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2016-08-02
ジュラシックホール ver.2
トイレの床一面に草が生えていた。
生えているどころではない。伸びた先は井山の背丈を超えている。形はゼンマイに似ているが、ゼンマイやワラビならこれほど高くは伸びないだろう。
草むらをかき分けるみたいにして小便だけすますと、井山は近所に住むアパートの大家に電話をした。
大家の爺さんは10分ほどでやってきた。勢いよく二階の井山の部屋に上がってきて、トイレの中を見るなり、
「あんた、まさかこれ大麻じゃあるまいね」
と言った。
トイレの中で長く伸びた草が大麻でないことは、井山にはわかる。大麻なら実家のある栃木あたりでは森や藪で自生していて、いくらでも見てきた。じつをいえば、乾燥させて吸引でできるようにしたのを、商学部の友人のマンションで試したこともある。
「とにかく警察に来てもらうよ」
大麻ではないという井山の言葉を無視して、大家は警察に電話をかけてしまう。
「異常事態なんだから」
とも爺さんは言った。
たしかに異常ではある。犯罪ではないにしても、ひと晩でトイレの中が草ぼうぼうになってしまうという、ありえないことが起きたのだ。家主なら警察に知らせるのは普通の対応かもしれない。
しかし参ったな、と井山は思う。尿検査をされて、陽性反応だったらどうしよう。友人のところで大麻をやってから一年以上たっている。まさか今になってまだ陽性なんてことはないだろう。それに、目の前に生えている草は大麻ではない。だったら、尿検査をされることにはなるまい。そうは思ったが、なんとなく不安はぬぐえない。
「栃木とか群馬とかは大麻がそこらに生えてるらしいね」
と警察を待つあいだに大家が言った。そんな知識はあるのに、大麻がどんな形をしているかは知らないようだが、とにかく、かまをかけてきたのだ。井山がどこかで大麻を採ってきて栽培してるのではないか、と。
「まあ、生えてますけど」と井山は応じた。「でも、これ大麻じゃないですよ」
「そうでしょう、そうでしょう。あんたが言うなら大麻じゃないんだろう。だけどね、心配なんだよ。大家といえば親も同然、店子といえば子も同然てね、子供の部屋で妙なことが起きてるんだから、心配事はさっさとつぶしておくほうがいい」

パトカーが来るのが二階の窓から見えた。アパートの前に車を止めると、すぐに警官が二人、井山の部屋に上がってきた。
「ああ、これね」と警官の一人が言った。驚いた様子ではない。
「ジュラシックなんとかだな」ともう一人が言った。
二人の警官が断片的に話したことと後でわかったことを突き合わせると、この時点で次のようなことが起きていたらしい。
時空飛行船というものが過去から未来にむけて飛行をつづけている。
飛行船は人工知能(AI)と操縦者の脳波で動いているが、ジュラ紀の時空を飛行中に人間の操縦者が恐竜に食われてしまい、いまは代わって操縦席にすわった爬虫類の脳波で動いている。
その時空飛行船が、過去と未来のあいだにある現在を通過中だという。
そのため現在のあちこちに時空の穴があいてしまった。井山の部屋のトイレで起きたことも、そうした穴の産物だという。

「ジュラシックホールとか言うらしい。あちこちで起きてるよ。あんまり心配しなくていいという話だが」と警官の一人が言った。
「何を言ってんですか、勝手に穴なんかあけられて」と大家が言葉を尖らせた。「あたしはアパートのあがりでほそぼそ食ってるんですよ。誰が責任を取ってくれるんですか」
「責任かあ」と警官。「責任あるのかなあ、誰が取るんだろう」
「どうして、そう呑気にしてられるの? 人が三人やられたんでしょ。殺人事件ですよ」
「殺人と言ったって、やったのは恐竜だよ」
「時空飛行船とかいうのを操縦できる恐竜なんでしょ。そのくらい知能が高いんなら責任能力だってあるでしょうに。あのね、あたしなんか車もろくに運転できない。責任能力なんて言われたくないですね、もともと運転、下手なんだから。このあいだもね、うちの門柱で脇をこすって、けっこう大きな傷だったし、修理代かかりましたよ。このうえアパートの修繕なんてことになったら、破産ですよ、破産。年金なんかじゃ食ってけないし。いや、その恐竜連中のことだった、そいつら責任能力あるんだろ」
大屋の愚痴とも責任回避ともとれる言い分を無視して、警官は時効の問題を持ちだした。この件はすでに時効ではないか、と。
「あん? あんた、警察の人でしょ、違うの、偽警官なの? 殺人事件に時効がなくなったの知らないの?」
「そういうけど、大屋さんね、1億年とか2億年とかの昔の事件だよ。そんな過去にさかのぼって現在の法律を適用できるのかなあ」
「ええっ、何なの、その1億年とか2億年とかって」
「ジュラ紀ってのが、そのくらい昔なんだってさ、よく知らないけど」
「あんた」と大屋の爺さんは井山に顔を向けた。「あんた、この人たちの言っていること、わかる? 1億年とか2億年とかジュラ紀とか」
「ジュラ紀というのは学校で聞いたかな。そんな昔のことだったとは知らなかったけど。いや、驚きました」
「なに驚いてんの」
「だから、ずいぶん昔のことなんだなって」
「ほかに驚くことないの?」
「驚きましたよ、この草だもんね。だから大屋さんに知らせたんじゃないですか」
「こんなもの、いちいち知らされても困るんだよ。トイレに草が生えてるとか、その程度のことは店子が自分で始末してくれないと」
「じゃあ、何に驚きゃいいんですか」
「だから、さっきから言ってるじゃないか。驚くことなんか何もないって」
さっきからって、大屋の爺さん、そんなこと言ってたか? やはりボケてるのだろうか。それともトボケてるのか。
「驚くようなことはないの?」
「ありません」大屋は言いながら、二人の警察官に顔をもどした。「警察か区役所か、どっちかが責任をはっきりしてくれれば、驚くことなんかありません。え、どうなんですか、誰が責任取ってくれるの?」
「まあ、まあ、大屋さん」と警官が応じた。「このジュラシックホールというやつね、一日か二日で消えるらしいんです」
「消えるの、ひとりでに?」
「そうなんです。どこのホールも何もしないのに消えてしまう。そういうわけだから、二、三日して、まだ消えなかったら知らせてください。まあ、消えてるはずですがね」

パトカーがアパートの前を離れるのを待って大屋は言った。
「やれやれ、大麻ではなかったらしい」
「そりゃそうですよ」と井山。「もともと大麻じゃなかったんだから」
「もちろんあたしだって、大麻だなんて思ってませんよ」
「思ってなかったの?」
「思ってません。だけど親だからね、いちおう心配はするわけよ。いろいろ物騒なことが多いから、あんたも気をつけておくれ。そうそう、そんなことより学校だ。あんた、学校行ってるの?」