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2018-07-31
どうせ歴史は落丁だらけ、それならば
上田秋成の「歌のほまれ」は600字ほどの短編。
酷似した歌がある中で、山部赤人の「和歌の浦に潮満ち来れば」の歌だけが秀歌として語り伝えられたのはいぶかしい、などの批評的叙述はあるが、物語的な結構はなく、登場人物もいない。
にもかかわらず、これは物語。ただし、芽の段階でとどまった。
事実を記すことをたてまえとする「歴史」から虚構を許す「物語」への移行の最初のステップを、実物として固定したのが「歌のほまれ」ではないか。

「歌のほまれ」と秋成の先行作品を関連付けて論じた野口武彦「歴史の落丁と物語の乱丁」によれば、秋成の歴史から物語への移行の論理は次のとおり。

もし正史が偽史を抱えこんでいるのだったら、それに接するに疑史の態度をもってし、さらにそれに対置する戯史をもってしてもいっこうにかまわないではないか。どうせ歴史は落丁だらけである。だとしたら、歴史の意図的な乱丁をもってそれと拮抗してどこが悪いというのか。歴史の頁をいったんばらばらにしてまた綴じ直すのに、何の問題があるというのか。

どうせ歴史は落丁だらけ。だとしたら、さらに乱丁させたところで、何の問題があるものか。「歴史の意図的な乱丁をもって」とは、ベンヤミンの論をあてはめるなら、フランス革命が古代ローマを引っ張りだしたようなものか。あるいは、メシアの眼といったところだろうか。対照させる価値はあると思うので、宿題とする。

『春雨物語』はさまざまの発達段階の物語を集めた見本帳としても編まれている。
そのうちの「歌のほまれ」は最もプリミティブな物語。
『物語』の巻頭の2本、「血かたびら」と「天津をとめ」は正攻法で行われた歴史から物語への移行結果。内容的には偽史と同じ。偽史との違いは作者の姿勢だけで、自らを正史と言い張るのが偽史。
この2本につづいて置かれた「海賊」は、さらなる虚構化を目指してやりそこなった失敗作。ただし、ただの失敗作ではない。やりそこなったまま完成した稀有な失敗作。

『春雨物語』の序文で秋成は、

物がたりざまのまねびはうひ事なり。

と書いた。物語めいたものを書くのははじめてだというのだが、これは韜晦ではない。物語というものがはじめて書かれるとしたら、このようなものになるだろうとして着手された物語集が『春雨物語』なのではないか。

※「歌のほまれ」について書いた前記事を補うつもりだったが、話がずれてしまった。次は『春雨物語』論か。