わたしにおいて捨てられた道を別のわたしが歩いていること
トーロー要塞の牢獄でつづった『天体による永遠』の中で、ブランキ曰く。
解釈すると、――
人は意図するにしろしないにしろ、自らの行為を自分で選択する。すなわち人は自由である。
けれども、最終的には宿命をまぬがれない。すなわち人は自由ではない。
いったい人は自由なのか、自由ではないのか。ブランキはどちらだと言おうとしたのか。
自由だと言おうとしたのだろう。
人の側から宿命の側に立場を変えていえば、彼=宿命も気ままに人を縛れるわけではない。なぜなら、彼も「無限の中に足場を築くこと」はできないからで、――
人は自身の運命の「切れっ端」しか獲得できない。
他方で、人は彼がなりえたであろうすべてのことについて、「どこか他の場所でそうなっている」ともブランキは言う。「見捨てられた道」をわたしと瓜二つのわたしが歩いているのだ、と。
人は何でも行き当たりばったりに、または自由意志で選択できるが、宿命を逃れることはできない。ところがその宿命も、無限の中には足場を築くことができない。
解釈すると、――
人は意図するにしろしないにしろ、自らの行為を自分で選択する。すなわち人は自由である。
けれども、最終的には宿命をまぬがれない。すなわち人は自由ではない。
いったい人は自由なのか、自由ではないのか。ブランキはどちらだと言おうとしたのか。
自由だと言おうとしたのだろう。
人の側から宿命の側に立場を変えていえば、彼=宿命も気ままに人を縛れるわけではない。なぜなら、彼も「無限の中に足場を築くこと」はできないからで、――
無限には二者択一がなく、いたる所に場所が取れるからである。一つの地球があって、そこでは一人の人間が、他の地球で他の瓜二つ人間によって見捨てられた道を歩いている。彼の人生は天体ごとに二分される。そして、二度目、三度目の分岐を行ない、何千回も分岐する。彼はそのようにして、完全に瓜二つの自分と無数の瓜二つの変種 を持つことになる。この変種 の方は、彼の人格を絶えず増殖させ、再現するけれども、彼の運命の切れっ端しか獲得できない。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである。無数の地球上に存在する、誕生から死までの我々の一生のほかにも、他の何万という異なる版の我々の一生があるのである。 ――浜本正文訳『天体による永遠』
人は自身の運命の「切れっ端」しか獲得できない。
他方で、人は彼がなりえたであろうすべてのことについて、「どこか他の場所でそうなっている」ともブランキは言う。「見捨てられた道」をわたしと瓜二つのわたしが歩いているのだ、と。