例えば「われは思う」だの、或いは「われは欲する」だの
いつでもなお無害な観察者がいて、「直接的確実性」が存する、と信じている。例えば、「われは思う」だの、或いは、ショーペンハウァーの迷信だった「われは欲する」だのがそれである。いわば、ここでは認識が純粋に、赤裸々にその対象を「物自体」として把握しえられ、主観の側からも対象の側からも偽造が生じないかのようである。しかし「直接的確実性」も、「絶対的認識」や「物自体」も、同様にそれ自身のうちに《形容矛盾》を含んでいる。 ――ニーチェ『善悪の彼岸』(木場深定訳)
我思う、ゆえに我あり――という。
我思う、までは良しとする。我らしきものがいて、何かを思ったのである。だからといって、そのことが、我が存在することの根拠にはならない。
逆である。すでに我が存在するから、我が思う。
我の存在が保証されていない段階での「我思う」はひとつの現象にすぎず、何者が主体なのか客体なのかも定まらない。そのような現象をもって我の存在の根拠とできると考えるには、その判断に先立って暗黙理に我の実在を仮定していなければならない。
哲学は一般に砂上の楼閣。
何故にわれわれに何かしら関わりのあるこの世界が――虚構であってならないはずがあろうか。そしてその場合、「しかし虚構にはやはり創始者があるはずではないか」と問う者に対しては、――何故に? とはっきり答えたらよかろう。この「あるはずだ」ということも恐らくは虚構に属するはずのものではなかろうか。 ――同前