zakki no.18

[2021.11.18 - 2021.12.17]

2021.12.17 fri. link

ジャンとポール

2021.9.3 fri.

チョキが飛ぶ、グーが飛ぶ、江戸時代の剣士が斬る
「武蔵です」
「小次郎です」
一人で旅をする、エリカの咲く村に行く
隣の部屋で、女中に生ませた子が泣いている
「武蔵です」礼を言って去る

メロディは付いている。
なんとかしてやれ、生きてるうちに。

2021.12.16 thu. link

12月10日記事関連
Music from very short C programs - Continuation - YouTube

彼の文体は生彩がなく、中性的である。ひとたび確認の領域――つまり、公然たる陳腐さ、《……がある》とか《ある距離のところに位置している》とかの領域――からはみ出すたびに、……

と11月初めの日記にあり。
そのころ読んでいた本からの抜書らしいが出典不明。

うしろ姿の蛇みたいなやつ

2021.12.15 wed. link

通常の書き言葉の意識の干渉を排除し、鋳型によって製造される偽のリアリティを破壊して、断片的にスポットをあてた「事実」をとり出す彼の方法は、シュルレアリストのそれにきわめて近いといえるかもしれない。「自然発生的なものは自分の意志で作ることはできない。しかし、予期しえない自発性の要素は一対のハサミで導入できる」と彼は言う。悪とは、個人の生活の自発性を損なうものである。外側から人間の生活を規制し支配しようとする悪の力に対して、彼は「切り刻み」の方法を対置し、自己を圧迫してきた既成の秩序を破壊しようとしたのである。 ――ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』訳者(鮎川信夫)解説

ふつうに起こりうることを人間の頭は考えつかない。だからカットアップが有用なのだ。――という意味のことをバロウズは言ったのだろう。人真似を積み重ねて人知を超えようとする人工知能の戦略とは異なる。人知を基盤とする人工知能 vs. 人知を信じないカットアップ。
些事だろうが、一対のハサミとは。引用は1987年初版の河出書房新社版から。

2021.12.12 sun. link

考えないと文章は書けない。

あ、カナブン
飛んだ
飛んでた
消えた

これくらいなら、あまり考えなくても済む。
問題は、もっと複雑なことを言わなければならない時。
その時はやはり論理的能力が要る。

考え深くない人でも書ける方法。
それを追究する。――と、10年前の年頭に宣言してた。

2021.12.10 fri. link



10年前の今日、YouTubeで見たビデオ。
t*(((t>>12)|(t>>8))&(63&(t>>4)))
こんな断片みたいなプログラムで音楽が生成できてしまうという。理解はできず。

今朝の発見。ネタ元のブログ記事がまだ残っていた。
- 1行のコードからアルゴリズム交響曲 - どのように、そしてなぜ?
- 1行の音楽プログラムの深い分析

2021.12.8 wed. link

昨夜の mataji-bot から、

Yukau は、満足して死ぬことができ
それまでは、川流れていすゞ
――私は夜、おそらく何かを待っていくつかの古…|mataji|note

Yukau なる人物が死んで、彼/彼女の手をはなれた五十鈴が川を流れてきたのだろうか。
その理解だと出来事の順序と折りあえない。
まず「川流れていすゞ」という状況があって、それから Yukau が満足して死ぬ。

記憶のなかの出来事が時間的順序と矛盾すること。
因果の論理的関係は正しいのだが、時間的に結果が原因に先行しているなど。

2021.12.7 tue. link

磁石の針は止まる前にふるえる。

インナ タバコって、へんなもんだな。タバコすう人は、おちついてみえる。そいで、おちついた人のやる通りやって、タバコのむと、おれもおちつくみてえだ。

ローマ (微笑)手を出してみな。

インナ (手を出して)ダメだなあ。ふるえてるもん。

ローマ ダメじゃねえさ。牛みてえな野郎なんか、おれは買わねえからな。やつらは鈍感なだけよ。何事にも悲しまねえし、だれも悲しませねえ。シンケンじゃねえのさ。いいからいいからコマコマっとふるえてろよ。磁石の針は、とまる前に、ふるえるもんだぜ。おまえの手はな、北極がどこにあっか、知ろうとしてんのさ。それだけのことよ。

――ブレヒト「おさえればとまるアルトゥロ・ウイの栄達」(長谷川四郎訳)(『ベルトルト・ブレヒトの仕事 4 ブレヒトの戯曲』所収)


ローマのモデルは突撃隊を率いたエルンスト・レーム。インナはローマの子分。
戦闘の開始をまえにして震えるインナを的確なアドバイスで肯定してやったローマだが、ウイに裏をかかれて子分ともども殺されてしまう。

2021.12.6 mon. link

「た」ではじまる
たぬきの「き」からきつねが生まれる
たぬきのきつね狩りである
たぬきの群がきつねを追いつめる、包囲する
きつねはもうどこへも行けない
ただその場で
むだな宙返りをくりかえす
きんいろの目をひからせて迫るたぬきの群
それほどのきょうあくなたぬきの群がいるからには
ぶたいは四国である
月の夜だったりしてもいい

タイトルは「詩法」。10年前の今日書いた詩論的な詩。
何を言ったらいいのか、言いたいことなど何もない、そんなときの逃げ場としての方法論。言いたいことはないが、言いたい欲求だけはある。そんなときの中野駅北口
消極的には逃げ場だが、積極的には、何かを掘り出すための――何が出てくるかはわからないが――とにかく何かを引っ張り出す手がかりとして。
たぬきの「た」にしても、いろはの「い」にしても、安上がりなことこの上なし。ただの一文字からはじめた尻取りで何かが出てくるのだから、四国の月の夜みたいに、やってみる価値はある。方法論に終わってしまって、方法論から抜け出せなくなったら、方法論の人になればいい。

2021.12.4 sat. link

昨夜の mataji-bot。

道楽もたいていやりつくして
最後に地面へ飛ぶのだが
大火の晩に、たびたび劇場へでかけては
いろいろいろな見世物を、かたっぱしから見てきたお陰か
天高く何があろうと
おなじ側のおなじ曲乗り
――天高く何があろうと|mataji|note

人生の楽しみをやりつくした男が、ビルの屋上から身を投げようとしてるのか。
だが、生きる気力をなくしたとかではなさそう。ビルのあいだに渡したロープの上で曲乗りでもやってみせるのではないか。

2021.12.3 fri. link

抑圧の反動としての早替り芸。
『桜姫東文章』のような多重人格的な物と『於染久松色読販』(通称『お染の七役』)に代表される早替り物を対比する文脈で、以下、落合清彦『百鬼夜行の楽天――鶴屋南北の世界』(1975年)から。

 抑圧が強く煩瑣になればなるほど、それらをかいくぐり、そこから逸脱し、抑圧をはねかえそうとする衝動が強くなるのは当然である。その逃道すら封じられたとき、無力な者たちは、どういう反応をおこすか。
 抑圧の煩瑣な形態を模倣するような形態をとった反衝動が、ケレンというトリッキイな芸術をうみだした。主体の外部にあって分裂を装い、しかしその内部では辛くも統合を保ちつつ、他人ひとの目をくらます点に目標をおいた早替り劇を、芝居人は取りかえ引きかえ案出したのだ。
 明治以降、これらが卑しいと斥けられたのは、芝居人たちが、かつて彼ら抑圧した側に心身を売りわたし、その走狗たらんとしたからではあるまいか。それと引きかえに、彼らは市民権をもらいうけ、あっぱれ芸術家に成りあがった――すくなくとも、カタチの上だけでは。
 しかし、カタチが変質すればココロも変質せざるをえない宿命をもつ演劇である。それゆえ明治以降の歌舞伎は、もう、名もない庶民たちの自己表現の場ではありえなくなってしまったのである。

2021.11.30 tue. link

これも悪くない、「偶景」全文。

街角でケムに巻いている
漢字で書けば煙だが、ケムと読む
ケムに巻いているのである

ダダダッと走り出す

公設や私設のガードが駆けつけても
もうそこには誰もいない
その人物と思われるそいつはすでに別の街角にいて
素知らぬ顔でケムに巻いている

どうしたら人に読んでもらえるか。ここでは太字にしてみたが。

2021.11.29 mon. link

Anna Blume: Dichtungen

この詩の中には少しでも意味不明瞭なものは一語もない。どこにも偶然もなければ、二通りの意味に取れそうなものもない。《アンナ・ブルーメに寄せて》は、明瞭な、分り易い、考えぬかれた、アイロニカルな詩なのである。 ――A・アルノルト「クルト・シュヴィッタースの《アンナ・ブルーメに寄せて》はナンセンス詩だったのか?」(井本晌二訳、『ユリイカ』1979年3月臨時増刊所収)

詩の全訳は上記『ユリイカ』の論文にあり。
長くもない30行ほどのうちで文法的誤りが繰り返され、意味不明な事物や喩えが頻出し、書き手の教養の乏しさをうかがわせるのだが、これについて論者のアルノルトは、アンナ・ブルーメを寄席の逆立ち芸人とし書き手を同じ寄席の道具係と仮定すればすべて説明可能であるとする。その上で、冒頭の siebenuntzwanzig(27)という数値の検討からはじめて、最終行の Tier(動物)と dir(お前に)の語呂合わせに至るまでを詳論し、「明瞭な、分り易い、考えぬかれた」詩であるとした。
言うまでもなく、考え抜いたのは作者のシュヴィッタースであって、道具係の少年ではない。いや、そうではないな。少年もまた考え抜いたのである。

アルノルトによると、シュヴィッタースは100本ほどのナンセンス詩を残したが、ごく少数の初期の詩だけは意味を担っていて、「アンナ・ブルーメに寄せて」はそのうちの一本である。よりによって――とアルノルトは言っている――、論敵たちはシュヴィッタースの詩のうちでも最もナンセンスから遠い作を取り上げて、シュヴィッタースのナンセンス詩の見本とした、と。

2021.11.28 sun. link

Oh, good eveninkle, I'll man's road evening
――または殺人者のようなもの|mataji|note

文法の破れ。

おお 君、私の二十七の感覚の恋人よ、私は君に愛する!――
君が 君の 君を 君に、私は君に、君は私に。――私たちは?
――クルト・シュヴィッタース「アンナ・ブルーメに寄せて」

アンナ・ブルーメなる女性への愛を語る、あるいは打ち明ける形で書かれた詩の冒頭。人称代名詞の格変化を間違えて、三格(君に)と四格(君を)が入れ替わっている。
クルト・シュヴィッタース(1887-1948)はダダイズムの周辺にいたドイツの美術家・文筆家。格変化の誤りは故意。
ダダの文学では常識的感覚からの逸脱が尊重されるが、文法からの逸脱はどうか。「アンナ・ブルーメに寄せて」で文法の誤りが頻出するのは、教養の乏しい語り手が仮定されているためで、作者が自身の表現術として誤りを引き受けているわけではない。

2021.11.27 sat. link

ある日、学校から帰った私をとらえて母が奇妙な宿題を課した。「裏の氏神の境内にある曲がりくねった松の大木が、どのようにしたら真っ直ぐに眺められるか、考えてみろ」というのである。(……)問題は少年の私にはあまりにも高等すぎた。翌日まで考えつづけた私はついに屈服して母に答を求めた。「曲がっている木を曲がっている木としてそのまま眺めれば、真っ直ぐに見ることができる」――これがそのときの母の答であったが、分かったような分からにようなこの答を聞いて、私はあっけにとられた記憶がある。しかし、この言葉は今もなお私の脳裏に生きている。私と『荘子』との結びつきが、このころからすでに約束されていたともいえる。 ――福永光司『荘子――古代中国の実存主義』

djack driven、出発点にもどる。

2021.11.26 fri. link

昨日朝の mataji-bot から。

充電して、家の近所の遺跡を歩く
右へ右へと身体がかしぐ
委員会宛の手紙を持って
彼の母親の妹の下のほうが先着し
次の夜、わたしが到着した
――「この遺跡は、四人ではじめて登った遺跡」

壊れ具合がいい。手入れの必要なし。
人に見てもらうために動かしてるボットだが、とりあえずは推敲の機会を運んでくる。
自由ということ。とくに自分からの自由。自分離れ。

この遺跡は、四人ではじめて登った遺跡
彼らの娘と弟と妹、Drought の昆虫

2021.11.25 thu. link

一昨夜の mataji-bot は、また「遠くきこえる狼のほかに」
このごろのお気に入りらしいが、現象に偏りがあるように見えたらそれはランダムであることの現れ。

プラスと思って切った札がすべてマイナス札。

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あなたはアジアのブリキ男
噂になったりならなかったりして30年
今もときどき現れては消える

2021.11.24 wed. link


この八岐を殺す者は
なかば燻り、かすかに動くどちらの海道をのぞいても
俄然として邪なる者の、彼と彼の唇のあいだ
この八岐を殺した者の

古い心臓の上に吹きこむ烈風
顔面に毒 or 黄銅
この八岐を殺した者の

2024.4.14 note.com 投稿
この八岐を殺した者の|mataji

2021.11.23 tue. link

そしてまたも信州でパルチザン発生の報。
駆けつける近隣の駐在員たち。
「三度目は喜劇かね、惨劇かね」
襲いかかるブルドーザー。
さらに凶悪の気配を増す一茶の笑い。自由。

久延毘古(くえびこ)
日本神話の神。海上をやって来た神の名がわからなかったとき、大国主命に、それは少彦名命であると答えた神。案山子のことという。「この神は足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」(古事記)。

2021.11.22 mon. link

昨夜の mataji-bot。

樹林にむかう男と夜鳥の壁の
なんと長い尾であることか。
木立ちのなかで休みなしに鳴く虫の音の
半分しかきこえないその時どき。
遠くきこえる狼のほかに|mataji|note

2021.11.21 sun. link

それPatari弾、Kimasure Patari|mataji|note
読みは、ソレ、パタリダン、キマスレパタリ、か。

🌙 × The Third Man (1949) dir. Carol Reed

2021.11.20 sat. link

今夜もわたしは蝦蟇となって
月光の庭を見ていると
あたりはもう何年かしている
どこにどうして、昔から、笹竹が外にはみ出し|mataji|note

ときどき中野駅の北口で演説している男がいる。
ブロードウェイから出てきた者――たとえば私――と顔があうと決まって視線をはずす。
何を言ってるか、こちらに聞く気がなければ言語明瞭な感じはある。けれども聞き取ろうとすると不明瞭。文法も意味もおかしい。さらに聞き取ろうと近づくと、語尾を濁す。
聞かれては困る演説をしている。
いや、聞かせる内容などない。内容のないことを知られるのが困るのだ。
言いたいことはない。けれども言いたい。
俺がここにいる。俺の言うことを聞け。いや、聞くな。
そんな演説だった。ずいぶん昔のことだが。

2021.11.19 fri. link

事物を元の文脈から引き離して別の場所に置く。

泉 (デュシャン) - Wikipedia

蜘蛛娘のこと。
それから二日ばかり後、両国国技館裏の見せ物小屋で、またしても非常な珍事が起こった。
そこの広っぱには、常小屋ではなくて、ときどき地方回りの足だまりのようにして、小さな見せ物がかかることがある。ちょうどそのときは、いかもの中のいかものともいうべき蜘蛛娘の見せ物がかかっていた。
「へえ、人間の腕をね」

元の文脈は江戸川乱歩の『盲獣』
note.com に出したが、その後少し手を入れた。
蜘蛛娘|mataji|note

2021.11.18 thu. link

種村季弘『ぺてん師列伝』目次

ケペニックの大尉
制服の無頭人
二人のヴィルヘルム
贋のプロレタリア
王子と乞食
贋の王子
女ぺてん師ザビーネの冒険
少女服の法学博士
ブダペストの赤と黒
女闇公房の使者

贋金の作り方
贋金の使い方

このうちはじめの10本は、1981年、『ユリイカ』に連載。
終わりの2本は、1981年刊『文化の現在・第8巻《交換と媒介》』所収「贋金の作り方」を分割して加筆。