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2018-12-29
ごろつき日本史
ごろつきの意味については二説ある。ひとつは、雷がごろごろ鳴るように人を威嚇して歩くからという説、もうひとつは、石塊がごろごろ転がるような生き方をしている者とする説。折口信夫は後者だろうとしている。
折口は「無頼」または「無頼漢」に「ごろつき」の読みをあてる。
以下は、折口のエッセイ「ごろつきの話」および「無頼の徒の芸術」に拠ったコンパクト日本史。

「ごろつきの話」では、うかれ人、ほかい人、野ぶし、山ぶし、念仏聖、虚無僧、くぐつ、すり、すっぱ、らっぱ、がんどう(強盗)、博徒、侠客、かぶき者、あぶれ者、町やっこ、舞々・舞太夫、しょろり・そろり、無宿者・無職者、これらの語が無頼=ごろつきのバリエーションとして用いられている。

折口によると、日本には古くから「うかれ人」の団体があり、異郷の信仰と異風の芸術(歌舞、偶人劇)を持って各地を浮浪していた。その後、海路・陸路の要地に定住するようにもなり、女人は売色にも従事した。
平安末期から「うかれ人」とは起源の異なる「ほかい人」が浮浪の群れに入ってくる。貴族勢力の失墜にあわせて衰退に向かった社寺勢力のもとから逃げ出した奴隷層が「ほかい人」。彼らは山伏・唱門師の態をとって巡遊した。
さらに同じころ目立ってきた別の浮浪者があり、諸方の豪族の子弟のうち惣領の土地を分けてもらえなかった者、あるいは戦争に負けて土地を奪われた者などが、新しい土地を求めて彷徨した。これが武士の起源。「武」という字をあてたためわかりにくくなったが、語源は「野伏し」、「山伏し」であろう。
それぞれの起源はちがっても、いずれも食うための浮浪なので、たがいに入り混じったり職を変えたりすることに躊躇はなかった。

平安期の武官と後世の武士は異なる。武官は結局のところ文官と同じ中央官僚だが、武士は地方から出た。
武官と武士が一時的に一致していたのが平家。

武家が土地に執着した時期と執着の薄かった時期がある。
本来の武家の性格はあきらかで、合戦記などを見れば、ある者が旗揚げして国々を歩くうちに、おおぜいが付き従って、最後に行きついた先で生活する。
木曽義仲が信濃を歩くと、それに従って都にまで入り、それきり信濃へはもどらずに都で果ててしまう。
相州小田原の早川氏が中国に移って、小早川の家を開く。
伯耆の名和氏は懐良親王について九州にくだり、八代あたりを根拠地として、遠く琉球までわたっている。
応仁の乱などがあると、どこからともなくどかどかと人がやってくる。
大阪冬の陣・夏の陣などにもごろつきが集まってくる。一人ずつ来るのではなく、親分格の者がおおぜいを引き連れてやってくる。

ごろつきが最も活発に動いたのは戦国末期。
歌舞伎の起原譚に名前の出てくる名古屋山三は、この時期のかぶき者、すなわちごろつき。山三は幸若舞いの舞太夫だっただろう、と折口は推測している。伝説によると山三は蒲生氏郷の寵を受けた有名な美少年で、やはり当時の有名な美少年に豊臣秀次の愛を受けた不破伴作がいる。伴作も山三と同じくごろつきで、彼らが主君に取り入る手段のひとつが男色であった。

後北条氏を立てた北条早雲の出身は確かではないが、らっぱか。「さらに探ってみると」と付け加えて折口が言うには、山伏あるいは唱門師か、と。
ばさら的・かぶき者的武将の代表に織田信長。
蜂須賀家の祖先小六はらっぱの頭領。
その小六に一時つかえた豊臣秀吉が、後には逆に小六を取り立てた。すなわち秀吉も、らっぱ出身。
徳川氏も、その始祖は放浪の僧。南北朝の新田氏につながる者が遊行派の念仏聖として諸方を流浪したのち、山間の小領主であった松平に婿入りした。三河の山間に今も多くの芸能が保存されているのは、この地方に徳川とかかわりを持った者が多く、徳川氏の時代になって手厚い保護を受けるようになったから。

徳川初期まで生き残った大名で、傭兵としてごろつきの力を借りなかった者はほとんどいない。
けれども、関ヶ原戦や大坂冬・夏の陣を経て世の中が落ち着くと、徳川氏や諸大名はごろつきの活動を抑えにかかる。傭兵的な働きをしたごろつきのうち、家人として落ち着いた者や村落に土着して郷士となった者などを除くと、都会に集まってくるしかなく、その中から親分・子分の関係を生かした人入れ稼業が生まれた。またこの層がつくりだした奴風俗は、そのモダン風味の刺激から旗本奴を生み、影響は京都の公家や宮中の女性にまで及んだ。
その他のごろつきは、芸能者、売色業、博徒・侠客などとして江戸期を過ごした。
江戸の文学も無頼の徒が生んだ。近松、西鶴、芭蕉にも無頼の味がある。