するもの全ての活動原理であることが言われ、同時に「学的認識の魂」として認識主体であるとも述べられている。唯物弁証法(「無敵の弁証法」参照)を待つまでもなく、すでにヘーゲルの段階で弁証法は万能なのだ。
その唯物弁証法について、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』で次のように言っている。
われわれは、現実の事物を絶対的概念のあれこれの段階の模写と見ないで、再び唯物論的にわれわれの頭脳のうちにある概念を現実の事物の映像と見た。このことによって弁証法は、外部の世界および人間の思考の運動の一般的な諸法則にかんする科学となった。
せっかく「現実の事物」と「絶対的概念」を切り離しておきながら、すぐまた「われわれの頭脳のうちにある概念」を「現実の事物」と結びつけてしまったのはどういうわけか。「概念」が「事物」の映像であるとしても、その映像が事物を正しく写し取っているなどとは、何者によっても保証されていない。
人間の頭脳は物質だから物理の法則に従って動き、その限りでは正しく動くが、だからといって撮影装置――すなわち認識装置――として正しく働くわけではない。できそこないの機械だろうと壊れた機械だろうと物理法則には従うのと同様、頭脳も物理法則に従うまでである。そのことを無視し、頭脳は認識装置として正しく働くとする無根拠な前提によって、唯物弁証法は科学を自称している。