zakki no.19

[2021.12.18 - 2022.1.24]

2022.1.24 mon. link

萩原朔太郎の詩「山に登る」や「さびしい人格」の文法的破綻などを例に三好達治が言うには、

人称の単数複数、空間の位置づけ、或は文法的論理の無視等は、この種の混用誤用曖昧――要するに一種の誤謬は、右の引例に見るやうなのはほんのその一部であつて、私は特にその指摘に容易な場合をとつて指摘を試みたまでである。指摘をするとなると容易にけぢめのつけ難い程度の軽度の(或は複雑にこんがらかつた)その種の用法ゆきかたは、この作者の全作品の全頁にさまざまの形態ニュアンスでゆき渡つてゐるといつても殆んど過言ではあるまい。 ――三好「朔太郎詩の一面」

2022.1.23 sun. link

安岡章太郎の小説『私説聊斎志異』を読んだ。引き込まれて読んだという面白さではなかったのだが――。

『私説聊斎志異』は1973年秋から翌春にかけて『朝日ジャーナル』に連載。
作中の実時間は、連載期間より1〜2年さかのぼった時期の2カ月余りで、この間、語り手の「私」は長編小説を書くべく京都の寺にこもっているが、筆は進まず、市中を歩き回ったり、大阪に友人をたずねたりする。

「私」の年齢設定は51歳。
著者の安岡章太郎は1920年生まれだから、この年齢は安岡の年齢でもある。
51歳という年齢は、『聊斎志異』の作者・蒲松齢にも重なる。
蒲松齢は科挙の予備試験である県試、府試、院試の三試験にいずれも首席で合格したが、19歳で受けた本試験の第一段階である郷試に失敗すると、その後、ついに第一段階を突破できず、51歳で受けた郷試の落第を最後に、ようやく受験をあきらめたとされる。
安岡あるいは「私」は、3年にわたった自身の受験浪人の体験から蒲松齢の30年余りにわたる不合格体験に思いを馳せ、また51歳という時点においても蒲松齢を鏡にみずからを映してみる。そのように自身と蒲松齢を重ねあわせる中で、自身の過去や交友関係を振り返り、『聊斎志異』の怪異譚と作者について考えをめぐらしたのが『私説聊斎志異』である。

ただし、『私説聊斎志異』は私小説ではないだろう。
「私」が小説を書くために寺にこもったとあるのも、安岡側の事実かは不明。その実否よりも、寺にこもった期間が2カ月とされているのがおもしろい。この期間は、『聊斎志異』の一話「労山道士」で王という人物が山にこもった時間に相当する。
若いころから仙術にあこがれていた王は、労山に仙人をたずねて弟子入りするが、山に薪取りに行かされるばかりで、いつまでたっても術を教えてもらえない。とうとうねをあげて労山を退去することになるが、この修行期間が2カ月なのである。
去るにあたって王は、数百里の道をやってきて何ひとつ覚えられずに終わるのは悔しい、せめて一番簡単な術でいいから何か教えてもらえないかと仙人に頼む。仙人は承知して壁抜けの術を王に授けるが、帰宅した王が人々の前で術を披露しようとしたところ、壁にぶち当たって王は昏倒――というのがこの一話の結末。

何はともあれ、私もまた家には帰らなければならない。そして帰れば私も「労山道士」の男と同様、女房から二箇月間を家の外で空費してきたことを責め立てられ、何等得るところのない才能をあなどられるであろう。うかつに、壁抜けの術を会得したなどとツマらぬことを自慢しても、得るところは額のコブぐらいでしかない。 ――安岡章太郎『私説聊斎志異』

王の山ごもりと「私」の寺ごもりの期間がともに二カ月であることを作者は承知している。この一致はたまたまというより、王の期間にあわせて「私」の寺ごもりが設定されたとみるほうが自然ではないか。そんな気がする。

受け身の読書としてよりも、作品の構造とか発想の由来とかの詮索がおもしろかった読書。ほかにもあれこれあり。

2022.1.22 sat. link

どうしてそんなところに目が。しかも青い目だという。

青い目|mataji|note

科学的には起こりうることが、主観的には不合理に見えてしまう。
どうしてこんなところに青い目が、と。

2022.1.21 fri. link

合理主義(社会主義・市場原理主義)の限界|マクシム|note
世界で最も「市場原理主義的」だった国|マクシム|note
「市場原理主義は、成長の邪魔だ」|マクシム|note

2022.1.20 thu. link

すでに街頭には出陣学徒を送る喊声が、灯火管制の闇をゆるがせて、あっちこっちにどよめいており、学生たちの応援歌の合唱や太鼓の音が、ひさしぶりの解放感にひたるように湧き起こってくるなかで、兼松の奏する「ドナウ川のさざなみ」とも「宵待草」ともつかぬハモニカの音は掻き消されそうになる。けれども、そんな中で兼松は一人、明治、大正とつづいた古き良き時代の学生生活を謳いつづけるように、頑固に執念深く、首をふりふり、そのメロディーを奏し止めないのであった。 ――安岡章太郎『私説聊斎志異』

昭和18年(1943)秋。
「ひさしぶりの解放感」とは、兵役を免除されていた学生層の後ろめたさが学徒出陣によって解消されたことを指す。
兼松は語り手の予備校時代の友人で、今は一高生。

待ち針 - Wikipedia

2022.1.18 tue. link

「月夜の晩の縄梯子」というフレーズが三好達治の詩「駱駝の瘤にまたがって」にある。あった。
きのう読んだ。読んで、待てよ、それは俺のフレーズではないか、俺オリジナル――と思いかけたとは言えない、はじめからそうは思わなかった。

ずっと昔、「駱駝の瘤に――」は読んだことがあり、「月夜の晩の縄梯子」はそのおりに我が詩囊に入り込んだフレーズにちがいない。語彙。句彙。知らずしてそこに納まっていたものが、後年、つまり最近になって脳の表層に浮かんだり消えたりしていたということ。

達治の詩にある「月夜の晩の縄梯子」は「朝は手錠といふわけだ」に続く。
このつながりは記憶にない。泥棒の自覚はなかった。

[追記 2022.1.24] こんなのがあった。
月夜の晩の縄梯子 - Magazine Oi!

2022.1.17 mon. link

今朝の新作
暗がりのダーク|mataji|note

歌うとしたら、
泥だらけ〜の|人格〜の|ように
……
もたついたか。

童謡という志向。わざ歌、予言歌。

豚はころりと、豚はころりと
谷の底からよせばよかった
舐められて、山門の甍(いらか)を隠す、餅や

牛はころりと、牛はころりと
蝶は舞い舞う、ひらりひらり
踏まれても、照る月の激しかれとは、沼や
……
――はやり歌|mataji|note

2022.1.16 sun. link

ヘン、ゼル、トグ、レーテル
わかるとかわからないとか
そんなことは、どうにもならない
……
ヘン、ゼル、トグ、レーテル
ヘン、ゼル、トグ、レーテル

繰り返せば歌になる
――――
machine aided

たかが人間に何ができるか、と言って言い過ぎなら、たかが自分に、だが。
エフェクターを使うギタリストなら知ってるだろうこと。
それ以前に、楽器奏者なら知っている…とは言えないな。楽器がなかったら、奏者なんてどうにもならない。たかが奏者のぶんざいで、というもの。

虎落笛【もがりぶえ】
冬の寒風が柵(さく)や竹垣に吹き当たってヒューヒューなる現象。物理的には障害物の風下側にできるカルマン渦によって起こるエオルス音である。――虎落笛とは - コトバンク

2022.1.14 fri. link

男の死体をいろいろに動かして、伊勢志摩、伊勢志摩
どうせ死体は隠すのだから
伊勢は二重の犯罪に負わされて
そこへ警官が現れてくれれば、あらゆる難関が…

ウィとかノンとか誤魔化…

章句が伸びないときは手駒を呼び出す。
たとえば鍬形。

2022.1.11 tue. link

西武池袋線高麗駅前に赤い2本の柱が立っていて、大きく「天下大将軍 地下女将軍」と書かれている。これは何だろう。この地が朝鮮半島ゆかりの地であることは知っている。有名な高麗神社があるし、近くには九万八千社という不思議な名前の神社もある。九万もコマではないのか。この地方には7世紀に朝鮮半島から来た人々を入植させたという歴史がある。
――天下大将軍 地下女将軍 - mmpoloの日記

以前、高麗駅に立ち寄るバスを何度か利用したことがある。
バスで通過したこともあり、鉄道で高麗駅まで行って乗り換えたこともある。
このトーテムポールみたいなものには憶えがない。何度か再建されてきたというから、ポールのなかった時期だったのかも。
将軍標(チャングンピョ)というとのこと(将軍標 - Wikipedia)。

この将軍標は西武池袋線の高麗駅の広場にも建てられている。
高麗駅の将軍標は何度か再建されており、初めて立てられたのは高麗駅の方が早いのである。
因みに、高麗駅前のものは木製である。
――渡来系の人々の精神的拠り所・・・高麗神社 - エピローグ

2022.1.10 mon. link

鍬形さん、鍬形さん…
と今朝のことだが、鍬形さんなる人物を呼び出して何をしようとしたのか。
何かのつもりがあって書きかけたのだが。

2022.1.9 sun. link

推敲しすぎない。
野放図に、荒っぽく、とぼけて。

相手の態度のあまりの急変。
顔に目がない。
黒檀の大時計の前に立って、ゆだんなくピストルを構える。
閣下の、大統領の直命だという。検事の令状を持参しているという。神妙にしろという。
もしかすると、「犬」時計? それなら辻褄はあうのだが、
それ以前の問題として、顔に目がない。

「鍬形さん、鍬形さん」
と、そのころ警部補だった鍬形さんを呼ぶ。
相手の態度が急変して、顔に目がない。
――顔に目がない。|mataji|note

材料は江戸川乱歩『黄金仮面』から。
制作過程を振り返ると、もっと神経質なものにもなり得たが、踏みとどまった。
滑らかにしすぎない。合理的にしすぎない。
とぼける。

主語のない表現の利点。事態はあっても、主体はない。
たとえば、鍬形さんを呼んだのは誰か。

2022.1.6 thu. link

け‐れん【外連】
① 芸の本道からはずれ、見た目本位の奇抜さをねらった演出。放れ業(わざ)、早変わり、宙乗りなど。歌舞伎や人形浄瑠璃に多い。
※滑稽本・狂言田舎操(1811)上「倉さんは声の好上(いいうへ)に、けれんをまぜて語る」
② はったりやごまかし。まぎらかすこと。
※歌舞伎・霜夜鐘十字辻筮(1880)四幕「へん、山師の玄関を見る様に、装(なり)で一番脅す気でも、そんなけれんを喰ふものか」
[補注]「外連」は当て字で、語源については未詳。
――外連とは - コトバンク

主体の外部にあって分裂を装い、しかしその内部では辛くも統合を保ちつつ、他人ひとの目をくらます点に目標をおいた早替り劇
――2021.12.3記事

2022.1.5 wed. link

私は、しばしば、夢というものの成立が、夢の脈絡の流れとは反対の方向をもつのではないか、という思いに捉われる。夢というものは、まず、その最終段階が私達に与えられて、最終部が与えられるや、そこへいたる脈絡、あるいはそこへ収束する「解釈」として、夢の全経験が一挙にその上に開いてくる。最終部の生起が何によるかということはこの際問わない。しかし、例えば、眠っている私の脚の組み方のごくささいな異常が、私に高所よりの失墜という最終部の情景への動機モテイーフをもたらすと、その動機を「実現」するために、高所よりの失墜という脈絡が、瞬時にして私の裡に成立する、とまあ、このように私には思えてならないのだ。
――岩成達也「年表のシュールレアリスム――夢の筋を辿る試み」(『シュルレアリスム読本―2 シュルレアリスムの展開』)

夢とは、まず最終部が与えられて後、その最終部を説明すべく生まれるストーリー。
「私的な仮説」と遠慮気味の前置きがあるが、実験は可能だろう。掲載誌は1981年5月刊。すでに解決されてるのかも。

関連記事: 2021.10.25

2022.1.4 tue. link

もうひとりの壁抜け男。
「いざというとき、さっと脱げるようにだ」
それにしても、どうしてそんなに素早く服を脱がなければならないのか。
まあ、いいか。すでに結果は出てるだろうから。

最年少の若さの探偵。←タイトルにどうか

わたしは義理の人なので、
カニチとは、かの新人が直面した地をいうか…

結果:

2022.1.3 mon. link

喉を鍛えてゴンドラの船頭になる。
潮来でもいいか。近いし。語学もいらない。

昨日の続き。
先祖は秦の乱から逃れるために妻や民を連れ、この地にやってきて、二度と帰ってこない。
どこへ? どこへ二度と帰ってこなかったか。
その後、彼らは世間から隔絶された存在となる。
何時の時代かと聞くと、「漢も魏晋も知らない」と言う。

もっとシンプルに。

森の奥に丘がある。
いつの時代かと聞くと。
首をかしげて、桃の花の林を指差す。
漢も魏晋も知らないという。
今がいつの時代かもわからない。

もとのストーリーがたどれなくてもかまわない。
別の物ができたということ。

書き初め
セディノット、スアドロム・アイル|mataji|note

2022.1.2 sun. link

犬が吠え、水の流れる音がする
「桃源だ」
「何か言った?」とガール

山なのに?
川の漁師さ

とりとめなく始める。名はジェームズ。西側のスパイ。
ニワトリを出すか出さないか。
出すとしたら、いつ出すか。
007の世界にあふれ出すニワトリの大群 or それとなく横切る一羽。

ニワトリは出るか出ないか。
出るとしたら、いつ出るか。鳴くか。鳴くのがさきだろう。

「桃源郷」
「なんのこと?」
この辺はそう呼ばれてる。標高は海と同じ。
「なんのこと?」と繰り返す。
人がいる。
いつの時代かとその人に聞くと、首をかしげて桃の花の林を指差す。
漢も魏晋も知らないという。今がいつの時代かも知らない。

この流れだとボンドは不要か。ボンド・ガールも。

[追記]
ボンドもボンド・ガールも残して整理→2023.6.10

2022.1.1 sat. link

壁抜け男のことは誰もおぼえてない。
地味なやつだったから。
まったく無名の人物だったが、名はデュチュール。無名でも、名前はあった。
捕らえどころのない幽霊みたいな存在。それゆえの壁抜け男。

ある晩、デュチュールが自分のアパートの玄関にたどりつく。
独身者用の小さなアパート。四階建て。
不意の停電。闇の中でしばらく手探りをつづけるデュチュール。
そして点灯。気がつくと自分は四階の踊り場にいる。
何が起きたのか。
玄関のドアには鍵がかかっていて、通り抜けられないはずなのに。
自分の発見。壁に妨げられないわたし。

鼻眼鏡をかけた登記庁の三級役人で、名はデュチュール。
わたしがこれからも無事でありますように。

2023.8.26 Fedibird に投稿

2021.12.31 fri. link

すりの子も 春さびしとぞなげくらむ。三社サンジヤの春の祭り 過ぎ行く――折口信夫

自分はいつ仲間とはぐれてしまったか。
かつては水草を追って水辺をたどり、後には歌謡、曲芸をもって諸国を渡り歩き、近年なら町ですりを働き、村では鶏を盗んで生きてきた仲間と。折口日本史。

2021.12.30 thu. link

「最良の文章はたいがい偶然から生まれるが、カットアップの手法が明示されるまで、作家は自然な偶然を作り出すすべがなかった」とウィリアム・バロウズ(The Cut-Up Method of Brion Gysin)。

たいがいは偶然から生まれる。
バロウズにしてそうなのだから、余は知るべし。
個人が自分の頭から生み出したものに、ろくなものはない。少なくとも自分の場合は(バロウズと並べるのもなんだが)そう。
カットアップは考えたり議論したりするものではない、ともバロウズ。
ギリシャの哲学者たちは、2倍の重さの物体は2倍の速さで落下すると考えていたが、2つのオブジェクトを机の端から押し出して、それらがどのように落下するかを確かめることはしなかった。
言葉を切り取って、何が起こるかを確かめよ。

2021.12.26 sun. link

私が思うことは、マンガや本は生き残るが「産業」としてはクエスチョンだということだ。今私が考える「未来の出版」とは、限りなく町のパン屋さんに近いイメージのそれである。書物作りは、そもそも手作りパン屋さん程度の事業規模が適正だったと思うからだ。(2009年7月19日)
――01 町のパン屋さんのような出版社(再録)|竹熊健太郎|note

ツイートっぽいやつの代わりに雑記を書くようにしつつある。ブログとマイクロブログの間みたいな雰囲気で、ここをやっていきたい。近ごろの様子もログだけ残し、年内で投稿も止めるつもりだ。雑記、ブックマーク、本、などは、これまで通りTwitterに流すので、今度の場合はTwitterアカウントは消えない。
――ブログとマイクロブログの間

2021.12.24 fri. link

屠畜に携わるものは遊牧社会でも差別されるという話の流れで、

清水 それは、集落の端に隔離されてたりするんですか。
高野 遊牧社会なので、集落はなくて動いているけど、前にも言ったようにエリアはわりと決まっています。被差別氏族はあちこちのエリアを巡回しているみたいです。移動する民は信用ならないという考え方はいろいろな所にありますよね。ヨーロッパで差別されてきたロマ(ジプシー)も放浪しているし。でも、鍛冶屋とか鋳掛けとか刃物研ぎ師とかっていうのは、同じ場所に定住していても仕事にならないわけですよね。
清水 そうですね。エリアがあって、回っているはず。
高野 回らなきゃいけないんですよね。あと、芸能もそうですよね。ソマリではつい最近まで、芸能も全部、被差別民がやってたんですよ。
(……)
清水 網野善彦さんは、南北朝時代くらいまでは差別がわりとない社会で、後に差別されるようになる職業の人たちも自由に各地を遍歴していたと主張したんですけど、地に足をつけて生きている農民には、そうではない人たちを見下す意識はあったと思います。
――高野秀行・清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』

2021.12.21 tue. link

戦場で人は馬鹿面になる――と草森紳一の説。


額に手をかざして彼方を見やる人物が『平治物語絵巻』には10体以上描かれているという。
この所作は草森によると、視野を切り取って自分の見たいものを見たいという願望の現れである。だが実際には見たいものが見えていない。その疑心ともどかしさは自然に口を開かせるものであり、人は阿呆の面相をおびざるをえない。

『平治物語絵巻』がうかがわせる武者たちの華麗な軍装とは裏腹の周章、放心、残忍。
『平治物語』が伝える中心人物のぶざまなエピソード。平家方の鬨の声に震え上がった藤原信頼は馬に乗りそこなって頭から転落し、一方の平清盛も敵の声に怖じてかぶとを前後ろにかぶってしまう。
これらを材料に草森は、「知性が喪失し、幼童帰りしてしまうところが、戦場なのである」とする。


絵巻をひもどくにつれ、炎上する修羅場、殺戮の三条殿へと私たちの目は入っていくのだが、どの武者の顔も、精神の緊張をしめしていない。深刻すぎるか、放心しているか、顔だけをみると、その勇壮な軍装に似つかわしくない烏滸おこの表情をしめしているのである。
戦場とは、そういうものなのではないか。精神が剥落して、混沌のナンセンスの海にとっぷり顔をひたしてしまうところではないか。烏滸にならなければ、戦場を生きることはできないのではないか。戦国の武将の、精神のみなぎり、リンとした表情を示した、よく私たちがみる絵などというものは、一種のプロパガンダであり、詐欺である。戦場ではみな自己が消亡してしまうはずであるからだ。精神が知性であるとすれば、知性が喪失し、幼童帰りしてしまうところが、戦場なのである。 ――草森紳一『日本ナンセンス画志――恣意の暴虐』

どうしてこんな馬鹿面ばかりの絵ができてしまったか。
それは『平治物語絵巻』の作者がハードボイルドな目を持っていたからだと草森は言う。ハードな目とは、事態をありのままに見る「知性」の目である。その目が、修羅場の武者たちの顔に立ち上ってくる滑稽なものをとらえたのである。
ハードな目を備えていたのは『平治物語』の作者も同じ。また、かぶとを前後ろにかぶった清盛の、「主上に背を向けるのを恐れて逆にかぶるのだ」との見苦しい言い訳をたしなめた息子・重盛もそのような目の持ち主だったのではないか、と。

画像出典: 平治物語絵巻 平治物語絵巻

2021.12.19 sun. link

Morning on the Farm (1897) – The Public Domain Review

2021.12.18 sat. link

ベンウェイという医師の言。『裸のランチ』の登場人物。

デモクラシーは癌性のもので、その癌は役所ビューローだ。役所は国家のどこにでも根をおろし、麻薬局のように悪性のものになる。そして、たえず同種のものを増殖してどんどん成長し、ついには、抑制するか除去するかしないかぎり宿主の国家の息の根をとめることになる。役所ビューローは純粋の寄生的有機体なので、宿主がなければ生きることはできない。(これに反して協同組合は国家がなくても生きることができる。これこそ、たどるべき道だ。これは個々の独立体の活動に参加している人びとの必要を満たすために、それらの独立体をまとめあげるものだ。しかし役所ビューローはその存在を正当化するために必要を作り出すという反対の原則に従って活動する。)官僚ビューロー制度は癌としても間違ったもので、無限の可能性、分化、独立の自発的活動という人類の進化の方向からそれて完全なヴィールスの寄生生活を目指している。 ――ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』(鮎川信夫訳、1987年)

官庁に協同組合を対置した無政府組合主義。
作者バロウズの考えでもあるだろう。
協同組合は国家がなくても生きられるとするのは誤り。残念だが。


ラジオか。