どんな政治体制もいつかは終わる
民主制のもとでは、政治参加の道が開けているにもかかわらず、「誰もわたしの利害を代表してくれない」と疎外感をいだく層がかならず現れる。その結果、──
著者は民主制の崩壊を危惧しているはずだが、民主制を尊いとする価値観を棚上げしてながめるなら、ここで簡潔に描かれた体制崩壊のあり方はロジカルにドラマチック、そして、それゆえに魅力的。ある政治体制が、その体制が本質的にかかえるパラドックスによって崩壊する、いや、崩壊したというのだから、これは論理の具体的実現にほかならない。この論はマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を枕にしているが、マルクスがあんなに嬉しそうにナポレオン3世のクーデターを語ったのも、出来事の論理性あるいは論理的解読の有効性に惹かれたからだろう。
上の論文は、1997年に行なった講演の記録を2000年に加筆・修正したものという。現在の民主制諸国の動向にもつながる論だが、さらに一般化すれば、──
どんな政治体制もいつかは終わる。民主制が自らの制度を否定する政治家や政治制度を自ら呼び込んでしまうのも民主制の終わり方のひとつ──と考えるなら、これはかならずしもパラドックスではない。たんに科学といっていい。
あるパラドキシカルな代表者が出てくることがあります。「自分は誰にも代表されていない」という感覚(をもっている人々)を代表する者が、真の代表者として登場することがあるのです。代表から疎外された人たちがたくさんでてきて、その疎外感が深刻になった時には、一発逆転式に、その「代表不可能性」を代表する者が出てくる蓋然性が出てくるのです。普遍的な代表の不可能性を代表する自己矛盾的な代表者が、真の代表者として、人民に迎えられるわけです。ナポレオン三世がそうです。ヒットラーもそうだったのです。ヒットラーは非合法的な方法で代表になったわけではなく、きわめて民主的なワイマール共和国の中で、合法的に、圧倒的な人気を獲得していったのです。つまり、民主制の中で代表性が機能障害になっているときに、その機能障害そのものを代表する代表者が出てくることがあるというパラドックスです。(大澤真幸「ヴィトゲンシュタインのパラドックス・代議制のパラドックス」(林晋編『パラドックス!』所収))
著者は民主制の崩壊を危惧しているはずだが、民主制を尊いとする価値観を棚上げしてながめるなら、ここで簡潔に描かれた体制崩壊のあり方はロジカルにドラマチック、そして、それゆえに魅力的。ある政治体制が、その体制が本質的にかかえるパラドックスによって崩壊する、いや、崩壊したというのだから、これは論理の具体的実現にほかならない。この論はマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を枕にしているが、マルクスがあんなに嬉しそうにナポレオン3世のクーデターを語ったのも、出来事の論理性あるいは論理的解読の有効性に惹かれたからだろう。
上の論文は、1997年に行なった講演の記録を2000年に加筆・修正したものという。現在の民主制諸国の動向にもつながる論だが、さらに一般化すれば、──
どんな政治体制もいつかは終わる。民主制が自らの制度を否定する政治家や政治制度を自ら呼び込んでしまうのも民主制の終わり方のひとつ──と考えるなら、これはかならずしもパラドックスではない。たんに科学といっていい。