彗星の権威失墜と救済
今日では誰もが彗星をひどくばかにしている。
と革命家オーギュスト・ブランキ(1805-1881)。トーロー要塞の土牢でつづった『天体による永遠』で。
彗星は優越的な惑星たちの哀れな玩具なのだ。惑星たちは彗星を突き飛ばし、勝手気ままに引きずりまわし、太陽熱で膨張させ、あげくの果てはズタズタにして外に放り出す。完膚なきまでの権威の失墜! かつて彗星を死の使者としてあがめていた頃の、何というへり下った敬意! それが無害と分かってからの、何という嘲 りの口笛! それが人間というものなのだ。
人々は彗星の非力を言ういっぽうで、その巨大さゆえに地球が彗星の衛星にされかねない可能性や、地球に衝突したばあいの破壊力といった不安も彼らの説につきまとった。ブランキは、それらたがいに矛盾する、あるいは内部的に矛盾をかかえた諸説を批判して、彗星とは「謎の役割を果たすだけ」の「定義不可能な物質」とするに至る。科学の論法で話をすすめながら、まさかの結論なのだが。――
彗星はエーテルでも、気体でも、液体でも、個体でもない。天体を構成しているどんなものとも似ていない。それは定義不可能な物質であり、既知の物質のいかなる特性も有していないように見える。それは、しばしの間それを虚無から引き出し、再び虚無の中で転落させる太陽光線がなかったら、存在することさえもできない。
宇宙の記述の中で、彗星の存在は完全に無視されている。それらは何でもない存在であり、何もしないし、ただ一つの役割、すなわち謎の役割を果たすだけである。
ブランキは彗星のあり方に自分を重ねている。
いや、逆か。ブランキは自分のあり方を下敷きに彗星の姿を描き出した。60代もなかばを過ぎて脱出不可能な要塞の一室に幽閉され、そこで生涯を終える覚悟も迫られたろうブランキにとって(実際にはトーロー要塞は最後の牢獄にはならなかったのだが)、自己を救い出すには非科学を承知の論理によるしかなかったのではないか。
以下で、「天文学」や「科学」を、「歴史」や「革命」で置き換えると、「彼ら」はブランキその人となる。
とにかく、彼らは、星空の最も美しい夜々にしばしば抜きんでて輝く、無害で、優美な被造物なのだ。もしも彼らがやって来て、罠にかかった筬鳥 のように生け捕りにされるとしても、天文学もまた彼らと共に生け捕りにされるのであり、彼ら以上に脱出は困難なのだ。彼らこそまさに、科学上の悪夢である。他の天体に比べて何と対照的であることか! 対立する二つの極、あらゆるものを押しつぶす巨塊と重量のない存在、大きいものの極限と空無なるものの極限。
(引用は浜本正文訳『天体による永遠』から)