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2019-06-15
わたしにおいて捨てられた道を別のわたしが歩いていること
トーロー要塞の牢獄でつづった『天体による永遠』の中で、ブランキ曰く。

人は何でも行き当たりばったりに、または自由意志で選択できるが、宿命を逃れることはできない。ところがその宿命も、無限の中には足場を築くことができない。

解釈すると、――
人は意図するにしろしないにしろ、自らの行為を自分で選択する。すなわち人は自由である。
けれども、最終的には宿命をまぬがれない。すなわち人は自由ではない。
いったい人は自由なのか、自由ではないのか。ブランキはどちらだと言おうとしたのか。
自由だと言おうとしたのだろう。
人の側から宿命の側に立場を変えていえば、彼=宿命も気ままに人を縛れるわけではない。なぜなら、彼も「無限の中に足場を築くこと」はできないからで、――

無限には二者択一がなく、いたる所に場所が取れるからである。一つの地球があって、そこでは一人の人間が、他の地球で他の瓜二つ人間によって見捨てられた道を歩いている。彼の人生は天体ごとに二分される。そして、二度目、三度目の分岐を行ない、何千回も分岐する。彼はそのようにして、完全に瓜二つの自分と無数の瓜二つの変種ヴァリアントを持つことになる。この変種ヴァリアントの方は、彼の人格を絶えず増殖させ、再現するけれども、彼の運命の切れっ端しか獲得できない。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである。無数の地球上に存在する、誕生から死までの我々の一生のほかにも、他の何万という異なる版の我々の一生があるのである。 ――浜本正文訳『天体による永遠』

人は自身の運命の「切れっ端」しか獲得できない。
他方で、人は彼がなりえたであろうすべてのことについて、「どこか他の場所でそうなっている」ともブランキは言う。「見捨てられた道」をわたしと瓜二つのわたしが歩いているのだ、と。