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2017-01-20
相合傘メモ(続き)
君と我、南東の相傘で、逢はで浮き名の立つ身よの
- 小野恭靖「『隆達節歌謡』全歌集」
「慶長四年八月豊臣秀頼献上本下書」という文書にあるという。
「南東(みなみひがし)の相傘で」の意味がわからないが、全体としては「離れていて会えないのに、浮き名ばかりが立つことよ」くらいの意味か。慶長4年(1599)は関ヶ原戦の前年。江戸幕府開幕以前。

君と淀とが、相合傘の袖と袖、煙草恋草伽となり、煙吹き交ぜちらちらと、頭に雪の置き頭巾…
- 近松門左衛門『津國女夫池』
『津國女夫池』は享保6年(1721)初演。

アレアレ、向側を通る日傘を見なせへ。ドレドレ、ハゝア、夫婦とおぼしき者、相合傘で、しかも欣々然として通る。(…)高慢な面をして相合傘は出来さねへネ。よつぽど鉄面皮(あつかましい)やつらだ。(…)しかし、土地の風俗といふものがあつて、あれも京都などで見ると見苦くないテ。すべて京の町は女と相合傘はおろか、娼婦芸妓などを引連て、手をひき合てあるくが、一向目だゝぬ。江戸で見たがいゝ。それこそ口々に毒づいて大騒ぎだが、上方は人気が和いせいか、トント穏便さ。
- 式亭三馬『浮世風呂』第四編巻之上
江戸では相合傘を見かけると毒づいたりするが、上方では騒ぎにならない、と。
『浮世風呂』第四編は文化10年(1813)刊。
「日傘」とある。晴れた日でも相合傘をしてたのか。


- 歌川国芳「荷宝蔵壁のむだ書」
嘉永元年(1848年)頃。「おそめ|久松」のいたずら書きあり。

上方では浮世草子の時代、江戸では師宣や一蝶の時代(…)今回の発表で報告できる最も古い相合傘の図像がそこに出現する。まず井原西鶴(1642年~1693年)の『好色一代男』(天和2年)と菱川師宣(?年~1694年)の『やまとゑの根元』(元禄元年)である。より厳密にいえば『好色一代男』から『やまとゑの根元』への変化に鍵がある。『やまとゑの根元』は、大坂で出た『好色一代男』の江戸における焼き直し版であることはよく知られている。その両方に共通した物語で師宣の挿絵にだけ相合傘が登場する。「袖の時雨はかかるが幸い」と題した話では、少年の世之介が雨に降られ、追いかけてきた男が傘を差し掛け、やがて二人は睦み合う仲へと発展する。西鶴自筆とされる原作の挿絵では、確かに傘を持った男が走り寄っているが、世之介は知らぬげに先を行く姿で表されており、古くからある「差しかけ傘」の躰にすらなっていない。西鶴はむしろ筋書きどおりに事の発端を絵にしたわけである。ところが師宣の挿絵では、二人は早くも傘の下にあって、互いに親しげに顔を見合わせる様子が描かれており、紛れもない相合傘の図となっている。
これと同時代の英一蝶(1652年~1724年)にも相合傘図の作例があることは偶然ではないだろう。
- 金志賢「相合傘図像の源流を探る-井原西鶴『好色一代男』と菱川師宣『やまとゑの根元』の間」