ニーチェの自由意志否定論
自由意志というものが有ると考える者と無いと考える者がいる。
自由意志が有るとする論者は、強くそのことを主張する。そのために何冊も本を書く哲学者もいる。サルトルなどは哲学書やエッセイだけでは気が済まず、『自由への道』と題する長編小説まで書いた。評判だけ高い作品だったが。
自由意志が無いとする者は、強くは主張しない。ほとんど主張しなかったりもする。
無いものは、無いし。
無いものを無いと言い張っても、甲斐はないし。
そんなふうに思って主張しないのだろう。
その中でニーチェは、強い語調で自由意志が無いことを主張する。
そんなものが有ると考えるのは、泥沼にはまった自分を、自ら髪の毛をつかんで引き上げようとするようなものだ、と。
《自己原因 》は、これまでに考え出されたもののうちで最も甚だしい自己矛盾であり、一種の論理的な強姦であり、不自然である。しかし人間の常軌を逸した誇負は、事もあろうにこのノンセンスに深く恐るべく巻き込まれてしまった。遺憾ながらなお依然としてなお半可通 の人々の頭を支配しているあの形而上学的な最上級の意味における「意志の自由」への要望、自己の行為そのものに対する全体的かつ究極的な責任を負い、また神・世界・祖先・偶然・社会をその責任から放免しようとする要望、けだしこのような要望は、まさにあの《自己原因》であろうとする以外の何ものでもなく、ミュンヒハウゼンそこのけの無鉄砲さをもって、虚無の泥沼からわれとわが身の髪の毛を掴んで助け出そうとするのと同じである。
引用は木場深定訳『善悪の彼岸』から。
自己原因(causa sui)とは、それ以上さかのぼることのできない究極の原因。
ミュンヒハウゼンは、「ホラ吹き男爵」とあだ名されたドイツの貴族。
まとめれば、自己原因とはホラである。意志の自由を肯定することは、そのホラに同調することである。