夜霧の時代
↑霧日数の経年変化、東京と横浜。(出典)
50年代、60年代の日本では、都会の霧を歌った歌がさかんに作られ、ヒットした。
70年代に入ると霧の歌は歌われなくなった。少しずつは作られていたのだろうが、ヒットはしなくなった。
歌われなくなった主な理由は、霧が発生しなくなったからだろう。
ヒット時期と上の図を対照させると、そう考えられる。
夜霧を歌ったヒット曲にこんなのがあった。カッコ内は歌手。
1956年 哀愁の街に霧が降る(山田真二)
1957年 夜霧の第二国道(フランク永井)
1959年 夜霧に消えたチャコ(フランク永井)
1960年 霧笛がおれを呼んでいる(赤木圭一郎)
1964年 霧の中の少女(久保浩)
1967年 夜霧よ今夜もありがとう(石原裕次郎)
1968年 霧にむせぶ夜(黒木憲)
「夜霧のしのび逢い」というのもあった。もとはクロード・チアリのギターで世界的にヒットした曲だが、日本では岩谷時子が「夜霧の…」として歌詞を付け(1964年)、多くの歌手がカバーしている。
この種のもので最初というと、戦後間もない1947年、映画『地獄の顔』の主題歌としてディック・ミネが歌った「夜霧のブルース」あたりか。
この映画はのちに『夜霧のブルース』と題して石原裕次郎主演でリメークされ、主題歌も裕次郎が歌った(1963年)。
夜霧を歌った歌は70年代で歌謡シーンから消える。
76年のキャンディーズの曲「哀愁のシンフォニー」は試作段階では「霧のわかれ」というタイトルだった。どちらの歌詞も霧を背景に書かれているが、前者では「白い霧」であるのに対し、後者のプロトタイプは「夜霧の街に取り残されて…」と夜霧を歌っている。
もう夜霧が受ける時代ではない、そういう判断もあったのだろうが、じつは受ける受けないという以前に、このころすでに都会の夜の霧は激減していた。
「哀愁のシンフォニー」の出た76年は、上の図で東京の年間霧発生日がほぼゼロに落ち込んだ年にあたる。
[仮説] 歌謡曲における夜霧の時代は1947年に始まって1976年に終わった。