2021.12.17 fri. url
ジャンとポールチョキが飛ぶ、グーが飛ぶ、江戸時代の剣士が斬る
「武蔵です」
「小次郎です」
一人で旅をする、エリカの咲く村に行く
隣の部屋で、女中に生ませた子が泣いている
「武蔵です」礼を言って去る
メロディは付いている。
なんとかしてやれ、生きてるうちに。
彼の文体は生彩がなく、中性的である。ひとたび確認の領域――つまり、公然たる陳腐さ、《……がある》とか《ある距離のところに位置している》とかの領域――からはみ出すたびに、……
通常の書き言葉の意識の干渉を排除し、鋳型によって製造される偽のリアリティを破壊して、断片的にスポットをあてた「事実」をとり出す彼の方法は、シュルレアリストのそれにきわめて近いといえるかもしれない。「自然発生的なものは自分の意志で作ることはできない。しかし、予期しえない自発性の要素は一対のハサミで導入できる」と彼は言う。悪とは、個人の生活の自発性を損なうものである。外側から人間の生活を規制し支配しようとする悪の力に対して、彼は「切り刻み」の方法を対置し、自己を圧迫してきた既成の秩序を破壊しようとしたのである。 ――ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』訳者(鮎川信夫)解説
インナ タバコって、へんなもんだな。タバコすう人は、おちついてみえる。そいで、おちついた人のやる通りやって、タバコのむと、おれもおちつくみてえだ。
ローマ (微笑)手を出してみな。
インナ (手を出して)ダメだなあ。ふるえてるもん。
ローマ ダメじゃねえさ。牛みてえな野郎なんか、おれは買わねえからな。やつらは鈍感なだけよ。何事にも悲しまねえし、だれも悲しませねえ。シンケンじゃねえのさ。いいからいいからコマコマっとふるえてろよ。磁石の針は、とまる前に、ふるえるもんだぜ。おまえの手はな、北極がどこにあっか、知ろうとしてんのさ。それだけのことよ。
――ブレヒト「おさえればとまるアルトゥロ・ウイの栄達」(長谷川四郎訳)(『ベルトルト・ブレヒトの仕事 4 ブレヒトの戯曲』所収)
抑圧が強く煩瑣になればなるほど、それらをかいくぐり、そこから逸脱し、抑圧をはねかえそうとする衝動が強くなるのは当然である。その逃道すら封じられたとき、無力な者たちは、どういう反応をおこすか。
抑圧の煩瑣な形態を模倣するような形態をとった反衝動が、ケレンというトリッキイな芸術をうみだした。主体の外部にあって分裂を装い、しかしその内部では辛くも統合を保ちつつ、他人 の目をくらます点に目標をおいた早替り劇を、芝居人は取りかえ引きかえ案出したのだ。
明治以降、これらが卑しいと斥けられたのは、芝居人たちが、かつて彼ら抑圧した側に心身を売りわたし、その走狗たらんとしたからではあるまいか。それと引きかえに、彼らは市民権をもらいうけ、あっぱれ芸術家に成りあがった――すくなくとも、カタチの上だけでは。
しかし、カタチが変質すればココロも変質せざるをえない宿命をもつ演劇である。それゆえ明治以降の歌舞伎は、もう、名もない庶民たちの自己表現の場ではありえなくなってしまったのである。
この詩の中には少しでも意味不明瞭なものは一語もない。どこにも偶然もなければ、二通りの意味に取れそうなものもない。《アンナ・ブルーメに寄せて》は、明瞭な、分り易い、考えぬかれた、アイロニカルな詩なのである。 ――A・アルノルト「クルト・シュヴィッタースの《アンナ・ブルーメに寄せて》はナンセンス詩だったのか?」(井本晌二訳、『ユリイカ』1979年3月臨時増刊所収)
Oh, good eveninkle, I'll man's road evening
――または殺人者のようなもの|mataji|note
おお 君、私の二十七の感覚の恋人よ、私は君に愛する!――
君が 君の 君を 君に、私は君に、君は私に。――私たちは?
――クルト・シュヴィッタース「アンナ・ブルーメに寄せて」
ある日、学校から帰った私をとらえて母が奇妙な宿題を課した。「裏の氏神の境内にある曲がりくねった松の大木が、どのようにしたら真っ直ぐに眺められるか、考えてみろ」というのである。(……)問題は少年の私にはあまりにも高等すぎた。翌日まで考えつづけた私はついに屈服して母に答を求めた。「曲がっている木を曲がっている木としてそのまま眺めれば、真っ直ぐに見ることができる」――これがそのときの母の答であったが、分かったような分からにようなこの答を聞いて、私はあっけにとられた記憶がある。しかし、この言葉は今もなお私の脳裏に生きている。私と『荘子』との結びつきが、このころからすでに約束されていたともいえる。 ――福永光司『荘子――古代中国の実存主義』