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2019-03-20
過去は言語的制作物か
『大森荘蔵著作集』第八巻から抜き書き。

「犬が走る」情景は易々想像できるが、「犬が走った」情景を想像したり、絵に描くことはできないだろう。――大森「過去の制作」

想起は想起であって知覚まがいや疑似知覚ではない。海の青さを知覚する、だがそれが青かったことを知覚できるわけはない。鳥が飛んでいる、犬が吠えているのを見たり聞いたりするが、鳥が飛んだ、犬が吠えたのを見たり聞いたりはできはしない。それら過去形を経験するのが想起であって、それは知覚とは全く別種の経験なのである。――同前

かりに言語以前の過去経験があるとしてもそれは形を持たない模糊とした不定形アモルフアスな経験である。それは確定され確認された形を持たない未発の経験でしかあるまい。それが確定された形を備えた過去形の経験になるためには言葉に成ることが必要なのである。そして言葉に成り過去形の経験に成ること、それが想起なのである。逆にいえば、想起される、言語的に想起される、ということによって過去形の経験が成るのであり制作されるのである。――同前

「不定形な経験」、「未発の経験」とは、具体的には?
経験といえる体をなす前の経験、原経験というべき段階の経験のあり方を考えること。

想起は言語的想起であるからこそ過去の意味は色や形や音や味としてではなく動詞の過去形の意味として了解されるのである。――大森「言語的制作としての過去と夢」

過去の一切は想起経験の中にある。「……した」「……だった」という想起そのものが過去を経験することであってそれ以外に過去なるものはない。想起とは以前の経験の二番煎じの経験などではなく、過去の初体験にほかならない。――同前

「動詞の過去形の意味として」とは、言いかえれば、ある出来事が過去において起きた出来事であることを了承するには動詞の過去形によるしかない、ということ。ただし、大森の説くとおり言語によるしかないかについては保留。

もうひとつ保留。
過去は言語的に制作されるものだとする説を述べるさい、大森は本題に先立って「物理学の時間である線型時間」の問題を持ち出し、本論に匹敵するボリュームをあてて線型時間批判を行ってから本題に移るが、この前置きの必要性がわからない。前置きがなくても論は成り立つと思うのだが。
過去を言語的事象と見る説と線型時間批判を結びつける意義は?