折口信夫、ルンペン・プロレタリアを歌う
折口信夫「昭和職人歌」の冒頭の一首。題は「さんか」。
歌集『春のことぶれ』のうち「昭和職人歌」36首で歌われた職人は、さんかのほか、木地屋、教授、軍人、辻碁うち、ゑいとれす(ウェイトレス)、朝鮮人足、失業人、自由労働者(フリーター)、鍛工、怠業工人(サボタージュ中の工場労働者)。歌の数では、失業人8首、自由労働者5首、怠業工人3首などの順。
これらはマルクスの用語をあてればルンペン・プロレタリアにあたる。マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』であげたその顔ぶれは、
ともに浮浪的な階層に言及しながら、折口は共感を示し、マルクスは罵倒した。マルクスがルンペン・プロレタリアを嫌悪した理由は先日の記事「マルクスが浮浪者を憎んだこと」に書いたが、折口の「昭和職人歌」からも補強材料が得られる。
じつは「昭和職人歌」36種のうち最も多く歌われている職人は、怠業工人の3首の直後に10首が置かれている職名のない職人。ただし職名はなくても、詠み手として設定された人物の役割は歌の内容からわかる。
この人物はストライキ中の工場労働者。その限りではルンペン・プロレタリアではないのだが、行動はマルクスの描くルンペン・プロレタリアのそれを思わせ、マルクスならば間違いなく彼らを憎むことになるだろう。
交渉のため労働者を代表して同僚とともに経営者宅を訪れた彼は、まず客間の敷物に圧倒される。彼の日常の感覚からはずれた厚く柔らかい敷物の上を、おぼつかない足取りで歩みながら感じるのは、ああ、この敷物のうち足の幅ほどの資産も自分にはないのだというやるせなさ。その早すぎる敗北感に追い打ちをかける葉巻とコーヒーの香り。
葉巻の香りはただ部屋にただよっていただけか。それとも彼と同僚らは葉巻をすすめられたのか。そして、一人、二人は差し出された葉巻に手を出したのか。
やがてコーヒーが運ばれ、これには全員が手を伸ばす。
交渉を前に握手を求める経営者。
その腕はふくよかで、手はみずみずしい。
自分より若い主人のおおらかな存在感と広い見識に気圧された彼は、かろうじて、「階級に上下はない、資本家と労働者は対等だ」といった意味のことを吃りながら言うが、ただ強がってみせただけとの自覚はある。結局、体躯、容貌、資産、見識、弁舌、なにもかも及ばない相手との交渉でできたことは、泣きながら妻子の窮状を訴えることのみ。
ストライキ中の労働者に仮託してつくられた10首はここまで。
労使の交渉の結果は歌われていないが、想像はつく。労働者側の嘆願と経営者側の慈悲というあたりで交渉は決着したに違いない。プロレタリア側の戦線にいるべき層――とマルクスが見なした層――に属しながら、マルクスの理念にさからってブルジョワに取り込まれる者をマルクスはルンペン・プロレタリアと呼んだ。
「昭和職人歌」の締めくくりは、単独に置かれた次の一首。
これも職人名はない。
山住みの 心安さよ。
ぬすみ来し 里の鶏 も、
痩せて居にけり
ぬすみ来し 里の
痩せて居にけり
歌集『春のことぶれ』のうち「昭和職人歌」36首で歌われた職人は、さんかのほか、木地屋、教授、軍人、辻碁うち、ゑいとれす(ウェイトレス)、朝鮮人足、失業人、自由労働者(フリーター)、鍛工、怠業工人(サボタージュ中の工場労働者)。歌の数では、失業人8首、自由労働者5首、怠業工人3首などの順。
これらはマルクスの用語をあてればルンペン・プロレタリアにあたる。マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』であげたその顔ぶれは、
浮浪人、元兵士、元懲役囚、徒刑場からにげてきた苦役囚、ぺてん師、香具師、たちん坊、すり、手品師、ばくち打ち、ぜげん、女郎屋の主人、荷かつぎ、文士、風琴ひき、くずひろい、とぎや、いかけや、こじき、一口にいえば、あいまいな、ばらばらの、あちこちになげだされた大衆、フランス人がラ・ボエームとよんでいる連中
ともに浮浪的な階層に言及しながら、折口は共感を示し、マルクスは罵倒した。マルクスがルンペン・プロレタリアを嫌悪した理由は先日の記事「マルクスが浮浪者を憎んだこと」に書いたが、折口の「昭和職人歌」からも補強材料が得られる。
じつは「昭和職人歌」36種のうち最も多く歌われている職人は、怠業工人の3首の直後に10首が置かれている職名のない職人。ただし職名はなくても、詠み手として設定された人物の役割は歌の内容からわかる。
客間の氈
柔 に乗りゐる 我が足の
この幅にすら
當たる銭なき
この幅にすら
當たる銭なき
この人物はストライキ中の工場労働者。その限りではルンペン・プロレタリアではないのだが、行動はマルクスの描くルンペン・プロレタリアのそれを思わせ、マルクスならば間違いなく彼らを憎むことになるだろう。
交渉のため労働者を代表して同僚とともに経営者宅を訪れた彼は、まず客間の敷物に圧倒される。彼の日常の感覚からはずれた厚く柔らかい敷物の上を、おぼつかない足取りで歩みながら感じるのは、ああ、この敷物のうち足の幅ほどの資産も自分にはないのだというやるせなさ。その早すぎる敗北感に追い打ちをかける葉巻とコーヒーの香り。
よろしさは、
朝のたばこの 葉まきの香。
つくづくに、
われを さもし と思ふ
朝のたばこの 葉まきの香。
つくづくに、
われを さもし と思ふ
朝咽喉 をそゝる旨 し香 立つこうひ。
友も 友も
今は
手を伸べて居 る
友も 友も
今は
手を伸べて
葉巻の香りはただ部屋にただよっていただけか。それとも彼と同僚らは葉巻をすすめられたのか。そして、一人、二人は差し出された葉巻に手を出したのか。
やがてコーヒーが運ばれ、これには全員が手を伸ばす。
交渉を前に握手を求める経営者。
その腕はふくよかで、手はみずみずしい。
千人 の怨み負ふ顔か。
この顔が。
つくづくに
見れど、
朗らなりけり
この顔が。
つくづくに
見れど、
朗らなりけり
自分より若い主人のおおらかな存在感と広い見識に気圧された彼は、かろうじて、「階級に上下はない、資本家と労働者は対等だ」といった意味のことを吃りながら言うが、ただ強がってみせただけとの自覚はある。結局、体躯、容貌、資産、見識、弁舌、なにもかも及ばない相手との交渉でできたことは、泣きながら妻子の窮状を訴えることのみ。
くやしくも 涙ながれぬ。
あわれよ
と、妻子 のうへ言ふ
若き人の前に
あわれよ
と、
若き人の前に
ストライキ中の労働者に仮託してつくられた10首はここまで。
労使の交渉の結果は歌われていないが、想像はつく。労働者側の嘆願と経営者側の慈悲というあたりで交渉は決着したに違いない。プロレタリア側の戦線にいるべき層――とマルクスが見なした層――に属しながら、マルクスの理念にさからってブルジョワに取り込まれる者をマルクスはルンペン・プロレタリアと呼んだ。
「昭和職人歌」の締めくくりは、単独に置かれた次の一首。
旗じるし いふことをやめよ。
我どちは、
おのが面 すら
血もて塗りたり
我どちは、
おのが
血もて塗りたり
これも職人名はない。